加茂紙のはなし<参考> | きっかずるーむ

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あとりえきっか、きっかのブログ。

新潟県には(昔は越の国といわれていました)紙屋庄といわれた地域があり、

村松町(今の五泉市)と加茂の山間の地域では和紙作りがさかんに行われました。
七谷の下大谷の田浦米太郎さん宅では、今から200年以上も前から紙づくりをしていた記録が残っていますし、

七谷から新発田の殿様へ紙を収めたという古い記録もあります。
新潟県では、明治から大正にかけて2000軒も和紙作りをしていた家があり、

そのうち加茂七谷郷には、400軒もあり、加茂紙という名で知られ、とても盛んでした。

   

 <加茂市公民館こども工作教室資料より>

 

 

山間部の農家の冬季の仕事として行われていたのでしょう。

最後の紙漉きをされていた田浦さんが平成5年に辞めるまで、加茂紙は実際に七谷でつくられていました。

(田浦さんの使っていた舟は、今漉き場にきています)
その後、加茂市で技術継承を目的に「加茂漉場」が設置され、

令和2年現在、一人の職人が技術を伝え、質の良い紙ができるよう技を上げるために頑張ってます。
地元の楮を漉いてこその加茂紙、と、楮の畑仕事から、漉いて製品にするまで一人で。

一通りを一人でこなすところは、もうあまりないかもしれません。


私(あとりえきっか長谷川)が、和紙にかかわったのは、実は今から20数年前、公民館職員としてでした。

田浦さんから技術を引き継ぎ、最後まで紙漉きを指導してくださった伊藤景昭さんのお手伝いをして、楮を煮て、材料をつくり、

(←ここまでが、大仕事なのですが!)子どもたちと漉いて紙を作りました。

体験で作る紙は、厚さもまちまち。

当時でも、生活の中に和紙はあまり無く、凧をつくってまとめとした覚えがあります。

 

漉き場が開設された時、伊藤さんからお声がけいただき、作業場を見せてもらいました。

ステンレスの、今風の機械が並んでいて、「わー、本当に紙漉き産業を復活させるんか」と思ったのを覚えています。

本当に世に出す製品を作る技術に至るには並々ならない苦労があると思います。

でも、今、こうやって歴史と技術を残し(保存)伝える(継承)お仕事が市で続いていることは、財産と思います。

古いもの、なくなってしまったら、ゼロからまた出発ですからね。

 

七谷は紙を製品とするだけでなく、水引の生産でも知られていた由、明治代の新聞記事に見たことがあります。

 

産業としての復活はいろいろな条件が必要ですが、市で今、社会教育部門で残している意味、意義を活かせたら

よいのでは?と思います。

職人さんの努力が報われるよう、市に少しでもあがりがあるよう(古より社会教育と採算部門は相性が悪うございます)

はねものの紙を分けていただき、何か形にできないものかと職人さんと一緒に構想しています。

 

かものかみカバン 試行錯誤中!

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