昨日は、通院日で帰って来たら疲れて寝るまでだらだらしてました。


病院帰りにひさしぶりに本屋で文庫本の背表紙を舐めるようにしてながめ。


ダ○ソー行ってネイルケア用のグッズをあれこれ買いました。


先週末、甥っ子や姪っ子たちが爪磨きして爪がピカピカになるのをおもしろがっていたので、甥っ子&姪っ子用に使いやすそうな爪磨き買って来たら、


「うちの子をそんなにおかまにしたいのかぁ~!?」


と今日からまた子供連れて週末お泊りにやって来た妹に怒られてしまいましたが(ショボーン)


男の人のネイリストさんも今けっこういるから、本人が興味を持てることは飽きるまでやらせてみるのもいいんじゃないかな~?と菊池は思うのですが、ダメですか?


ゲームやテレビにしか興味がなくて自分が「やりたいこと」がわからない、ゲームができなければ「やること何もない。退屈だ~」という子供たちを怒るばかりじゃ「夢」は育たないと思うんだけど……。


ちなみに、菊池はおかまだろうがおねえまんずだろうが女装娘だろうが女だろうが本人がなりたきゃなればいいと思っているもんで、甥っ子がもしも将来そういう風になったってカマやしないのですが(笑)


自分が子供産んだことないからそんなこと言えるのかもしれないけれども、あきらめようと思ったら死にたくなるほど何かに執着したことがある人間にしかわからないこともあるとは言えるから、生き方の選択肢の一つとして否定したくありません。


それしか生きる道がないなら死んでしまうよりはどんな風になってもいいから、自分が生き延びていける選択をして生きればいいと菊池は思うんです。


「死ねばいい」


という森山直太朗さんの歌の歌詞についてネット上で論議されていたのは知っています。


「(いざとなったら)死ねばいい(とでも思ってあんまり自分を追い詰めんなよ)」


とおおらかな気持ちで誰かに言えてしまえるのであれば、その人はきっと死なないでしょうし、本気で死ぬ気でいる人間がどんな思いをしているのかもたぶん知らない。


それに対して、死ぬ気か一度死んだつもりで心機一転必死のおもいで生きていくことを覚悟した人が自分自身に言った言葉は重い。


後者はもう死ぬか生きるかのギリギリの選択。


とりあえずもう少しがんばって生きてみるけど、ダメなら今度こそ死んでしまおうと心に決めた人にしか言えない言葉もある。


自分自身に向けて言う「死ねばいい」は心の最後の砦。


どこにも行き場のない自分が最後に行きつく先に、今逝くかもうちょっとがんばってみてから逝くか自分で決めることにした時、


「どうせ死んでしまうのだから、死んだ方がマシ!と思うことにも耐えてみよう。それでもう耐えられなくて死ぬしかないと思ったら死ねばいい」


と菊池は思ったことがありました。


自殺未遂はやりましたよ。


それでも、今も不器用で不自由な生き方しているかもしれないけれども生きてます。


今生きてる菊池に言えることはひとつだけです。



「耐え難きを耐えてしまえば、今死なねばならない理由もなくなっていた。それが私が今生きている理由」



生きずらさを感じている人たちは、自分自身に「やれるだけやってみてダメなら死ねばいい」と言ってみてもいいと思う。ほっとするから。


まだ自分には選択の余地があると思うとね。


道は一つじゃない。


もしもどうしても言わずにいられないとしたなら「死ねばいい」なんて言葉は言ってもいいのは自分自身に対してだけだと思うけど。


いつかたどり着く「死」という人生の終わりの時を思ってやすらぎ感じてみればいい。


あなたが本当に最後の救いが「死」しかない生き地獄を生きているなら、それはやすらぎの言葉になるかもしれない。


だけど、私は誰かに「死ねばいい」なんて言いたくない。



自分以外の誰かに「死ねばいい」なんて言って欲しくない。


死ぬまでの間なんとか生きてみる自分への心のお守りが「死ねばいい」なんだから。


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