「衰退する寺」と「栄える寺」のたった一つの違いとは | 仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

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葬儀が簡素化する今日の風潮は、葬式法事に依存した寺院にとって大きなダメージです。
僧侶は兼職、廃業を迫られ、寺自体も急速な勢いで無くなってきています。



しかしこれもまた本来の「僧」たる立場に帰る勝縁なのではと、私はこの風潮を好意的にとらえています。
江戸時代、檀家制度で各寺に門徒(檀家)が割り当てられ、その檀家からの葬式、法事、墓の世話で生計を立てられるようになりました。
そのうちいつしか本来の僧の任務である「仏法を伝える」ことがおろそかになっていきました。



元来、お釈迦様の説かれた「僧」とは仏弟子のこと。
「真の仏弟子」とは、お釈迦様の説かれた仏法を皆にわかるようにお届けするのがただ一つの仕事です。
仏教を人にお伝えするのは大変です。
お経は難しい漢字ばかりですから、その一つ一つの意味を話すだけでも大変ですが、それだけでは未だ仏法を伝えたことにはなりません。
お経の意味を話したところで、その内容が自分の人生とどう関係しているのか、みな分からないので、聞く耳を持ちません。
続けて聞きたいと思われないのです。



私たちの人生にとって絶対欠かしてはならない大切な内容が、仏教に教えられていたとは知らなかった、と聞く人が感動し、続けて聞かせていただきたい、となってこそ、法を伝えている、といえますが、これは大変難しいことです。
根気の要ることです。
いい加減な気持ちで取り組んでいる人が務まるものではありません。
僧侶が他の仕事に就かず、法施一つに専念するのは、片手間にできることではないからです。
法施一つに専念してさえ、なかなか法をお伝えすることができず、悩みが絶えないのに、他の職業をする時間はないのです。



自分の生活を抛ってでも、人々に法をお届けすること一つに専念する僧を敬って、仏教では「僧宝」と言われます。
自らが正しく仏法を知り、それを伝えることに己の全てをかける人は、私たちにとって、かけがえのない宝だからです。