1914年、第一次世界大戦にフランス軍の騎兵軍曹として参加する。この時に英雄的な任務を果たし、『イリュストレ・ナシオナル』誌の一面を写真入りで飾っている兵役免除後の1915年には、ロンドンのフランス領事館旅券局に勤務1916年、当時のフランス植民地カメルーンに渡り、交易所に勤務1918年からは、ロックフェラー財団の結核予防キャンペーンの隊員としてブルターニュ地方を巡回する1924年ブランド財布、『ゼンメルヴァイス博士の生涯と業績』で医学博士の学位を取得した彼は、国際連盟衛生局の技術者として勤務、その業務としてアメリカやカナダの衛生状況の視察を行なう1927年からは、パリ郊外クリシーにて診療所を開き、医師としての活動と平行して書き進められた半自伝的作品『夜の果てへの旅』(Voyage au onslaught l'ordre dom l. a. nuit,1932)でフランスの文壇にデビューする。その年のゴンクール賞の第一候補に挙げられるが、審査員の寝返りスキャンダルで受賞を逃す。セリーヌを推薦した審査員がこれを激しく非難したため起訴される。この作品は各国語に翻訳され、ベストセラーとなる1936年、半自伝的作品『なしくずしの死 』(Mort? Rating,1936)を出版、その後印税を現地消費するため(当時のソ連邦は多額の外貨を持ち出すことが禁じられていた)ソビエト連邦に旅行、共産主義に激しく失望、憤激する1937年から1941年にかけては、『虫けらどもをひねりつぶせ』(Bagatelles dump not massacre)を皮切りに、反ユダヤ主義文書三部作を出版する1945年、連合軍によるパリ解放後、ナチスドイツに協力した嫌疑をかけられたセリーヌは大空襲下のドイツを縦断、デンマークに脱出するも、フランス公使館の要求で拘束され、拘禁される。しかし、対ナチス抵抗運動の指導者でありながら、自らの信念に基づきセリーヌを擁護した弁護士ミケルセンの努力によって、フランスへの身柄引渡しは行なわれなかった。なお、この時の顛末は、後のドイツ三部作『城から城』『北』『リゴドン』に描かれている1951年、パリ軍事法廷によって恩赦を受け、セリーヌは妻リュセットと共に帰国、パリ郊外ムードンに診療所を開く1961年7月、最期の作品である『リゴドン』の校正を終えた翌日に死去。地元ムードンの司祭は葬儀の執行を拒否したと言われるブランドバッグ。彼の墓石には、三本のマストの船が刻まれている反ユダヤ主義言説という大罪を犯しながら、その独特の文体、そして人間を直視するその眼差しにより、プルーストと並び20世紀フランス文壇最大の作家と評されている。また、彼のイデオロギー的な混乱は、反ユダヤ主義と同時に反ナチスを表明するという言説に強く現れており、今なお議論の対象であるセリーヌは『この世の真実は嘘か死だ』と『夜の果てへの旅』に記している。だが、彼の作品から横溢するヒューマニズムはまた、ヘンリー・ミラーやケルアック、また、サルトル、ボリス・ヴィアンや大江健三郎など、東西の多くの作家に影響を与えた。ケルアックはセリーヌを評し、「時代の最も思いやりのある作家」であったと述べている。