思えば。

 

ずっと、外に向けて「わたし」という人格を

作ってきたのだと思います。

 

 

誰かに褒めてもらえば、それをもっとやり。

 

誰かに叱られたり、無視されたり、

ばかにされたり、嫌われたりしたら、

それはもうやらない。

 

 

そうやっていつのまにか「わたし」は、

「誰かに認められること」なくしては

成立しなくなっていたのだと思います。

 

 

わたしの場合は、

誰にでも「優れている」とわかるほど

突出した「能力」とか、

 

誰にもつっこむことができないほど正しい

「正解」に達していることとか、

 

それがあってはじめて、

 

「わたしは存在していていいんだ」

 

と感じられていたんだなと。

 

 

 

 

存在承認が、他者からしかもたらされないから、

人から評価されないと、自分の存在があやうくなる。

 

 

 

でもそんな「誰にもぐうの音もでない正解」なんて

たどり着けやしないものなので、

 

 

結果わたしはずっと

 

「自分は存在していてはいけない人」

 

と無意識に思って生きてきたのだな、ということが、

とてもよく分かった今日なのです。

 

 

 

数週間前にとつぜん、

「誰もかれもがわたしをダメな奴だと思っている」という

「生きてるだけで罪悪感」状態に

ハマってしまって抜け出せずにいたのですが、

 

 

それってたぶん、これまで気づかなかっただけで。

その感じ方があまりに通常モードすぎただけで。

 

 

思い返せばずっと、

わたしは評価され判断されることに、

いつも死ぬほど恐怖してきたな…と思います。

 

 

キリスト教の「原罪」レベルで、

「生きてるだけで責めを負う」的な、

胸がつぶれるような苦しい感情の圧に、

 

 

ずっとずっと無意識にとらわれて、苦しんできた。

 

 

この数週間は、意識化されてしまったそんな感情に、

さらに

 

「何でいまさらこんなことで揺れるのよ情けない!」

 

というセルフダメ出しまで上乗せされていた、

そんな勝手にツラい日々だったのでした。

 

 

さいわい、セッションでまゆりさんに

 

 

「まゆりさんにも「こいつマジひとりだけダメだな」って

 思われてるって思ってて、めっちゃ怖かったです」

 

 

と言ったら

 

 

「当たってたら「70パーセントくらい当たってるね」とか

 言うけど、

 ラニちゃんの場合はまっっったく当たってない」

 

 

とあっさりあったかく言われて、

 

 

 

いやちょっと分かってたけど、

まじ妄想でしかないんだなこれ、、、と

ちょっと笑ってしまったので、

 

 

 

そっか、もしかしたら、

意識化されてちゃんと対象化されて、

癒されていくプロセスなのかもなあ…と

思えてはいたのですが、

 

 

実際の感情の圧はなかなか苦しいものでした。笑

 

 

 

でも今日、あいかわらず絶好調に

「ぜったい不義理な奴だと思われてる!!!!」

「いまさらどのツラ下げて来たんだって思われる!!!!」と

激しい妄想をトバしまくっているモウソウちゃんの頭を、

 

 

「大丈夫だよ、「ほらやっぱり妄想だったじゃん」って

 わかるように、ちゃんと会いに行こう」

 

 

とぽんぽんしてハグして、

 

 

古いお付き合いの大切な仲間…なんだけど

最近ちょっと連絡をしていなかった人たちに、

思い切って会いに行ってみたのです。

 

 

そしたら(やっぱり)みんなとっても優しくてあったかくて、

 

「ラニちゃんにはラニちゃんのリズムがあるからね」

 

と言ってくれて、

 

とっても楽しい時間を過ごし、

 

 

妄想もぶじ、あとかたもなく打破されたのでした。

 

 

 

 

 

言われてみて気づいたけど、

わたしは「自分のリズムで動く」ことにも

とても罪悪感があったと思います。

 

 

きっと、

 

「他人に合わせないと、自分は自分のままでは理解されない」

「ひとの価値観に合わせられないなら、存在していてはいけない」

 

と思い込んでいたからかもしれません。

 

 

 

 

 

そして、いろんなタイプのグループに

同時に属することにも、

それぞれを裏切っている気に勝手になって、

罪悪感をもっていたようでした。

 

 

 

それはきっとどこかで、

「自分は正解でなくてはいけない」と思っていたから。

 

 

 

「正解」はひとつしかないから、

いろんなところに同時に属しているのは、

「あなた(だけ)が一番ですよ」って

みんなに言ってるみたいな、

そんな後ろ暗い気持ちだったのかもしれない。

 

 

 

書いてて笑っちゃうけど、

その罪悪感の呪縛は、ほんとに強かった。

 

 

 

でも今は、

 

それぞれのみんながただ好きで、

一緒にいるといいなって思って、

話していて嬉しいし信頼できるし

心がほっと落ち着くから、

 

それでいいなって、

ただそう思えるようになってきたと感じます。

 

 

 

ちっちゃいことかもだけど、

わたしにはとてつもない世界観の変質なのです。

 

 

 

それだけ、自分にゆるしがいっぱい出てきたんだと思います。

 

 

 

思えば、わたしを救うきっかけになったのは、

去年の夏、わたしの人生に突然やってきてくれた、

 

「絵を描くこと」

 

だったな、と、あらためて思います。

 

 

 

絵を描くときにわたしがやっているのは、

 

とても純粋で、透明な喜びのまま、

ただ自分にとって

「とても素敵できれいで美しい」ものを

ただ見えるままにかたちにしてゆく。

 

ただそれだけです。

 

 

 

 

絵の世界は、

正しいとか正しくないとか、ない。

なんなら、絵の世界には、

普通の現実は考えられない「おかしなこと」が、

いっぱい描かれている。

 

 

でもそれをおかしいという人なんていなくて。

むしろ、現実とはかけ離れていることで、

見る人の感性を自由に解き放ってくれさえする。

 

 

 

 

絵の存在意義は、ただ

 

「美しい」

 

ということなのだと思います。

 

 

 

 

正しいとかすごいとかじゃなくて、

ただ、心が「美しい」と動く。

 

 

 

ただそのことが、絵の価値なのだと思います。

 

 

 

ただわたしの心が

それ(絵)をとても美しいと感じて笑った、

という単純な事実だけで、

 

「わたしの世界=わたし自身が、この世に存在していていいのだ」

 

と感じられる、その感覚。

 

 

 

それがもたらしたものは、

 

 

 

他者から「すごいね」とか「正しいね」とか

判定されてはじめて、

 

「存在していいんだ」

 

と許可される、

そんな「自分」の存在のしかたではなくて、

 

 

 

「ただきれいだなあって心が動いたから、

 そこに存在していていい」

 

 

 

という、わたしにとってとても新しい、

(そしてきっと、本質という意味では、とても古い)

存在のしかたの感覚だったのだ、と思うのです。

 

 

 

無邪気に「美しい」感覚、という方位磁石はきっと、

とっても精密で、

だから、心をそこに沿わせて生きていこうと、

改めて思う。

 

 

 

 

そして、講座でまゆりさんが言った、

カウンセリングの極意。

 

 

「言葉が相手を癒すんじゃない、

 わたしたちの存在が愛だったら、

 その存在そのものが相手を癒すんだよ」

 

 

それがずっとずっと、心に残っていて。

 

 

 

正解が人を癒すんじゃない。

わたしたちは、ただ愛として生きていれば、

それが何よりも確かに、よりよい世界を創る。

 

 

愛として生きるには、

純粋に心を動かすことに、軸足を置くことなんだろう。

 

 

あらためて、無邪気な心に戻ってゆくことの

たしかさを、感じた一日になりました。