蜜柑草子~真実を探求する日記~ -3ページ目

蜜柑草子~真実を探求する日記~

常識と非常識、既知と未知。
それらを折り合わせながら、"真実"を探求する日記です。
更新頻度は気まぐれ。みかんが美味しい。
引用・転載は自由ですが、その時はURLを明記してください。

前編中編後編はこちら。

後編では、日本国および日本文化の核について書いておいた。
(人の和、自然との共生、永続性、物理的・情報的な付加価値の創造)
あとがきも含め、今回は、後編の内容の裏にある事情や補足、具体的な事例への適用について書いてみる。
前回の内容は、原理原則的なことを書いただけなので、それをもうちょっと具体的にしておく。

まずは、「人の和」という価値観についての裏側の話。
これは、筆者の経験上だけでなく、他人の話を聞いたり、いくつかの体験談を読んだりして決めた。
(但し、これだとエピソード主義に陥ってしまうので、前回の記事では普遍的な書き方をしている。)
よく聞くのが、「日本人は親切」という言葉。
日本人は中国・韓国・ユダヤのように血縁を頼れないため、
外国に行ったり移住する時は、たいてい孤独か、ほとんどコネ無しで行く。
そういう何も持たない日本人であっても、体現している文化の一つが、恐らく「親切」。
苦しいときは「お互い様」、困っている人には「親切」にする、といった具合に。
だから、日本文化の核として扱っている。

ある友人の話
これについては、個人的な話も書いてしまう。
個人的な話はみっともないのであまり書きたくないのだが、公共性も含むと思われるので書いてしまう。
筆者には、オーストリアのウィーンに住むカント好きの友人がいる。(もちろん、ハーバーマスも好き。)
親日派と言っていいと思う。少なくとも、知日派であることは間違いがない。
前回の記事で書いた内容もかなり話したと思う。
オーストリアも中国との経済関係を強めようとしているのだが(AIIBにも参加)、
その友人は「日本との関係を強化したいよ。」と、ため息まじりに言っていた。
「いやぁ、僕が外務大臣だったら、そうするんだけどね。」と答えておいた。
ちょっと前にも、扇子をプレゼントしてあげたら喜んでいた。
夜寝る前には、たまに日本のことを思い出すと言う。
一度などは、「日本の空港に降り立っている夢を見たよ!」と興奮気味に話していた。
その友人から聞いた言葉もやはり「日本人は親切」という言葉だ。
(筆者のことを指して言ったのではない。それと、こちらから尋ねたわけでもなく、誘導したわけでもない。)

ちなみに、知り合ったのはラテン語がきっかけだ。
移民の状況と一緒にエラスムス制度の話をしている時だったと思うが、
「みかんは、ラテン語を知っているか?」というので、
「Ja. scio. amicus, amice, amici, amico, amicum, amico...」
「populus, popule, populi, ...」と、二人で大笑い。
(背後には、ラテン語の学習法は昔からどこの国も変わらないんだね、という無言のやりとりがある。
ラテン語の名詞は5つか6つの格変化があって、それを覚えるのが定番の学習法。
チャーチルが嫌いだったという話は有名。)
「populusで思い出したけど、"Res publica est res populi."が好きだな。」と、僕。
「Cicero?」
「"De amicitia(「友情について」)"も読んだよ。」
「ハハハ。読んだ、読んだ。」
みたいな感じで盛り上がって仲良くなった記憶がある。
"In principio erat Verbum"(Ioannes 1:1)は、真実でした。

ところで、日本のTPPと同じように、ヨーロッパではTTIPへの強い反対がある。
TTIPの方もほとんど情報が公開されていないので、筆者もTPPの知りうる限りの情報を伝えている。
グローバル企業や国際金融資本への対抗は、国際的な連帯が重要だ。
(筆者の価値体系は、国際的な連帯も頭に置いて作っておいた。)
また、ヨーロッパの政策やヨーロッパの今後のあり方について話していて、ぶつかることもある。
特に、イスラム教徒への対処が難しい。筆者も頭を悩ませている。
ちなみに、極東の端っこに位置する島国の某首相の評価について聞かれたことも、もちろんある。
その時は、「自分の名を冠した経済政策の結果についてさえも
周りの人間達から情報遮断されている、ただの操り人形で、哀れなピエロだよ」という本当のことは言わなかった。
さすがにそれでは、その国の名誉に関わるため、
「信念は強いんだけど、アメリカや企業とかの圧力が強いからね。なかなか。」といった感じでお茶を濁しておいた。
まあ、そういう仲なので、「日本人は親切だ」という言葉もリップサービスということもないと思う。
ましてや、「得をしそうだから、おだてておくか」というような浅ましい根性でもないと思う。


安全保障と国民主権
次に、日本国や日本文化の核とは何か?ということと併せて考えたいのが、安全保障。
現在の安全保障の議論は、防衛白書にもあるように、軍事だけではなく、
国民の日常生活をいかにして守るためどうするか、という「総合的安全保障」の考え方が基本。
そこで重要になっているのが、サイバー空間。
サイバー空間上では、様々な種類のプログラムが動いており、
飛行機や戦闘機、衛星、ミサイル、原発、銀行、電車、その他のインフラもそれによって制御されている。
だから、サイバー攻撃を受けた時に、これらのシステムがぶっ壊れるような最悪の事態を想定するのが時代の流れ。
そういう最悪の事態をいかにして最小化するか、ということも安全保障を考える上では、大変重要。
筆者が作った価値体系は、市場システム、金融システム、行政システムのような
巨大なシステムやインフラがぶっ壊れた時のことを始点にとって作ってある。
ウルリヒ・ベックの「リスク社会」以降は、ごく普通の考え方だろう。
そういう最悪の事態を想定していないようなものは、日本国や日本文化の核心とはなりえない。
市場システムがぶっ壊れたくらいで無くなるようなものは、たいした文化ではない。
そういう最悪の事態が連続して起ころうとも残るものこそが、日本国や日本文化の核心であって、
多分、最後まで「人の和」という価値観は残る。

こうして最悪の事態を考えることは、「主権者」であるための条件の一つ。
全てのシステムがぶっ壊れ、たとえ自分1人になろうとも、それでも
「俺が、私が、日本国であり、もう一度建て直すのだ。」という気概を持つ人々を「主権者」と呼ぶ。
だから、日本社会や国家の嫌な事実、暗い未来を見て、起こりうる最悪の事態から
目を背けるような人々は、そもそも主権者になる資格を持たない。
民主主義とは、恐ろしく厳しいものなのだ。
そして、ここまで来てようやく「緊急事態」や「国家緊急権」ということを考え始めることができる。
これが「国民主権」という考え方。
だからこそ、前回も書いたように、国民一人一人の利益そのものが、国益なのだ。

これは、知識の多寡(たか)の問題ではない。
知識をたくさん持っていても主権者ではない場合もあるし、
知識を少ししか持っていない立派な主権者いる。
年齢も関係がない。
年を重ねていても主権者ではない人々はいるし、若くても立派な主権者もいる。
要は、気概、覚悟の問題なのだ。

そして、国を建て直す時には、価値観を必要とする。
どんな国にしたいのか。どんな国に住みたいのか。
そこには、どんな人々がいて、どんな暮らしをしているのか。


価値観の実装――共同体自治
それから、具体的な事例への適用について考えてみよう。
価値観を国内政治で実装する方法は、いくつかあると思うのだが、現状で合理的なものは宮台真司のモデル以外知らない。
宮台モデルのいいところは、ニクラス・ルーマンの社会システム理論をベースに、
政治・社会・経済・宗教・文化などの総合的な分野を一貫して扱っている点。
残りは、たいてい、ある特定の分野だけを扱ったモデルか、各分野の間で論理が貫徹しないようなもの。
そのため国家の方向性として採用するのは無理がある。
また、フィールドワークもしている点、倫理的な問題も扱っている点でも優れている。
宮台モデルは、「自分たち」で引き受けて考える「共同体自治」という方向だ。
共同体自治は、国家になるべく頼らないで、自治体や地域のボランティアグループ、NPO、家族などの集団が、
「自分たち」で助け合いながら自立して生きていけるようにしましょう、というやり方。
やる、やらないは別として、道州制もここに入る。

共同体自治のいいところは、国家の財政負担を抑えることができるだけではなく、安全保障上も合理的な点。
現代では、サイバー攻撃のリスクも高まり、市場システム、金融システム、行政システムといった各種システムの
崩壊リスクもさらに高まった。そういったシステムが崩壊しても、生き残れるようにできること。
例えば、高齢者の増加やGPIFの構成などを見ても、年金制度が"実質的に"破綻するリスクがかなり高いのは目に見えている。
("実質的に"、というのは、給付が月に1万円という場合も含むからだ。)
そうなった時に、個人が国家を頼るのは無理な相談なので、自分が所属する共同体を頼るようにする。
「自分たち」が苦しい時は「お互い様」だし、困っている人には「親切」にするというように。
最悪の事態を最小化することを目指せる。


もう一つくらい考えておこう。
それは、格差問題だ。
以前は、「格差そのものが悪いなんて言ってるのは、日本くらいのもの」、
「なぜ格差そのものが悪いのか?」といった議論がかなりあった。
でも、もうその話は、筆者の頭の中はもちろん、世界でも終了している。
2015年のOECDの報告書でも、高い格差は経済成長を阻害する、と指摘されている。[1]

そして、日本でも「格差そのものが悪い」ということが分かっている。
所得格差の高い地域では、住民の主観的健康観と幸福感が低い。
これは、一橋大学経済研究所の小塩隆士教授らの研究により実証されている[2]。
小塩教授らは、厚労省が編纂したデータと、大阪商業大学と東京大学が編纂したJGSSデータをもとに、
25歳以上、80歳未満の男女4467人を調査。
統計的な分析の結果、所得格差の大きさなどが、主観的健康観と幸福感と正の相関関係にあることを示した。
また、先行研究により、主観的健康観が低い人ほど、実際の健康状態が悪いことも知られている。
つまり、所得格差の大きい地域ほど、住民の実際の健康状態も悪くなる。
さらに、重要なことがある。
所得の低い人ほど、健康状態が悪くなるのは常識でわかるのだが、
所得が高い人であっても、健康状態が悪くなる。
これは、上の方にいる人も、いつ下に落ちるかわからないというストレスに加え、
人々との信頼関係が希薄になり、他人への不信感が高まった共同体では、
当然ストレスを感じやすくなるためだ[3]。
所得が高い人であっても、格差によって損をするんですよ。
このように、現在では、格差そのものが人々の健康状態を悪化させ、幸福度を下げることが分かっている。

ここで出番になるのが、「人の和」という価値観。
格差が広まり、地域の中で人々の間の不信感が強まることは、「人の和」という価値観に反する。
従って、「格差は、「人の和」という価値観を傷つけるから悪く、是正もしくは拡大を止めるべきだ。」というように
価値観に訴える言明が構築できる。
そして、それをしない政府は、憲法第25条(健康で文化的な最低限度の生活)違反である、という論理も附いてくる。

ここで、すぐに是正できればいいのだが、グローバル化が進展している中ではなかなか難しい。
新興国との競争による賃金切り下げ競争が続き、中間層が次々に分解していくからだ。
すると、できることは、分解をなるべく抑えること、転落した場合に救出することの2つ。
北欧のように、合理的な精神を持つ人々が営む国であれば、格差是正および中間層の増大もできる。
(北欧も共同体自治をやっている。)
ところが、日本は、税金だけ高くて、社会福祉の質が低いという、低福祉・高負担の謎の国。
(国民純負担率を比較すればいい。)
こういう国なので、中間層の分解を加速させる政策を止めることがまず精一杯で、
転落した場合の事態を和らげるようにするしかない。
その役割を担うのは共同体であり、そうすることは「人の和」という価値観とも整合的となる。

そうすると、必要になることは共同体を分厚くすること。
一つだけ書いておくと、労働時間の問題。
これも、「人の和」という価値観に訴えることができる。
「会社に長い時間拘束されているのでは、地域社会などへの参加ができなくなり、
 地域の人と接する回数も減り、「人の和」という価値観を維持することができない。
 これは、日本国のあり方としておかしい。従って、労働時間を短縮するべきだ。」という論理。
「ワークライフバランス」とは、こういうことを言うのである。
たまたま一致しているのだが、これもOECDの報告書では提言されている。
ここでも、憲法第25条に訴えることができる。
本当は、ILO(国際労働機関)条約を批准し、憲法第98条(条約の遵守)に訴えるのがよいのだが。

ちなみに、日本はILOの条約で未批准の超重要なものがたくさん残っている。
(例:第1号 週48時間制、第105号 強制労働の廃止など)
これを批准していないが故に、憲法第98条に訴えることもできない。
どこの後進国かと耳を疑ってしまうような話だが、これも本当の話。
もしかしたら、この話もあまり広がっていないのかも。
ブラック企業やブラックバイトがはびこる一つの原因はここにある。



おわりに
さてさて、こうして価値観に訴えるような論理を構築することで、
数々の社会問題に、なるべく一貫性をもって対応できるような価値体系を作っておいた。
裏には、種々の社会科学的な根拠や論理などを内包させてある。
エドマンド・バーク先生も言うように、原理原則を立てておけば、
一定の目標や方向性に沿って物事を進めて行くことができる。
そして、価値観に訴えることで、アメリカやEUのように、
(ちなみに、アメリカでこういう方向性を推し進め、
大統領選に出馬表明しているローレンス・レッシグ教授が、目標の選挙資金額を9月6日に集め終わった。)
「日本国のあるべき姿として、今の状況はおかしいのだ」という言明をすることができる。


思い返してみると、2011年の震災の時、世界の人は、被災地の日本人の行動に感動していた。
極限的な状況におちいっても、お互いに、譲り合い、助け合う姿に、大きな感動を覚えていた。
「お互い様」、「親切」、・・・。
たとえ、システムが崩壊しようとも残っていた。
忘れられつつあるのか、気づかないのかもしれないが、これらは日本国、日本文化の核にある普遍的な価値を持つ文化だ。
こういう価値観を掲げ、日本国のあるべき姿、未来の他者に期待する理想の日本人の姿を追求していくことが、
国際社会へのメッセージにもなるし、日本国内の問題を解決することにもつながる。



人間とは、価値評価をする者のことだ。価値評価をすることは、創造することだ。
よく聞け、君たちは創造する者なのだ!
価値評価すること自体、価値評価されるものごとにとっては貴重な宝なのだ。
             ――「ツァラトゥストラ(上)」、ニーチェ、丘沢静也訳

[1]:OECD、"In It Together: Why Less Inequality Benefits All"
[2]:Oshio T, Kobayashi M. "Happiness, self-rated health, and income inequality:
Evidence from nationwide surveys in Japan"、(PDF)
[3]: "日本の「健康社会格差」の実態を知ろう(PDF)"、東京大学 平成21-25年度文部科学省科学研究費新学術領域「社会階層と健康」


中編はこちら。

パブリック・ディプロマシーにおいては、広報内容と国内政治の間に一貫性を持たせることが重要だということを確認した。
外国人と話していれば「日本文化または日本国の核となるものは何か?」とか、
日本の経済政策や社会政策について聞かれることがあるはずだ。(少なくとも筆者はそうだ。)
それにどう回答しますか?という話。

そんなわけで、筆者は、広報内容と国内政治を含めて、ある程度の一貫性を持てるような体系を作ることにした。
恐らく、書籍にも書かれていないはずだ。
それらしい雰囲気が感じられなくもないものもあるが、体系的でなかったり、国内政治のことを考えていなかったりする。
仕様がないから筆者が作ってしまう。

筆者は、発信の際の柱となる価値観として、
①人の和、②自然との共生、③永続性、④物理的・情報的な付加価値の創造」がいいと考える。
①~③は公理、④は公準に相当する。
ここで、価値観とは、どの物事に重きを置くかという判断、という意味。


公理の妥当性の確認
まずはざっと公理を確認していこう。

「人の和」ということの根拠として、日本の建国が挙げられる。
今、日本国が存在する以上、いつかは正確に特定はできないものの、必ず建国された時があるはずだ。
(そうでなければ、永遠の昔から存在したことになってしまう。)
考古学で徐々に分かってきているが、日本の建国は、どうやら大規模な戦争無しで国として統一されたようだ。
その証拠が、全国各地に何万とある古墳だ。あれは、ヤマト王権への従属の証だった。
鉄器や祭祀の自由とともに、ヤマト王権は、次々に全国を支配下に置いていったようだ。

普通ならば、大規模な戦争が起こってもおかしくはないはずだが、
そのような戦争の痕跡が見つからず、いくつかの従わない部族のみが軍事的に制圧されたようだ。
それより古い弥生時代については、軍事的な対立の痕跡が発掘されている。
従って、話し合いや交渉によって、統合が進められ、徐々に統一王朝ができた。
「ドヤ、これ?ええやろ?」と、鉄器という当時の最先端技術が提供され、なおかつ、
宗教の自由も認められ、戦争が避けられるのだから、これは従属側にとっても悪い話ではなかっただろう。
「従属」とは言うものの、多分、アメリカなどのような連邦かEUのような連合に近かったのだろう。
後には、そうした各地域の神話がまとめられた「古事記」のような書物もできた。
(この2つのパラグラフは、国立歴史民俗博物館の広瀬和雄教授の著作などを参考にしている。)

建国の歴史だけでなく、現代でも、そういう精神を見ることができる。
その一つが、タタミゼ(tatamiser)効果というもの。
これはフランス語なのだが、日本語にすると「畳化」だ。
日本に一定期間以上在住したり、日本語を学んだ外国人が、
日本人のようによく謝るようになったり、論争的ではなく相手を立てたりするようになり、
性格が柔らかく、温和になる傾向があるという現象。
日本語教師、日本語学習者の間では、よく知られている。
そうなってしまった外国人が、母国に戻ったりすると、
弱々しく見られたりして、周囲と溶け込めなくなったりする。

こうしたことを踏まえて、「和」こそが発信すべき価値観なのだ、という人もわりと多い。
「和」というのは、中国の論語(学而篇十二)が発祥で、当然(論語は政治的な書物だ)、人間同士の間で成立する概念だ。
(中国語では、一つの漢字に一つの概念が対応することに注意。)
「和」とは、「自己の主体性を保ちつつ、他人と仲良くなる、または、協調すること」である。
聖徳太子の十七条の憲法の条文、「和を以て貴しとなす」もここから取ってきている。
「和」というのは、空気を読むこととは違うし、「みんな一緒」とも違うことも念のため書いておく。
それは「同」であり、支配されるだけの人間の姿。(「論語」子路篇二十三)
「八方美人」である必要もない。「和」の関係になりたい相手を選ぶことができる。
筆者は、これでは足りないと考えるため、自然環境、時間的な価値観も要請した。


自然との共生という価値観も必要だ。
どの先進国でも、環境問題には大きな関心を持っているので、これは外国人にも受け入れられる価値観だ。
第一、人間同士の「和」だけでは、「和食(2013年にユネスコ無形文化遺産登録)」の存在は絶対に説明がつかないだろう。
生物多様性の豊かな自然が存在し、維持されていなければ、不可能だ。
和歌や俳句も、自然との共生がなければ、成立不可能だ。
(ちなみに、百人一首を題材にしたアニメ「ちはやふる」も好きな外国人はけっこういる。
Wikipediaには、現時点で日本語以外に12言語のページがある。)
春になったら桜を愛でるということも、外国人が共感できる。(例:ワシントンD.C.のポトマック河畔)
多様な自然・風土から、方言を多く持つ日本語も生まれ、いろいろなものを取り込む習合文化も成立させている。
これは、太陽や月、風や火など、自然界のものそれぞれに固有の神々がいるという、神道にも反映されている。
最近では、こうした神道をベースにしたアニメであっても外国人に人気がある。(例:「夏目友人帳」)

ここで、宗教に関してちょっとだけ書いておく。
欧米でもエリート層の様子は、無神論者(atheist)や無信仰者(non-believer)が増えてだいぶ変わってきているが、
今でも世界では、宗教を熱烈に信仰している人が多数だ。彼ら/彼女らにとっては人生の重大事。
そして、地球の人口のうちの過半数は一神教徒だ。
そこで重要になってくるのが、「一神教と多神教を、いかにして包摂して説明するか?」という問題だ。
チャラチャラした感じではなく真剣に発信をしようと思えば、この命題に回答を与える必要がある。
これは、神学的、宗教学的、分析哲学的におもしろいし、
この先の話を進めるのに関係ないので、書かないでおこう。
問題は自分で考えて回答を出す過程にもおもしろさがある。
とは言うものの、筆者は気まぐれなので、いずれ書いてしまうかもしれない。
エソテリック(esoteric)な話は、前編にチラッとだけ書いてある。


あとは、時間的な概念の必要性について。
日本は、豊かな伝統文化を持つ国だ、というイメージを押し出すのもいいが、
今後は未来志向も重要になってくる。
アメリカやドイツのように、未来に対する姿勢も示す必要がある。
それで、「伝統」ではなく、「永続的」という概念にした。
最近では、「持続的な社会」という概念も注目されているので、「持続性」と言ってもよい。
そして、そもそも国歌の君が代の歌詞には、そういう思いも込められているのではないだろうか。


以上、日本における、人の和、自然との共生、永続性、という価値観の重要性を見た。
よく考えてみると、これらの特徴を持つ象徴的な存在が「天皇」なのではないだろうか。
この他にも重要な価値観はあるだろうが、筆者は、これらを公理として要請する。


公理からの理論的な展開
さあ、要請した公理を使って、民主主義と資本主義へと接続していこう。
上の公理だけで一応、対外的な姿勢は整ったが、この接続を考えておかないと、国内政治を考えることができない。
アメリカやEUとは違って、発信する価値観がいきなり民主主義につながるわけではない。
そのため、対外的な価値観と対内的な政策の原理とを理論的に結びつけておく必要がある。
マルクス先生ならば、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!(Hic Rhodus, hic saltus!)」と言っていることだろう。
はい、跳びましょう。

さて、この枠組みの中では、仏教を取り入れることができるのが強みだ。
「和を以て貴しとなす」とした聖徳太子が「法華経」の解説書「法華義疏(ほっけぎしょ)」を書いたのも、
「法華経」の「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という考え方が、日本人の自然に対する考え方によく合ったからだ。
そして、「法華経」が日本仏教の源流である天台宗で重要視されるようになった。
(因みに、、臨済宗の栄西禅師や曹洞宗の道元禅師も、比叡山で修行をした。
この禅宗が水墨画や茶道にもつながっていくわけだ。)
今でも「縁起(えんぎ)」や「中観(ちゅうがん)」の概念を持つ仏教は、内政上も大変重要だ。

重要な部分なので、「縁起」から「中観」を導出しておこう。
「縁起」は、全てのものは、他の全てのものとの関係によって成り立っているという思想。
例えば、ある人が「親」であるのは、その人に「子供」がいるから。
その人達が親子なのは、出産によって、関係が生まれたから。
「自分」が「親」であるのは「子供」がいるからであり、「自分」が「子供」であるのは「親」がいるから。
また、人間は親子関係だけでなく、友人関係なども持ち、それも「自分」を成立させている。
(例:Aさんと友人関係であるが故に、「自分」が存在する。)
だから、「自分」というのは自身一人で独立して存在しえないし、他との関係が変わればすぐに「自分」は変わる。
すると、「自分」というのは、単なる認識であり、「自分」は有るとも言えるし、無いとも言える。
この「有」と「無」を包摂した概念を「空(くう)」と呼ぶ。
この考え方を、ありとあらゆることにまで拡張すると「一切は空」という空観(くうがん)になる。

このままだと危険性がある。
「一切は空」であり、世の中はただの幻想なのだから何をやってもいい、という論理になる恐れがある。
それは、オウムの「ポア」の論理であり、そのオリジナルはチベット密教の度脱(ドル)だ。
それを回避するために、仮観(けがん)を導入する。
仮観は、たとえ一切が空であったとしても、それらを仮に存在するものとしよう、という考え方。
所詮、この世は空なのだけれども、あえてその存在を認める。
自分のこの身体は実際に存在して、社会生活を送っているし、刺されたらきっと痛い。
だから、相手に対しても、何をやってもいいというわけではない、という常識的な考え方。

中観は、この2つの見方のバランスを取り続けようとする考え方。
「所詮、この世は空だ」とは分かっているものの、あえてそれを肯定し、そこに価値や機能を持たせる。
1万円札の例がわかりやすい。
空観で見ると1万円札はただの紙切れかそれ以下であり、
いきすぎた仮観で見ると1万円札は1万円に決まっているではないか、という見方。
中観は、これらのバランスを取った見方をする。
1万円札は、もとをたどれば、原価22円程度の単なる紙きれだ。
けれども、それには、1万円分のモノやサービスと交換できる機能がある、といった具合に。
また、小説も、単なるインクの染みではなくて、ストーリーを持つ存在であり、それには価値がある。
というように。
これで、「縁起」→「無自性(むじしょう)」→「空観」→「仮観」→「中観」と、導出できた。


ここまで来れば、あとは、法システムや経済システムなどを考えていけばよい。
但し、要請した公理が拘束条件になっていることがポイントだ。

さて、「中観」は、基本的人権の尊重を基礎づけることができる。
つい忘れがちになってしまうが、「人権」というのも制度だ。
(もし、制度ではないというのならば、アフリカ諸国、中東や中国などを見ればいい。)
憲法第13条などは、国家に対して、「人権」という制度を作りなさい、という命令なのだ。
そして、「人権」という制度は、社会の中で、人々の生命・自由・幸福追求の権利などを保障するような機能を持つ。
元々は社会が先にあって、それでは困ることがあるから国家を呼び出して、使う。
だから、普通は、社会を重視する反国家主義が保守で、国家主義が革新。
(極東の某国では混乱しているみたいだけど。
その島では、大声で叫び声を上げ、市民を罵倒しながら、社会をぶっ壊すのが保守と呼ばれている。)
こうして、原則をきちんと考えれば、「中観」に則って、内政に向き合うことができる。
そして、国民一人一人の人権を保障しつつ、社会とのバランスを取りながら、国民の利益を作っていくことができる。
こうして集まったものを国益と言う。
(仏教徒の方々にとって、本来、こういう行いをしていくことが、
「縁起」を悟った仏教徒の慈悲の実践のなのではないだろうか。)
そしてその時には、モンテスキューも理解していた通り(「法の精神」第三部)、
各地域の風土も考慮して、制度や法律を作っていく必要がある。
日本列島は、起伏にとみ、地域ごとに様々な特色があることを思い出そう。

また、現在の「資本主義」のルールを全否定する必要もない。
市場経済は、最近見直されている、古典派の開祖アダム・スミスの「道徳感情論」の哲学を基礎に修正していけばいいだろう。
「道徳感情論」でスミスは、「共感(sympathy)」をベースにした交換、利益追求をする市民により、
調和ある社会が形成されると考えている。
この考え方を採用すれば、お中元やお歳暮、お裾分けといった交換の文化があるので、容易に導入可能だ。
さらに、これは、「人の和」という価値観と整合的であり、選好構造の修正になっている。
この辺りで、日本人に人気のあるスティグリッツが賞賛している、カール・ポランニーを引き合いに出してもいいだろう。
また、自然との共生という概念を要請することで、ケインズ主義を導入できるのもいいところだ。
災害大国である日本では、大規模な公共事業は必須だ。
このようなケインズ主義を入れられないと、巷にはびこる市場原理主義の暴威を止められない。
最後に、成功するかは分からないが、話題の「里山資本主義」も射程に入れてある。

このように考えれば、人の和と自然との共生という価値観から、仏教を媒介し、
グローバル化に対抗できる民主主義・まともな資本主義へと滑らかに接続できる。


公準とその変化の要因について
四つ目の柱は、物理的・情報的な付加価値の創造だ。
ここには、創意工夫、高い技術力、職人の存在、能や落語といった伝統芸能、アニメ、漫画、ゲームなどが入る。
筆者の最近のお気に入りのとんこつラーメンもここに入る。
「わび・さび」ということも、よく考えてみれば、情報的な価値の創造だ。
「クールジャパン」は、基本的に、この価値観を推し進めているのだ。
民藝運動の開祖、柳宗悦が言うように、「手の国」という価値観を要請してもいいのだが、
それだと狭すぎるので範囲を広げてある。
「手の国」だと、着物、折り紙、和紙、からくり箱のような作品、
漫画(例:デスノートなどの作画者、小畑健)といったものが入る。
但し、これだと伝統芸能などが外れてしまう。
これらの価値は、必ずしも金額に比例するものではない。
当然、CDSなどのデリバティブによるボロ儲けなどは、ここには入らない。
日本が経済大国ということは、付加価値を生み出しているということから自然に説明できる。


この四つ目は、わりと技術的な話なので、必ずしも必要ではない。
時代状況によって容易に変化する。
今後、職人の方々の後継者問題も解決できなければ、どんどん技術が失われていく。

また、ずっと以前から仕組まれている、日本政府の「財政破綻」を防御しきれない可能性も高い。
消費税も25%以上(15%の間違いではない)に上げる計画も進行中だが、
消費税8%への増税も防ぐことができなかったことを見ても、これも止められるかどうか不明だ。
一般会計と特別会計についての基礎的な知識があれば、社会保障のための増税(笑)は簡単に潰すことができたはずだが、
日本社会にはそうした十分な知識基盤は無い。
こうした政策をやっていれば、税収も上がらず、政府の負債が増えていくばかりで、結局、「財政破綻」。
「財政破綻」と括弧つきなのは、実際に財政破綻をさせるとなにかと面倒だから、
それに近い状況になり、その危機が叫ばれ、その隙に惨事が起きるだろうという意味。

このシナリオもあるが、もう一つのシナリオの方が可能性が高いと思う。
TPPにより日本人の金融資産(主にゆうちょ)でアメリカ国債を買わせるか、
あるいは、数年以内に国債の買い手がいなくなり、国債暴落の危機が叫ばれる。
格付け会社による日本国債の格下げという合わせ技もある。
そのままでは、国際経済が混乱してしまうからという理由でIMFが財政再建を「指示」(という名の内政干渉)。
その時、IMFによる植民地化政策が実施され、さらなる規制緩和によって市場の自由化が進行し、
日本の資産・技術は、外資と外国人にほとんど徴収され、日本には何も残らなくなる。
大変、効率のいい収奪方法だ。
そして、この時は、海外にいる日本人の地位も低下し、日本の国際的な影響力も当然小さくなる。


他の要因は、中国との戦争リスクの高まりだ。
これまた以前からアメリカの描いているシナリオ通り、尖閣を巡って日本と中国はぶつけられようとしている。
尖閣諸島あたりで紛争が限定されるだけならばマシな方だが、
それがいつかの段階で戦争になる可能性もある。
戦争になれば、何が起こるか分からない。
仮に勝ったとしても、国民生活が徹底的に破壊される可能性もある。
中国の人民解放軍のサイバー攻撃部隊によって、日本人の年金のデータが改ざんされたり、
銀行の預金残高がゼロにされたり、機関投資家の保有している証券が投げ売りされることだってありうるわけだ。
そして、インフラへの攻撃もありうる。
福島の原発にもマルウェアが仕込まれていたことが判明している今、
再稼働をしたいのならば、その原発の制御ソフトの検証をすべきなのだが、それもやっていない。
このような状況で、もし中国が作成したマルウェアが原発の制御ソフトに仕込まれていれば、
工作員の投入と同時に(不要かもしれないが)、サイバー攻撃をされ、原発が制御不能になることは必至。
もしそうならば、国会で話されていたようにミサイル攻撃の必要すらない。
この場合も、上のシナリオと同様、日本には何も残らないばかりか、大量の被曝者を出し、国土の一部も喪失する可能性がある。
まあ、アメリカの軍事衛星をハッキングされるか、その衛星との通信システムを妨害されることで、
日本のミサイル防衛システムは瞬時にご臨終となり、ミサイルが大量に着弾というシナリオももちろんありうる。

これらのシナリオがあるので、④の価値観を要請するかどうかは、時代による。
しかし、それでも①~③の価値観はなんとか維持できるはずだ。
もし、それもできないのであれば、
その時、日本国や日本文化は地球上から消滅しているはずなので、考える必要はない。
栄枯盛衰が摂理である長い人類史を考えれば、
日本国や日本文化が消えたとしてもそんなに深刻に考えるほどのことでもないだろう。


例外
この枠組みの例外としているものもいくつかある。
侍や武士道がそうだ。
「嘘も方便」といった考えを取り入れると、内政との整合性が取れなくなるので、あえて外してある。
だいたい、戦国時代の武士で主君に対して、きちんと忠義を尽くした例は、豊臣秀吉と赤穂浪士の2例だけだ。
残りは、小早川秀秋のような裏切りや寝返りばかりだ。
それを柱に枠組みを設計するのは無理がある。
そして、日本のどこの都市で帯刀した人々が日常的に歩いているのだろうか?(日光江戸村などを除く。)
もし、そういう都市があれば、銃刀法違反で大量の逮捕者が出ているはずだ。

あとは忍者だ。
最近では、肌を露出しなくてもいいということでムスリムの女性にも忍者が人気だ。
しかし、これも内部に取り込むのが困難だったので、外してある。
本居宣長の「もののあはれ(=漢意ならざるもの)」というのは、習合文化を一切考えていないので、全く実情に沿っていない。
当然、他にも、多くこぼれ落ちているものがあるだろう。(例:AKB48、オタク)
まあ、物事を定義する時、モデルを作る時には限界があるものだ。
しかし、枠組みに入っていないからと言って、対外的に発信するべきではない、ということにはならないことを明記しておく。
「るろうに剣心」のアニメや実写版の映画、「NARUTO」だって、世界中で人気なのだから。


まとめ
以上、対外的な発信と、今後の対内的な政策との整合性が取れそうな枠組みを普遍性を持つよう作った。
アメリカの「自由と民主主義」、EUの「平和主義・人権・啓蒙」と比べて、最低でも同程度の抽象度にしたつもりだ。
なるべく包括的になるようにし、現在および将来直面するであろう大きな社会問題も頭に入れて作った。
上で書いた以外には、貧困、格差拡大、受け入れが進む移民への対処、国内でのテロ予防、
老後破産や孤独死、感情の劣化、高い自殺率、エネルギーや食料の自給、
消滅しつつある地方の社会・経済の創生、大規模災害への対処など。
こうした国内問題への対処と対外的な発信内容とを、言行一致させるための
柱とすべき価値観は、人の和、自然との共生、永続性、物理的・情報的な付加価値の創造だ。

これに対して、「当たり前じゃん。」と感じたり、何となくそんな感じがするようであれば、
それなりの妥当性を持つ価値体系になっているはずだ。
日本人にとって、ある程度、「常識」のように感じられなければ、それは単なるプロパガンダに過ぎない。
自分たちは、何を重要だと感じ、何を大事にしているのか。
国際社会に対して発信する際には、こういうものを「再帰的に(recursively)」記述する必要がある。


某閣僚が本音を漏らしているように「日本に残された時間は少ない」中で、
これらを依りどころにしていくことしか、内憂外患の嵐を切り抜けるすべはないのではないかと思う。


あとがきへ続く。


現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、
世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、
どんな事態に陥っても、『それでもわたしはやる』と断言できる人、
そのような人だけが政治への『召命』[天職]をそなえているのです
             ――「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、中山元訳



前編はこちら。


次に、国内政治とパブリック・ディプロマシーの内容に一貫性を持たせることについて書こう。
国内政治と公法内容に一貫性を持たせる理由は、
そうしないと発信したことがプロパガンダになってしまうから。
言ってることとやっていることが違っては、説得力を持たない。
そこで一貫性を持たせるために重要なのが、その国の国民が共有している理念や価値観。
日本国内では、ある程度統一されていて、人々が意識している意思や精神がない。
だから、政策に大きな矛盾があったとしても、戻る場所が分からず、復元力も無い。
短期的な視点の、行き当たりばったりの政策ばかりになる原因である。
そして、コンテンツの上に乗せて発信できそうなものは、今のところ共有されていない。

欧米の人間なら、すぐに枠組みや原則を考えているところだ。
例えば、アメリカなら「自由と民主主義」、EUなら「平和主義・人権・啓蒙」などのように、
ある程度共有されているその国の理念や精神がある。
属国ではなく、独立した国や連邦(一歩手前)なので、自分達で政策や進路を決めることができるので、
その時の指針となるものが、上述のような理念や柱。

特に、アメリカでは今、多くの人がアメリカは間違った方向に向かっていると感じている。
これに対して、「これは建国の父達が考えていたようなアメリカのあるべき姿ではない!」と言う世論ができつつあり、
軌道修正が行われる可能性がある。
その時、自分達のダメさを見つめ、それを徹底的に暴いて、議論をして修正することができるのがアメリカという国。
例えば、今は、「クリエイティブ・コモンズ」の提唱者であり、著名な憲法学者のローレンス・レッシグ教授が、
特定の条件をもとに、大統領選挙に出馬することを計画中だ。
合衆国憲法の父、ジェームズ・マディソンの言葉を参照したりして、ほんのわずかなスーパー・リッチのための政治ではなく、
市民のための政治に戻すべきだ、ということを訴えている。
(動画:The Citizen Equality Act of 2017)
こうした動きに、世界中の人々が感動を覚えるわけだ。
だから、それを発信の時の柱にすることができる。

EUについても、チラッとだけ書いておこう。
EUの場合は、その理念が裏目に出てしまっている。
今、中東やアフリカの混乱が収まらないため、難民が次から次へとヨーロッパに押し寄せている。
「人権」を高く掲げるEUでは、そうした人々に手を差し伸べ、受け入れることになっている。
しかし、最近では、その人数が多すぎることが、BBC、Le Monde、Der Spiegelなどでも連日ニュースになっている。
雇用の喪失や賃金下落などの経済的な負の側面を受け入れるだけでなく、社会保障でも支援しなければならず、
さらには、現地の社会と風俗や習慣も全く異なるため衝突が起こりやすく、どこの国でも悲鳴を上げている。
その結果、移民排斥などを掲げる政党がEU各国で躍進。(例:デンマーク)
EUは「人権」という理念を打ち出せば出すほど、自分達を苦しめる方向に向かうという状況。
そこで今は、彼らは「難民(refugee)」ではなくて「移民(migrant)」である、という流れも仕掛けられている。
そして、彼らは不法な移民なのだから、排斥されても当然だ、という論理。
対外的なイメージを何とか整えようとしつつ、ヨーロピアンハウスを守ることに必死になっている。


翻って、日本は?
日本人が共有する、そういう日本人の根本的な価値観や理念、またはその柱となるものは何か?
ハテ?

やはり、日本人が発信すべき価値観は金か?エコノミック・アニマルの本領発揮。
これは、そろそろ真剣に考えてもいい時期かもしれない。
世界に向けて、「日本のいいところ、それは金です!」とバンバン、コンテンツを作ってもいいのかもしれない。
そうすれば、「おお、こりゃATM代わりに便利だ。」と、世界の皆が思ってくれるだろう。
ATMにもちゃんと存在意義はある。
しかし、現金が無くなった場合、そのATMは、ただのポンコツだ。
早晩、地球上から消えて無くなるだろう。
金目当てで結婚した男女の場合、金が無くなったら、即離婚なのと同じだ。

最近では、上の意見を支持する人も多いだろうし、
日本は独立国ではないから、これまで同様そんなことは考えなくてもいいのかもしれないが、
筆者は一つの体系を作ってみた。


後編へ続く。