愛するものと死に別れる苦しみを仏教用語で愛別離苦という。
したり顔で「死があるから生を精一杯生きるんだ」という人がいますが
そういうことを言える人はどん底の苦しみを味わったことがない人ではないかと思う。
仏教を信じている方には悪いが私が仏教にあまり心惹かれないのは
この世の苦しみを根本的に解決するのではなく認知のあり方でその苦しみを
乗り越えていこうというところにあまり希望を感じないからである。
(※とはいうものの私は仏教の知識に詳しいわけではないので誤った認識があれば
ご指摘をしてください)
ペットが死んだだけでもかなり落ち込む。
これが愛する人間の死であればどうであろう。
やはり死は受け入れ難いのだ。
しかし、死という問題に対して深く考えていたのは実は子供の時だった。
まず、親の死を考える。
「お父さんが死んだらどうしよう」「お母さんが死んだらどうしよう」
死はやがて誰の身の上にもやってくることは子供でも分かっている。
そして、「自分が死んだらどうしよう」だ。
家に「家庭の医学」という本があったので子供の時によく読んでいた。
だから、死を免れない病気がこの世に存在することを知っていたし、
子供とてそういう類の病気に罹患する可能性があることを知っていた。
軽い神経症になるのではないかというぐらい死を恐れていた。
しかしながら、ある時から死のことを考えないようにした。
お釈迦様がおっしゃられているのと同じように答えの出ないことを考えるのは
時間の無駄だと思ったからだ。
聖書にはその死という問題を完全に解決する方法が書かれています。
少しでも、聖書が考える死というものがどういうものか興味を持たれましたら、
是非、バイブルスタディをお勧めします。