こんにちは。ナナの飼い主です。
今日は、絵本の話でも。
といっても、だいぶ前に、『虹の橋第四部』をアップした時のあとがき(翌日のネタバレ記事)で、ネタの1つとして紹介した児童書の佐野洋子作『百万回生きたねこ』の話で、いずれ書くけどって言っておいたので、まあ、死なないうちに書いておくってことで。超長いw。
で、実は、少し前にアップした『ジョニー=キャッシュの白鳥の歌』や『夕映えの中で』に連なる、三部作みたいな記事だ。もちろん、共通点は『命を終える時に一緒に迎える同伴者』だね。ただし、今回の記事は前の2回と違って、後半は、たぶん、読んだことがある人には、なおさら予想外で「しんみり」「ほんわか」できるもんではないけどね。「そうは思わんな。」なら良いけど、「読まなきゃ良かった。」になるかもw。それで良かったらの方限定で。(「しんみり」がいい方は今日のはスルーで明日の記事を読んでね。)
まず、読んだことない人に言っとくと、『もし、あなたが中学生以上なら読んどけ』って本だ。
絵本だが、完全に大人向け。これ。
もちろん、絵本だからストーリーは簡単で、百万回生きた猫って意味は、実は、百万回死んだ猫ってことで、つまり、百万回、死んでも天国行けずに、無限転生しちまう、哀しい猫が、やっと愛しあう白ネコを得て、往生して二度と生き返らなかったって話だ。
主人公はどら猫というが、このどら、生まれ変わるたびに金持ちや王様や船員の飼い猫・・・・となる。もちろん、これは暗喩で、権力を得る人生、金持ちとなる人生、欲望のままに楽しいことを好き放題にする人生etc.の比喩になっている。まさに、金や権力、欲望に「飼われる」状態になったってこと。やっとこさ、そいつらから解放されて野良ネコを謳歌・・・まあ、よく言えば芸術家、ヒッピーや浮浪者の自由を得たとしてもってことだね。でも、幸せを感じることもなく、死ぬのも、どうせ転生するんだからと悲嘆にくれて泣くこともない、無限に繰り返す人生。
が、ついに、めぐりあった白ネコによって、家族を持ち、はじめて幸せを感じる。そして、幸福な人生も、いつしか・・・・老い、・・・伴侶を失ったときに初めて悲嘆にくれ大泣きする。泣き終えた時・・・・やっと自分も生き返りなしの本当に死ぬことができたってお話だ。つまり、実は、百万回生きるどころか、やっと1回、これで、「生きた」と言える生を全うしたってことだね。
いい話だし、中学生でも少し文学的素養があれば、この暗喩はすぐに理解するだろう。
が、大人になった我々は、いかに感激しようと、もう一つの現実に気づく。
本の内容は理解するのは容易だが・・・
そう、別にベンツに乗らなくても、ぼろの軽でも、初めてのあこがれの彼氏の運転ならとっても楽しいし、いかにベンツが楽ちんでも嫌な義両親の元への帰省は、幸せな時間ではないのだ。が、やはり、おなかが出た元彼氏の旦那のぼろ軽よりは、浮気相手のベンツに乗ってると、やっぱ楽だし、ちょっと自尊心もくすぐられるのも事実。レストランの食事もいいところですると、なんか、いい人生な気がする。これはやっちゃダメな人生なの?
会社に入り、課長になればわかる。ああ、俺が部長になって、このプロジェクトを指揮できたら、どんなに、面白いだろう。爺になっても、これが俺が創ったやつだぜ!って言えるだろうに。いや、そんな建て前など言わずとも、「課長」って部下に初めて呼ばれたときに権力の快感は直ぐに感じるだろう。まあ、会社じゃ社長になれなくても(転勤という絶対権力を振るえる)人事部長になれたらwって方も多いはずだ。
やっぱり、どうせ仕事するなら、ジョブズみたいな、面白いことして人生過ごしたいよね。サッカー選手でワールドカップでゴール決めたらどんな気持ちになれるんだろう。そこまで望まないけど、大谷選手に憧れ野球に打ち込むって素敵な人生と思わない?・・スターの追っかけって楽しいし、おひとり様で、これが生き甲斐でも良いじゃん・・・て。
まあ、実際、歳を取ってヴァントを見ると、いい生き方だなあとは確かに思うが、若い頃に生きる元気をくれる、あるいは生きる目標になってくれるのは、若い起業家とかスポーツ選手、もっと身近で溌剌と仕事をしてる先輩あたりというもんだろう。
みんな、生き方を考えるとか、そう言うんじゃ無くて、無意識に、普通にそう人生やってるだろう。
そう、それらは、改めて、どうせ年取って「死の前には無価値」だって、言われれば、確かに真実であることは否定はできないが。『百万回・・』を読んでも、読まなくても、 頭では、金で買った若妻に毒殺されるよりはw、愛する伴侶を最後の時に得たものが人生ではベターってのは分かるが、・・・・そうは、なかなか生きれないのが人生であるのも確か。だって、普通は、みんな、自分が死ぬことは考えないからね。だから、普通に、好きなことをして、権力ある地位に昇り、金持ちになって美人奥様に愛される(→優秀な子どもを得て、ついでにいい感じな犬も飼うw)。ついでに、ちょっぴり不倫もって、まあ、ホント都合のいい、「島耕作」妄想を持ってるわけだ。
逆に言うと、こんな妄想人生を生きてしまうのが普通の人間なんだから、ここまで、真正面から理想を突き付ける本があってもいいんじゃないかと思う。
佐野さんも、確かに、権力や金や作家としてのメジャーになりたいとあくせくしたり、そうなってアレな人生を歩んだ人では無いのは間違いないが、結局、谷川俊太郎とも離婚しているから、絵本のように理想の伴侶とともに人生を終えたわけでもない。絵本のように幸せな家族ではなく、『母とは3日も一緒に居たくない』って関係でもあったそうだ。つまり、そうじゃなかったからこその、憧れ、理想の家庭や人生、そして愛を美しい絵本に昇華させたんだろうと思う。
・・・・・・・・だが、理想と言えばいい表現だが、もっと、真実は冷酷なものなのかとも、私は思う。同じ思い描くものでも、「理想」ではなく、「幻想」ではないのかと。
飲み屋に『今日は社長が来るから早く開けろ!』って怒鳴った一流会社のエリート社員の話を聞いたことがあるが、社長の絶対「権力」がその会社内の人間にしか通用しない、関係の無い人間からすると、滑稽でグロテスクな、狭い範囲の社員が持つだけの共同幻想なのは明らかだ。
反対に、たかが近代のものにしかすぎない国民国家は今や人類によって最も広く共有される英雄的かつ悲劇的な共同幻想だ。渡り鳥に国境線など決して見えないが、世界中で「祖国のため」に多くの若者が、その幻想の線を守るために命を落としてきた。国歌・国旗、地図、オリンピックetc.で有りもしない幻の線が共同化されるのだ。鎌倉武士は「奉公」の見返りに「ご恩」という報酬を得るために元軍と戦ったのであって、決して「祖国のため」になど戦った訳ではない。
同様に富というものも、実は経済活動がもたらす、共同幻想だろう。通帳の10桁の数字の列はオニギリ一個ほどの役に立たない紙の染みだ。犬や雀さえ、一万円札を嗅ぎ、ついばむ事などせず、踏みつけて通り過ぎる。富とは、その社会に生きる人間が共有する貨幣の交換価値という共同幻想がもたらすものに過ぎない。あんな紙やビットは何の役にもたたないのに人はさも裸の王様が着る衣装を互いに奪い合うかのように、ただの紙切れと何でも、なんなら自分自身(の身や心)とさえ交換するのだ。
サッカー選手やロックスターへの憧れは、メディアによって映し出され、ディスプレイに見入るファンの見る共同幻想だろう。多くのスターが幻想を守るためにフェラーリに乗り、ステージでオウムのようなケバケバしい衣装で跳ね回り、タキシードやドレスで赤絨毯の上でセレブをするからこそ、キアヌ・リーヴスがカジュアルでバイクに乗り、ぼっち食や浮浪者に話しかけること自体がニュースになるのだ。全員がキアヌならスターという幻想は存在しえない。選手や映画俳優やロック歌手を「スター」(星)「セレブ」(有名人)として、技術・演技力・歌唱力とは全く別に、いかに多くの人間に知られているかと言うことを憧れるのだから。
人が二人以上集まり、社会が存在する場所では、何らかの共同幻想なしに人は生きられないのかもしれないとも思う。逆に言うと、人の社会というものの存立基盤は共同幻想ではないのかと。
人は幼虫が蝶になるように大人にはならない。「大人になる」には、その社会が有する数々の幻想をその人間も共有しなければならない。未開民族が文明化するとは、ドル札という文明の共同幻想を共有するということだ。
だが、もし、そうであるなら・・・
たぶん、これほど人が憧れ、死の間際まで、すがる『愛』こそが、人類最古、最大、最強・・・そして最も美しい、共同幻想ではないのか。
あなたが無人島に漂着して助けが来ないと分かった時でも、議員バッチは捨て、万札は焚き付けに燃やしても、妻に密かに隠し持ってた初恋の人との写真は決して燃やさないだろうw。
いつからか、人類はDNAで制御される求愛※→生殖行為や子どもの育成と安全のための一時的な共同生活でしかなかったものを『愛』と幻想するようになったのではないのか。いつからか、『愛』は生殖・子育てから逸脱し、『愛』の双生児である『エロ』(=動物が有する発情期を超える性交の恒常化、生殖という目的地からそれて暴走する妄想)と共に、『愛』の幻想を視るため、歌、ダンス、化粧・髪型・服装、短歌、小説、映画、写真、マンガ、アニメ、バレンタインデー・・・そして、絵本まで!、それらの数々のモノに人は耽溺するようになったのではないのかと。
子どもの頃に、「なぜ歌謡曲は『愛してる』歌ばっかりなんだろう?」と誰しも疑問に思うはずなのに、そうした歌を聴いていると、それを何時しか疑問に思わなくなる。最初は、ときめき、憧れ、・・・と。
たぶん、人の最古の職業でもある売春婦や愛人、そしてLGBTという性的少数者や近親性交に我々が抱く差別感、侮蔑感、嫌悪感というものは、『金』、『エロ』、そして『愛』の何れもが幻想であるにも関わらず、いや、幻想であるが故に、彼らが自分たちと異なる「異端」の幻想を持って、『エロ』や『金』の幻想を膨脹させたり、異質な『愛』の幻想の有り様を見せたりすることで、我々の共同幻想を相対化して(、一つの幻想であることを)我々につきつけ、『愛』の共同幻想に不快な揺らぎをもたらす為だと私は思っている。逆に、「お一人様」への哀れみは、実は自らの『愛』の幻想の確認・強化に過ぎないんだろうと。
この世界の、たぶん誰にも、少なくとも私には『愛』の真実はわからない。
だが、『愛』に幸せを感じ、惑い、悲しむ者は、この世界に確実に存在する。
たとえ、真実がそうであっても、・・・『愛』が美しい幻想でしかないのであっても、わたしは、やはり、この絵本の表紙の猫に惹かれるのだから。
私もこうであったのなら・・・と。