子孫に残したい遺産『正信偈』をわかりやすく解説する【浄土真宗の教え】 | 仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

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「お前の力を信じてる」「あなたのことをいつも信じているからね」などと使われる「信じる」という言葉、一般的に疑いがないときに使われる言葉とされています。
しかしよく考えると、疑う余地のまったくないことなら、そもそも信ずることは不要になります。
「夫は男だと信じている」と口にする妻はいないでしょう。
疑いようがないからです。
ひどい火傷をした人は「火は熱いものだと信じている」とは言いません。
熱かった体験をしたからです。



疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言いますが、「信じている」とは言いません。
「信じる」のは、「疑いの心」があるときです。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしませんから、「合格を信じている」と言います。
「合格を知っている」とは言いません。
“ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからでしょう。



世間でいう信心も同様です。
ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心です。
「私は神を信じます」というのも「私は神を疑わないよう、努めてます」「神の救いを疑う心を押さえつけて、力んでます」ということになります。



親鸞聖人が仏の救いを「真知(真に知んぬ)」「誠知(誠に知んぬ)」と宣言され、蓮如上人が「今こそ明らかに知られたり」と喜ばれているのは、はっきり今、本当の幸せになった、という大自覚があったからです。
例えれば、乗っている飛行機が乱気流で激しく揺れれば「もし墜落したらどうしよう」と不安な気持ちになります。
しばしば「大丈夫です。ご安心下さい」と機長のアナウンスが流れると、機長の言葉に元気付けられるものの、あまりに揺れる機体に、やはりおきてくる不安や疑心はどうしようもありません。
それが安全無事に着陸できたら、どうでしょう。
「あー、助かった」と心から安堵し、「墜落するのではなかろうか」「機長の言葉は本当だろうか」との疑心はきれいになくなるようなものです。



疑いのなくなった信心を『正信心』といい、その明らかな世界を偈(うた)にされたのが、よく葬式や法事で読まれる『正信偈』なのです。