こんにちは。ナナの飼い主です。

 

今日は、前々回に引き続き、またもやウクライナ戦争で感じたことの3回目。

なぜか、ニュース見てると感じるところがあるんですよねw。

ということで、相変わらず読まれもしない長文寝言を。お暇な方はお付き合いを。

 

で、テーマのことを突然、思ったのはこいつをニュースで見たから。

 

 

 

 

ウクライナ戦争のニュース見てると、キットみたことあるのが、この武器。

アメリカ製対戦車ミサイルの「ジャベリン」

特にYouTubeのウクライナ動画見てると、ホント、しょっちゅうウクライナ側の動画で、こいつが戦車とか装甲兵員輸送車とか攻撃ヘリとかをぶっ壊しているのがアップされてます。これとか。見ないほうが良いかもだが、これが戦争。(心にストレスありって注意が最初に警告されます。見る見ないはご自身で選択ください。グロな死体は出てきません。)

 

 

 

ちなみに、ジャベリンは投げるタイプの武器として使われる槍の総称だそうです。映画『ベンハー』で投げてるのをみましたが、あれです。それをミサイルの名前にしたんですね。で、上のポスターは女神(聖女)がミサイルのジャベリン持ってる姿ですね。

直訳すると、『聖ジャベリン ウクライナの守護者』でいいでしょうか。

どうも、この方がギリシャ神話とかの女神やキリスト教の聖人でいるわけではないみたいですので、ウクライナ戦争が起こってからの造られたみたいで、ポスターやステッカーとして売り上げをウクライナ政府に寄付するみたいな使い方がされているようです。

 

で、私が感じたのが、これ『ジャベリンを持つウクライナの守護者 聖○○○○』ではないということで、ジャベリン自体が守護者、つまりは女神又は聖人とみなした記載だということですね。つまりは武器の擬人化というか、擬神化。

 

あれ、こういうの、どっかで見たような・・・・

 

で、思い出したのがこれ。

 

 

映画『続 猿の惑星』のコバルト爆弾といいますが、この映画中、核戦争で生き残ったが醜いミュータントとなった人類が崇拝しているのが、こいつなわけで、言ってみれば『コバルト爆弾神』ですね。『猿の惑星』自体はリメークされましたが、やはり、原作のエンディングを観たときのインパクトは、ダークながらも数あるSF映画の中でも屈指の素晴らしいものだったと思います。『続 猿の惑星』では、前作で核戦争で自滅した人類に代わって地球の支配者となった猿と支配される原始的な人類が描かれたのですが、文明を捨てずに生残こった人類はなんと、こんな状態(爆弾で滅んだくせに、まだ、その武器を崇めている)だった。というのも絶望的ですよね。1970年作成ということで、ベトナム戦争まっさかりということで反戦という意味もあるとは思いますが、米ソ冷戦がこの少し前からデタントと呼ばれる雪解けがあり、お互いの戦略核ミサイルと削減していこうという流れが出てきた時期でもあるので、むしろ、私は、『核で世界が滅んではいけない』という時代の共通認識があって、出てきたんじゃないかなと思っています。

 

 

で、ジャベリンの話に戻るんですが、ジャベリンを擬女神(又は聖人)化したのは誰かは知りませんが、広く受け入れられたというのは、凄くわかりますよね。ロシア軍が押し寄せてきて、自分たちの家、街は瓦礫の山。友人、知人はもちろん、家族も沢山死ぬのを目にしなければならなかった悲惨な方々が、ロシア軍侵攻の象徴的な存在である戦車、素手や自分たちが持っている銃や少ない旧式戦車ではではどうしようもない絶望的な状況下で、巨悪の象徴である、ロシア軍の戦車がジャベリンによって、次々に砲塔が吹き飛び、炎を上げて燃える姿が、動画で見られる。『一方的にやられることはないんだ。このミサイルさえあれば。』『我々を守ってくれるんだ』本当にたくさんの方が、そう実感し、聖ジャベリンという女神、あるいは聖人が創られたのだと思います。

 

その気持ちは痛いほど分かるのですが、が、・・・・・・・・・・

私は、やはり、コバルト爆弾を神とするのと同じ、違和感、もっと言うと嫌悪感を感じざるを得ないのです。

 

動画は、ジャベリンミサイルが戦車を壊したと見えるが実はウクライナ人○○○がロシア人の○○○他3名を殺したってことです。あのアップされる動画で爆発し燃える戦車の中には3~4人の二十歳そこそこの若者がいる。もちろん、昨日、レイプした、あるいは高校生のパソコンを盗んだ、あるいは、抵抗しない老人を轢き殺した若者たちかもしれない。侵略者であることは100%間違いない。それでも、真っ黒こげの頭骸骨しか残らない、死骸。ほんの数秒前には生きていた青年が、炭になっている。あまりににも私は凄惨に思います。

 フェイクかもしれませんが、ウクライナ側が死亡した兵の母親を探してメール?で死に顔を送ったとかニュースがありましたが、もし、それが真実なら、やはり、この死も、この死を親に見せつけるのも、人間としては間違っていると思わざるを得ないのです。たとえ、プーチンに原因があるとしても。※

 

 

YouTubeの動画では同時にパソコン上のシムレーションゲーム上で、ロシア軍とウクライナ軍を戦わせたものがアップされていますが、ほぼ、素人が一見しただけでは本物と見分けがつきません。まあ、画面が荒い、スマホ画面なのはリアルのは間違いないでしょうが。

 

特に、ドローンからの俯瞰映像を見ていると現実の戦場動画なのにゲームと全く同じに感じます。実際、ゲーマーが優れたドローン操縦士として活躍してるとか。そして、戦車がジャベリンで爆発炎上して煙がでている動画にコメントで『ざまみろ、ロシア。ウクライナ頑張れ。』『ロシアの戦車最弱w』って類の投稿がたびたび書き込まれているのを見ると暗澹たる気持ちになります。ゲームの観戦じゃあ無いのに・・・でも、リアルでミサイルを発射したウクライナ兵だって液晶に表示された戦車を撃っているわけで、2キロ先の人間なんてほぼ目視してない。ロシアの戦車兵だってモニター見て撃ってる。ゲームとリアルは焦げた死体を観るまで違いはない。

 

 

でも、その焦げたロシア兵の母、妻、兄弟姉妹、友人、先生・・・・・何人もの人が、この死にざまを本当にリアルで見たらどう思うでしょうか?そして、『ざまみろ』って叫ぶ人の顔を直接、見たならば。『ロシアの戦車最弱w』ってヘラヘラ笑い顔の東洋人を見たならば。

 

だまされて、兵として侵略行為に加担した自業自得といわれれば、それまでですが、それは前々回のウクライナ記事で書いたように、私も、『ざまみろ』『ロシアの戦車最弱w』って言った人たちでも、生まれる時代、国が違えば、同じことをしていたのだろうとしか思えないのですから。

 

 

私の勝手な解釈だけどこういう考え方もあります。(たぶん学問的には全くの間違い)

難しい概念だけど、『物象化』ってことばがあります。英語では reification が相当します。簡単に言うと、個人的に又は社会的に「抽象的なものを、つまり考え方とか理念の中で語られるようなものを物の中に入れ込んじまう。」でしょうか?簡単じゃ全然ないw。この広い意味の類似概念で、いろいろと使われています。

 有名なのが心理学でのフェテシズムです。女の人の履いた靴下泥棒するやからいるでしょ。靴下なんて、ただの毛糸の塊。なのに・・・・・w。パンツならともかく、靴とかどういう思考なのか私にはさっぱりわかりませんが、クンクンしてるんでしょうか?その方の頭の中ではたぶん、いろいろな妄想が渦巻いてるんでしょうか?宗教学とか人類学では、呪物信仰というのもあります。特別な石とか、まあ、ただの石ころなんですけど、めっちゃ拝みまくるてのがある。どっちにしても、なんか、物に人間が狂わされてる感ありませんか?

 マルクスって例のマルクス主義の始祖が経済学(商品)※でも使ったんですが、これを発展させたルカーチって哲学者は、『人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する。』のは経済だけででなく、政治等他の分野でもそういうことが起こるっていったんです。

 

私は、たぶん、これが武器というものでも起こっているんではないかと思えます。

いや、このことによる依存性というものでは、人間が作った物の中では一番のものかもしれません。いったん武器を持った人間は手放さなくなる。おもちゃにした幼児に父親が殺されても、スーパーで乱射が起きても、アメリカン人は銃を手放さない。銃があれば手に入る、人を強制できる、そして、そいつら悪漢から自衛することができる。そういう風に銃に人間の思考が支配されている。物象化的に言い換えると、銃という物の中に略奪、支配、防衛という概念が入れ込まれているという風にも書けます。核兵器には、昔はナチスが創る前の先制取得→共産主義(ソ連)からの防衛→米ソの均衡→今やロシアや中国、北朝鮮といった野盗が核で脅迫する時代には報復という手段取得による、どの国もが持つべき自衛というふうに。

たぶん、平和を望む人間が多いことは多いとは思いますが、同時に、武器という物は人間(の心)を支配する力を持っている。人間はそれを保有したい、使用したい、いや持たなければなならない、・・・・・・・使わなければならないと思い込まされているとも言い換えられると思います。

 

武器を手放す時代が人類に訪れることがあるのかどうか、武器によって人類が滅びるのが先か、武器と共に人類が共存し続けるのかは、私には分かりませんが、ジャベリンのみならず武器とは、全ての武器が人類を魅了するだけでなく、かつ呪いをもたらす存在に思えます。

 

 

 

 

今日は最後に、そうした武器の危険性、呪いを象徴的に描いた昔、そして現代の作品中の武器でも、思いつくまま、3つほど書いて終わります。神話や物語、アニメ、漫画、数多くの戦記が描かれ、そこで数々の呪われた武器が書かれてきました。きっと、それらは、武器の本質を作者が何らかの形で感じたから、そういう『呪いの武器』の描写がなされてきたように思えます。

 

 

北欧神話の『ティルウィング』

必ず望みをかなえて敵を必ず倒せる剣だが、3度使うと、使い手自らを滅ぼす剣。だが、人は使う誘惑に勝てずに自ら滅びに向かう。武器が所有者自らを滅ぼすという元祖的存在。プーチンはチェチェン、シリア、ジョージア・・ウクライナ。望みを叶えようとするのは何度目か。

 

 

パソコンゲームの『バルダーズゲート』の『リラルコル』
しゃべる剣。といっても人格があるからというのではなく、この剣、『さあ、次、いこうぜ(殺そうぜ)』ってしゃべる楽しい奴w。そう、『ロシアの戦車弱w』って言ってる人は、もう、人が死ぬことを見る悦楽、武器の魔力に魅入られてる。ゲームでは(しゃべることなくても)、持ち主の心を操って殺戮をさせる呪いの剣は定番だ。

 

 

そして、極めつけはこれ。正確には鎧なので武器ではないのですが武具として同様なのが、日本のみならず世界的にも有名なダークファンジー『ベルセルク』の『狂戦士の甲冑』。これ。

 

 

これ、ヘルメットが被る戦士によって変形してくるんです。前の持ち主の時は骸骨、主人公ガッツが被ると絵のようなオオカミチックな獣みたいですね。そう、武器の姿は持つ人類の姿なのだと。サリン爆弾の凄惨な威力は人類の凄惨な精神の現れそのものだという意味に私は考えます。

 知らない方向けに書くと、ベルセルクは英語ではバーサーカーと言いますが、一種のトランス状態になって戦い、普通の状態とは比較にならない戦闘力、もっというと残忍さをもって、自分の自我がないともいえる、つまりは何をやっているのかもわからないくらい、狂ったように殺しまくる戦士のことです。この漫画では、この鎧を着ると、そういう状態になるという設定がなされています。人類が、例えば、ある国が核兵器という武具をまとった瞬間、いもしないファシストや幻影のロシア帝国の幻想に指導者は取りつかれて、何十万人も住むウクライナの都市に核を落としかねない狂気に囚われているような発言が聞こえてきます。本当に恐ろしい限りですが、核を落とされた人とか街がどうなるかが、たぶん、全く頭の中、あるいは心の中にはもはやないように思えます。

 もう一つ、この武具で興味深いのは、自らが戦いで傷つこうが、武具自体が、戦いを止めることを許さないという設定になっていることです。例えば骨折しても鎧からとげのようなものが出て骨折部分を接合して、戦えるようにする。もちろん、出血し続けるので勝てずに時間がたてばそれで、着ている者は死ぬわけです。鎧は、もちろん、勝利するまで脱げない。ナチスの宣伝相ゲッペルスのドイツが非常に不利になってからの総力戦演説(すべてを犠牲にしてもヒトラーに従って戦い抜け)というのがあるのですが、それを彷彿させるものに私は感じました。

 

 

こんな風に、かずかずの警鐘が鳴らされているように私には思えるのですが、いつか、それらが、物語の中だけの存在になりますように。

 

 

 

 

 

 

※私は、暴力は否定するが、ウクライナを支持する。サッカーの試合や宗教戦争なら『どちらの側でもない』という立場はあり得るが、自由を否定し侵略する側と侵略される側が明確に分かれる侵略戦争においては、中立は存在し得ない。何もしないことは侵略を認めるという意味しかない。従って、もし、私がジャベリンを持ち、ウクライナの地に立っているなら、大地に置くことなく、躊躇なくロシアの戦車を向かって撃つ。私はその時、善ではなく悪でしかないが、悪が正義を守るのなら悪に立つ。だが、私は自らを否定する暴力を行う以上、自らが善ではないことだけは自覚しているだろう。

 

 

※私はマルクスは全く理解していないのですが、たぶん、物である商品というより商品→貨幣→資本って感じで、資本が自己増殖しようと人間を支配するみたいなことを言っていたような気がします。若い時、私は、『そりゃ、そういやそうかもしれないけど、こじつけっぽいよな。』程度に思ってたんですが、『今は、まさにあってるじゃん!』と信徒になっていますw。

 私と一緒に海外旅行してた方が、観光地で休憩した時のおもむろにタブレットだったかを持ちだしたんですね。当地の天気でもチェックしてるのかと思ったら株式相場w。確かに株で儲けてそれで海外旅行できるのなら、必要かもしれませんが、海外旅行で景色みてゆっくりする時間にチェックしなきゃいけないなら、何のために海外旅行してるんだ、この人?って思いました。この人、たぶん、生活どころか何回でも海外旅行でもできる十分なお金持ちだと思うんです。でも、もっと儲けたいと憑りつかれている。つまりは、これは金(資本)は自己増殖を求めて人間を操ってるってことです。

 最近、私のような古い人間が思うのは、昔は別に大臣でも社長でもないけど労働自体が価値、百姓でも大工でも『働ける体でありがたいです。』ってのが普通だったんですが、今は不動産のCMでも『当社が管理は全てします。アパート投資で月々15万円の不労所得。』という感じで、いかに不労所得を得るのが魅力的かって価値観ですね。ホント、第三世界の縫製労働とかタンカー清掃とか悲惨な労働、日本でもブラック労働は確かにあるのですが、やはり、汗して作物の成長を見て、自然に感謝する。お客さんに『助かったよ、これで明日、車が使えるわ。』って他人の為になって感謝される。(高齢者な私はヤマトの配達の方にいつも感謝の言葉をいってます。)そんな、労働の価値って、所得って要素以外の素晴らしいものがあると思うんですけどね。なこと言って、まあ、私も僅かでも貯金の利息でも付いてると嬉しい俗人だけど(^^;)。