仏教で『慈悲』とはどんな意味か。そして仏の慈悲とはどんな心か | 仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

仏教講師の菊谷隆太が『人生の目的』を親鸞とブッダの言葉で示すブログ

『なんで生きているんだろう?』とつぶやきがもれるあなたに、わかりやすく釈迦の答えを示します。無料メール講座が好評です。受講者3000人。深い内容まで切り込みます。

テーマ:


『生きる意味』を親鸞聖人、ブッダの言葉で示す仏教講師、菊谷隆太のブログ  


先日、縁あって何年ぶりかで

AEDと心臓マッサージの講習を受けました。


心臓が止まると脳に血液がいかなくなって死に至るので、

心臓を圧迫して血を全身に送り出しているのだそうです。


心臓に刺激を与えて動くようにするのは、

AEDによる電気ショックであって

それまで死に至らしめないように

心臓マッサージをやるようです。


仕組みがわかると、

心臓マッサージの必要性が納得できますね。



【今日の仏語】は『慈悲』です。


==============


■仏教に『慈悲』という言葉があります。


今日では日本語になっており、

いろいろな場面で使われます。


「あの人は慈悲深いよ。」

「あのやり方は慈悲のかけらもない。」

と使ったりしますね。


では元来仏教で『慈悲』とは

いかなる意味を成すのでしょうか。


『慈悲』とは

『慈』の心、

『悲』の心、ということです。


漢字の造りから見ても

「心」という字がついていますよね。

『慈』も『悲』も共に心のことです。


ではどんな心をさすのか、といいますと

『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」です。

『悲』とは、「与楽(よらく)の心」です。



■『慈』とは、苦しんでいる人がいると、

その苦しみを抜いてあげたい、という心です。


苦しんでいる人がいると、

こちらまで切なくなってくる時ありますよね。

苦しんでいる人をほおっておけない、

そういう心です。


「あいつの自業自得じゃないか。

オレには関係ない。

it's not my business.

知ったことか。」


苦しんでいる人がいても

見て見ぬ振りができる人があれば、

それは無慈悲な人です。

『慈』の心のない人です。


たとえその苦しみが自業自得であっても

その苦しみを何とか和らげられないものか

と心がせわしくなるものです。


このたびの震災でも

何か自分にできることないだろうか、と

日本中が立ち上がりました。


苦しんでいる人がいると、

じっとしておれなくて、

何かせずにおれなくなる、

これが『慈』の心です。


たとえ自分はどんなひどい目にあっても

どんな苦難の中で命終わろうとも

この人を絶対に不幸にさせてはならない

と『慈』の心に動かされたとき

人は強くなります。


■『悲』とは、相手に喜んでもらいたい、

笑顔にしたい、楽しませたいという心です。


自分さえ喜んでおればいい、とは思えない

あなたも美味しいラーメン屋に感激したら

あの人にも食べさせたい、という気持ちになるでしょう。


他の者はまずいラーメン食べてろ

この店は俺だけが楽しむんだ、という人は

もしあれば、これまた無慈悲でしょう。


自分さえ評価されればいい、

自分さえ儲かればいい、

自分さえ好かれたらいい、

この忙しいのに、あとの人の幸せまで考えておれるか

これでは無慈悲な人になってしまいます。


この人を笑顔にしたい

幸せな人生を送って欲しい

どうすればこの人に貢献できるか、

どうすれば喜んでもらえるか

この「どうすれば」は

崇高な悩みといえましょう。


たいていの人は

どうすれば認められるか

どうすれば儲かるか

と自分のことでクヨクヨ悩むものです。


周りから取ることを考えるのではなく、

周りに与えることだけを考える

この『悲』の心に動かされたとき

人は強くなります。


■仏教では、仏の慈悲について

『衆生苦悩我苦悩 

 衆生安楽我安楽』

と説かれています。


(衆生(人々)の苦しみが

 私の苦しみである


 衆生(人々)の幸せが

 私の幸せである)


この大慈大悲で言わずにおれないのが

仏の説法なのです。



=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。