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 喜多川歌麿  実競色乃美名家見 三浦屋小紫 白井権八
 
 
 
 
 
浮世絵のジャンルで人気を二分したのが美人画と役者絵です。
 
その中で美人画といえば吉原の遊女は良く描かれる画題ですが、吉原の遊女は特別な存在だったように感じます。
 
それは吉原という場所が、只の遊里ではなく当時の文化人や知識人などが集う江戸文化の中心的存在であったからではないでしょうか。
 
新吉原は、浅草千束村に東西に約330m、南北に250mの敷地の周りを御歯黒溝(おはぐろどぶ)と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門の一か所だけの閉鎖された町の中に、遊女3千人と多くの商店、本屋、銭湯、芸人など合わせてい1万人ちかい人口がありました。
 
大門は吉原の唯一の出入口で入って左に、町奉行所の同心と岡っ引きが常駐、右手には四郎兵衛会所があり遊女の逃亡を監視していました。
 
遊女と言うと流行の豪華な着物を身に着け贅沢な暮らしをしているように思いがちですが、実際は着物、帯、装飾品、化粧品など全部自腹で、常に借金が減らないような、システムになっていました。
 
遊女の年季は約10年と言われていますが、吉原の遊女の務めは想像以上に過酷で、病などで亡くなる者も多く、上級遊女以外の平均寿命は21~23才位と言われています。
 
心中立て(しんじゅうだて)という言葉があります。
これは遊女が客に対して愛情の不変を誓い、証拠立てることを言いますが、それには放爪(つめをはがすこと)、断髪、貫肉(腕や股の肉を傷つけること)、入墨、誓詞、切指(指をつめること)などがありました。
 
実際には多くの客をつなぎとめるための手段として用いられて、本当に指を切る遊女は少なく、切ったとしても一度に10人ぐらいの相手に渡すのが常だったそうで、本物を渡されるのは一人で、後の九人は贋物(模造品)の指が渡されたといいます。
 
しかし中には本当に心中騒ぎをおこしたり、駆け落ちする者もいましたが、捕まれば男は殺され、遊女にも厳しいお仕置きが待っていました。
 
歌麿が浮世絵に描いた、小紫 と権八も、吉原の歴史の中でも有名な遊女の話として歌舞伎にもなっています。
 
 鳥取の武士,平井権八(歌舞伎では白井権八)は、父親が同僚に馬鹿にされたのに怒って、相手を切り殺してしまい江戸に逃亡、そして吉原で小紫(二代目)と運命の出会いをしてしまいました。
 
小紫(濃紫ともいう)は太夫という最高上位の遊女の為に、権八は辻斬りや強盗などして金を作るしかなく、130人も殺したといいます。
権八は虚無僧になり郷里の鳥取を訪れるも、すでに両親が死去していたことを知り、自首し鈴ヶ森で処刑されました。
 
後日、目黒の東昌寺に葬られた権八の墓前で遊女が自害しました。
それは権八と二世の契りを誓っていた小紫であり、その日は大尽に身請けされた当日だったと言います。
 
身請けされ、自由の身になってさえも「誠」を貫き通した小紫、享年21才だったと言います。