先日、縁あって何年ぶりかで
AEDと心臓マッサージの講習を受けました。
心臓が止まると脳に血液がいかなくなって死に至るので、
心臓を圧迫して血を全身に送り出しているのだそうです。
心臓に刺激を与えて動くようにするのは、
AEDによる電気ショックであって
それまで死に至らしめないように
心臓マッサージをやるようです。
仕組みがわかると、
心臓マッサージの必要性が納得できますね。
【今日の仏語】は『慈悲』です。
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■仏教に『慈悲』という言葉があります。
今日では日本語になっており、
いろいろな場面で使われます。
「あの人は慈悲深いよ。」
「あのやり方は慈悲のかけらもない。」
と使ったりしますね。
では元来仏教で『慈悲』とは
いかなる意味を成すのでしょうか。
『慈悲』とは
『慈』の心、
『悲』の心、ということです。
漢字の造りから見ても
「心」という字がついていますよね。
『慈』も『悲』も共に心のことです。
ではどんな心をさすのか、といいますと
『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」です。
『悲』とは、「与楽(よらく)の心」です。
■『慈』とは、苦しんでいる人がいると、
その苦しみを抜いてあげたい、という心です。
苦しんでいる人がいると、
こちらまで切なくなってくる時ありますよね。
苦しんでいる人をほおっておけない、
そういう心です。
「あいつの自業自得じゃないか。
オレには関係ない。
it's not my business.
知ったことか。」
苦しんでいる人がいても
見て見ぬ振りができる人があれば、
それは無慈悲な人です。
『慈』の心のない人です。
たとえその苦しみが自業自得であっても
その苦しみを何とか和らげられないものか
と心がせわしくなるものです。
このたびの震災でも
何か自分にできることないだろうか、と
日本中が立ち上がりました。
苦しんでいる人がいると、
じっとしておれなくて、
何かせずにおれなくなる、
これが『慈』の心です。
たとえ自分はどんなひどい目にあっても
どんな苦難の中で命終わろうとも
この人を絶対に不幸にさせてはならない
と『慈』の心に動かされたとき
人は強くなります。
■『悲』とは、相手に喜んでもらいたい、
笑顔にしたい、楽しませたいという心です。
自分さえ喜んでおればいい、とは思えない
あなたも美味しいラーメン屋に感激したら
あの人にも食べさせたい、という気持ちになるでしょう。
他の者はまずいラーメン食べてろ
この店は俺だけが楽しむんだ、という人は
もしあれば、これまた無慈悲でしょう。
自分さえ評価されればいい、
自分さえ儲かればいい、
自分さえ好かれたらいい、
この忙しいのに、あとの人の幸せまで考えておれるか
これでは無慈悲な人になってしまいます。
この人を笑顔にしたい
幸せな人生を送って欲しい
どうすればこの人に貢献できるか、
どうすれば喜んでもらえるか
この「どうすれば」は
崇高な悩みといえましょう。
たいていの人は
どうすれば認められるか
どうすれば儲かるか
と自分のことでクヨクヨ悩むものです。
周りから取ることを考えるのではなく、
周りに与えることだけを考える
この『悲』の心に動かされたとき
人は強くなります。
■仏教では、仏の慈悲について
『衆生苦悩我苦悩
衆生安楽我安楽』
と説かれています。
(衆生(人々)の苦しみが
私の苦しみである
衆生(人々)の幸せが
私の幸せである)
この大慈大悲で言わずにおれないのが
仏の説法なのです。
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