藤岡屋日記 江戸時代の見世物 仇討ち 鼠小僧
今日は「藤岡屋日記」の内容について少し書いていきますが、まず恒例の作品紹介から。唄野桃翠(バイノ トウスイ)の作品で、糸巻をしている二美人を描いています。作者については良くは分からないのですが、団扇やカレンダーなどで作品が良く使われているようです。とても気品のある女性を描いていて、私が言うのもおこがましいですが、これ程に上手い人なのにウィキペディアにも載っていないのは不思議です。この作品は工芸画の掛け軸なのですが偶然見つけて気に入ったものです。「藤岡屋日記」については先週、書いたので良かったらご覧下さい。藤岡屋日記 江戸時代の情報を売る男江戸時代に情報屋の元祖ともいえる人物がいました。須藤由蔵は江戸市中の事件や噂、落書、見世物などを記録して、路上にむしろを敷いて店を開いて情報を売っていたというのです。今回は、その中から個人的に興味を持ったものを、少し紹介していきます。文政五年(1822)日本一小人「五月廿五日より 両国広小路におゐて、日本一小人【大坂下り】岩本梅吉、年三十六才、立せい壱尺七寸、顔の大きさ人並、両の手は勿論、両足にて紙細工・織もの・はさみ細工、又々音曲打はやし等能覚へ、大坂表にて御目に懸候処、大入繁昌仕り、古今珍敷者故、此者御当地へ呼下し、御当所において晴天百日の間御覧に入候。」岩本梅吉という身長が壱尺七寸(51㎝)という人物の曲芸が、人気で大入りだった事を伝えています。足芸が得意だったらしく足で三味線を弾いたり、また両手では紙切りで京女郎の姿を切り取りながら、両足を使い紙で冑を折るなどしたようです。籠細工「文政五午年七月廿九日より山下にて、大坂下りかご細工一世一代、細工人一田正太郎 泰平富士野牧狩之籠細工。」一田正太郎という籠細工の名人による、竹を編んで作られた像の興行は人気で、内容を変えて江戸にも何年かおきにやって来ました。この年は源頼朝が、おこなった「富士の巻狩り」がメインでした。頼朝公七尺(2.1m)、仁田四郎一丈八尺(5.4m)、五郎丸七尺(2.3m)、騎馬武者三十一人七尺宛(2.1m)、鎧武者六十人六尺宛(1.8m)、雑兵千三百人五尺宛(1.5m)、馬三十一疋八尺五寸宛(5.6m)、猪しゝ大壱疋二丈八尺(8.4m)、..........などあり。一番大きいのは大猪で8.4mですか、江戸時代では、さぞかし大きくみえたでしょうね。雑兵1300人って本当にこの数作ったのか。?富士の巻狩りについては前に記事で、書いているので興味のある方は見てください。歌川国満 縮緬(ちりめん)肉筆浮世絵 「富士の巻狩り」文政六年(1823)大田南畝逝去蜀山人という狂名は肉筆浮世絵を見ていると、作品中に狂歌が書かれている物を良く目にします。狂歌師。当時の超有名な文化人。文政七年(1824)五重塔見世物 「三月下旬より東叡山山下にて五重塔をせり上る見せ物出る、其高さ二丈余といへども、中へ組込てせり上る故、土中は聊か堀たるのみ、其九輪小屋つらぬき大路より見ゆる也」約6mの五重の塔が、せり上がる見世物。駱駝(ラクダ)「文政七甲申秋 両国橋西広小路に於て駱駝の見世物。去年紅毛国より長崎表ぇ持渡候也、おだやかにして、喰物、大根・蕪菜・さつまいも等のよし、三十二文宛にて見物夥敷群集すなり。」ラクダの見物料は約800円、おびただしい群衆が集まった。岡勝谷 象及駱駝之図(部分) (国立国会図書館蔵)敵討ち「文政七甲申十月十日 四ッ谷塩町敵討 上野緑野郡倉賀野宿在、安久津村百姓 才市養子 宇市 申十八 四ッ谷塩町にて、親の敵安兵衛を討つ。」 上野倉賀野宿阿久津村の宇市、18歳が四谷にて親の仇、安兵衛を討つ。両頭蛇「十一月廿四日 本所竪川の川浚い中に捕獲。」尾の先にも頭を持つ両頭の蛇を、卯之助という男が捕まえた。長さは3尺あったという。文政八年(1825)歌川豊国逝去「正月七日 浮世絵師歌川豊国死、五十七、三田聖坂巧雲寺ニ葬す。称熊吉、一陽斎と号す、哥川豊春門人にして一家をなし、享和以来世に行れたり、門人数多有之、柳島法性寺の碑陰に見へたり。」浮世絵師 初代豊国の逝去。ビヤボン「此節(二月頃)世上にて琵琶音といへる鉄にて拵し笛、流行致すなり。 琵琶ぼんと吹は出羽どん/\と金がもの言ふ今の世の中此節の流行唄に、持揚てさせもしや何の事はないと言事はやるなり右琵琶音の笛とさせもせと言事、御停止之御触、町中ぇ出るなり。」 簪型の鉄製玩具。口琴ともいい口にくわえて、二またの足の一方を手ではじくとビヨ~ンという独特の音色が鳴るのでこの名がついた。子どもだけでなく大人の間でも愛用され、その流行ぶりを伝えている。文政十年(1827)大空武左衞門「五月 肥後国益城郡矢部庄田所村産、大空武左衛門といへる大男、江戸に来る也。 今年廿三才 身丈六尺五寸 量三十五〆目 手平一尺八寸 足長一尺三寸五分 。」江戸の勝ノ浦部屋にはいり,土俵入りを専門につとめた力士で、巨人ぶりが評判となって牛股とよばれ錦絵にもなりました。六尺五寸というと195㎝ですが、2m27cmあったとも言われています。翌年の日記では「身丈七尺余」と訂正しています。天保元年(1830)(文政十三年)宿屋飯盛 逝去「閏三月廿四日 狂歌師六樹園卒 七十八 石川氏 名雅望と号す、国学に長ず、男を塵外楼清澄といふ、共に狂歌をよくす。」石川雅望は、狂歌師、戯作者、国学者。狂名の宿屋飯盛が良く知られている。天保二年(1831)十返舎一九 逝去「八月七日 戯作者十返舎一九卒 重田氏、名貞一、下谷土富店善龍寺に葬す、寺中東陽院檀越なり。辞世 此世をバどりやお暇にせん香ととも終には灰左様なら」江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆の執筆による収入だけで生活した、日本初の職業作家ともいわれる。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。天保三年(1832)鼠小僧次郎吉 獄門 「(天保三年五月五日、鼠小僧次郎吉捕縛)八月十九日御仕置 異名鼠小僧事 入墨無宿 次郎吉 辰三十七 於浅草、獄門」 「右次郎吉事、深川近辺徘徊候由、博奕渡世致し罷在、俗に鼠小僧と申触し候盗賊にて、廿七才の頃より盗賊相働、所々屋敷方奥方并長局、或は金蔵等へ忍び入候、盗先は加州の外諸侯へ忍び入候得共、年久敷相立候分は不分明に付、聢と相覚不申由にて、申立候大名方九十五ヶ所の内には三四度も忍入候所も有之由、度数の義は百三十九ヶ処程に相覚へ、所々にての盗金相覚候分、凡三千三百六十両余之処迄は相覚候旨申立候、右の外御旗本衆は三軒の趣申立候。」大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、本名は次郎吉といい鼠小僧次郎吉として知られます。鳶人足でしたが27歳の頃より盗賊稼業を働く、十年間に荒らした屋敷95箇所、盗んだ金三千三百六十両余(本人が覚えていただけで)、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷で捕縛されました。引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せたといいます。松雪斎銀光 講談一席話 鼠小僧次郎吉 尾上菊五郎 (国立国会図書館蔵)天保四年(1833)川辺霊神 群集参詣「霊岸嶋東湊町の先に川辺霊神とて祭る小祠有之、何と神ともしらず、一時に参詣群集しけるが、纔かの間にして止たり。或人の説に此川を浚し時、水中より上りし髑髏を祭る所にして、首(カフベ)を川辺に書き改めしなりといへり」霊岸嶋東湊町の先に川辺霊神という小さな祠があり、一時期群衆が参拝するが、直ぐに止んでしまった。ある人の説によると、この川をさらった時に出て来た髑髏を祭る所にして首(カフベ)を川辺と書き改めたとの事。娼婦一斉検挙「天保四巳年六月 市中隠売女召捕一件 十一月十九日落着 隠売女一件 吉原町にて夫々入札」市中にて無許可で行う娼婦が検挙されて、吉原に売られた。天保飢饉之事天保の大飢饉は江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉です。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、特に東北地方の被害が大きく、貧困の百姓が多く餓死しました。天保五年(1834)米価高騰記事天保六年(1835)吉原焼失「二月廿一日夜、新吉原角町より出火、残らず焼候也、三月浅草広小路門跡裏門前ぇ仮宅、八九月頃迄出候也」敵討ち「閏七月三日、山本三右衛門娘りよ、亡父の敵・亀蔵を、護持院が原にて討ち果たす。」木偶人形「未年九月頃、浅草奥山に韓信市人のまたを潜る処の木偶を見せ物とす。人形丈二丈三尺余、衣裳羅紗猩々緋等之類を用ひ、能き細工なれども、餝りたるのみなれば、面白からず、されば見物人はなし。」木彫りの韓信の股くぐりの像の見世物。6.9mの大きさなれど人気はなかった。天保七年(1836)敵討ち「天保丙申年七月十七日 外神田山本町代地立身不動の前ニ親の敵討有之候次第、大工の棟梁・成田屋庄兵衛、養父の敵・森金之助を討つ。」子供相撲「十一月、本所回向院境内にて大相撲之節、土俵入。信州南原産 神通力国吉 申七才身丈四尺余。目方廿貫目。」信州川中島の産の七才になる神通力国吉と呼ばれる者、本所回向院境にて大相撲興行の土俵入をしました。身長120㎝ 体重75㎏天保八年(1837)吉原焼失「十月十九日、朝六ッ時、新吉原伏見町より出火して、廓中残らず焼失也、五十間道と京町の名主残る也。」天保九年(1838)敵討ち 「五月十三日、元松平加賀守家来足軽奉公・近藤忠之丞、加賀金沢にて、親の敵、同加賀守家来・山本孫三郎を討つ。」天保十年(1839)犬の三日酔「正月十六日朝四ッ時頃、湯島天神中坂下、手習師匠前にて、酒七八升持候男転び酒不残打こぼしけるに、犬来りて是をなめけるに、十八日夕方迄犬酒にふら/\致し居候由、犬の三日酔は珍敷事にて見物多し。」 酒7~8升を運んでいた男が転んで、全てこぼしてしまうと犬が来て舐めていた。3日たっても犬はフラフラしていて、犬の三日酔は珍しいと見物人も多く出た。天保十一年(1840)敵討ち「四月九日夜四ッ時、飯倉町親の敵討有之。 常陸国筑波下武茂郡下那珂西むら百姓乙吉伜乙蔵、親の敵藤十郎を討也、親乙吉を討れ十余年にて討申候よし。」国貞 伊賀ノ上野仇討ノ図 (三枚続の内) (国立国会図書館蔵)天保十二年(1841)驢馬(ロバ)「当二月、浅草観音開帳に付、御入国以前より相続罷在候並木町海苔御用正木庄左衞門事、金設け可致と存付、大明国大驢馬を長崎表より金四百両に買受候由、見世物小屋掛り迄七八百両も入用懸り候との事、耳長く惣身鼠色、大さ馬程、鳴く声井戸釣瓶を汲音の由、時をたかへず時刻々に鳴候よし」ロバが当時珍しい生き物だったなんて、不思議ですね。中国には昔からいましたし、馬と大して変わらない外見なのに、400両で買われてきたなんて、当時の人の好奇心はかなりの物です。十一代将軍家斉 逝去「天保十二辛丑年閏正月晦日 大御所家斉公薨御 御寿六十九、御治世五十一年」曲鞠・菊川国丸「浅草観音開帳之砌、奥山において三月廿三日より、大坂下り風流曲手まり太夫菊川国丸」菊川国丸という者、鞠をつかった曲芸(リフティング名人のようなもの)の曲鞠(きょくまり)を見世物にして、見物人が山となる。戸物細工・貝細工「浅草念仏堂 曽我両社開帳 七月朔日より瀬戸物細工 牛若弁慶五条橋 樊噲門破り 鬼の念仏藤娘 笑ひ大黒 茶の湯座敷貝細工 貝細工人 淀川富五郎 人形師和泉屋五郎兵衛【俵藤太遊女】大蛇に百足【凡十間余前手すり 五条橋】 大原女草苅 雀竹 色遊 其外鉢植二十品」浅草寺観世音開帳にて、淀川富五郎という者の作りし貝細工の見せ物あり。両眼自在「羽州最上郡新庄二間村百姓 林助孫長次郎とて十四才に成けるが、六七年前より両眼自在に出這入す、眼の玉大さ一寸余も有べし、其出たる眼へ紐を下げ、銭五貫文、或は石、色々のもの右に順じ懸る故、終に江戸に出して両国宮芝居広場に於て見せものとす。」14歳の少年が目の玉を出して、そこに紐で銭や石をぶら下げて見世物とした。歯力鬼右衛門「九月、両国橋西広小路ぇ、紀州和歌山の生れにて、歯力鬼右衛門といふもの見世物に出るなり。磁器の茶碗をかみ割、或は大だらい差渡し六尺子供二人入れ、是をくわへ踊り、鐘の龍頭を口にくわへ、右臼、右と左りへ四斗俵のせ、口にくわへ矢をいる、誠に奇妙也、重きもの四五十貫のものをくわへ自在に扱ふ也」茶碗をバリバリ噛み砕き、たらいに子供を2人のせて口にくわえて踊るなんて、昔のビックリ人間に出て来そうな人ですね。天保十三年(1842)役者似顔絵禁止「天保十三寅年五月飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七人三貫文宛過料、画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。 六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出」天保十三年の五月、昨年十一月の芝居移転令と時を同じくして禁じられた役者似顔絵を出版したというかどで、「飛騨内匠棟上ゲ図」と「菅原操人形之図」が手入れに遭い、絵師の国芳と豊国、板元の伊賀屋・古賀屋等を含めて関係者七名が三貫文(3/4両)の罰金を科せられたという記事です。役者似顔・遊女芸者絵の禁制「六月、役者似顔、遊女芸者類ひの錦絵・合巻・草紙の類御法度被仰出之」錦絵禁制、町触「六月四日 町触錦絵と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候ニ付、以来開板ハ勿論、是迄仕入置候分共、決而売買致間敷候、其外近来合巻と唱候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重ニ役者の似顔、狂言之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等粉(ママ)色を用、無益之義ニ手数を懸、高直ニ売出候段、如何之義ニ付、是又仕入置候分共、決而売買致間敷候、以後似顔又ハ狂言之趣向等止、忠孝貞節を取立ニ致し、児女勧善之為ニ相成候様書綴、絵柄も際立候程省略致、無用之手数不相懸様急度相改、尤表紙上巻も粉色相用候義、堅可為無用候、尤新板出来之節は町年寄ぇ差出改請可申候。但、三枚続より上之続絵、且好色本等之類、別而売買致間敷候」天保の改革で浮世絵も歌舞伎役者、遊女、芸者などを描いた物は禁止されました。市川海老藏、江戸十里四方追放 「六月廿二日、木挽町芝居外題、五ッ蝶金紋五三の桐狂言興行中、狂言役者市川海老蔵被召捕」倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えました。市川海老蔵は贅沢な生活を、とがめられて江戸を追放されました。色摺り回数制限「絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事」錦絵の続絵は3枚までとして、それ以上の物は禁止。摺りも7~8度摺にして、価格を16文にすること、女絵は禁止ですが幼女においては可。1両=4000文で計算するのですが、8月に1両=6500文となったので、16文=240円天保十四年(1843)神田明神祭礼画「天保十四卯年春本郷二丁目古賀屋板元にて、神田明神祭礼の画を出して、よく売れて損をせし事是は祭礼之図三枚に紅をたんと遣いて極彩色に致し、能売候得共、前々と違ひ高直に売事ならず、一枚十六文宛にては少々損参り候に付、能売候程たんと損が参り候に付。」高価な紅を多く使い出したる神田明神祭礼の錦絵、良く売れたが一枚16文では赤字だったという話。歌川国芳 荷宝蔵壁のむだ書 (国立国会図書館蔵)天保十三年(1842)頃から浮世絵に対しての、規制が強くなったのが分かると思います。役者絵を描くのも禁止されてしまいますが、国芳の描く「荷宝蔵壁のむだ書」は、壁に描かれた落書きを写したもの、という言い訳の上に描かれた役者絵です。「荷宝」は「似たから」の駄洒落で、稚拙に描かれた絵のようですが、実は役者の特徴を良く捉えているのです。国芳という浮世絵師は根っからの江戸っ子で、幕府の禁令にも一休さんの頓智のように抜け道を探して、色々な浮世絵を描いています。その中でも国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」は国芳らしい、権力に対しての反骨精神に溢れている問題作でした。その作品については次回に。