こんにちは。ナナの飼い主です。

ほんとに雨が続きますねえ。ナナが朝からテンション上げるのでしかたなくカッパを着て散歩しておる飼い主であります。というわけでナナの写真もなく、本日も犬に関係ない雑談です。いつものように、興味のない方はスルーでお願いします。

先日、最後に方丈記の話を書いたので、今日は古今集の雑談でも。

実は、学生時代は古典は一番嫌いな科目でした。しかし、我が家には『古典文学大系』なんてものがある!何故かというと、妻が高校の国語教師w。いや、高校教師と結婚するなら英語の先生にすべきだった。海外旅行で通訳させられるし役に立ちますよ。国語教師のやることといったら、私の書いた漢字の筆順が違うだの、誤字だのを速攻で指摘するだけの嫌なやつですw。おまけに家事を生徒に言うように命令調で言うし(><)

ま、それはさておいて、そんな訳で古典の本は揃っているので、たまに覗いてみるわけです。特に持病が悪化してからは、映画はもちろん、本とか長いのは観たり、読んだりする体力が無くなってしまったので、病院では和歌「古今集」を読んでいました。ま、これなら、1つ1分もあれば、訳も含めて読めるので、適当に開いたページを読んで疲れたら、止めてもいっこうに支障ないですから。

和歌のことを「言の葉」とも言いますが、古今和歌集の序文に紀貫之が書いた序文があって、ぴったり本質を書いてあります。「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」です。

人の心は見えません。あなたのダークな心も、燃えたぎる恋の思いもw。
が、その心=ひっそりと地下に見えないものが種となって成長し、見える形になったのが言葉であり、和歌という訳です。それは、言葉として一杯に茂っている(わんさか書いたり、詠んだり、しゃべったりする)木もあれば、もう枯れて1葉しかない木もある。皆が認めて、鑑賞(聞くような)するような有名人の葉もあれば、人知れず山奥に葉を付けている木もある。そういうふうに考えると「言の葉」という言葉を作った昔の日本人は凄いと思いますね。

で、ぱらぱらと読むというより眺めていると、直ぐ気づきました。
「あっ、これ、一緒だ。」
四季を歌った歌は、まあ花鳥風月といわれるような季節のいろいろな動植物や風景なんかが題材なんですが、これ現代人がやっている、写真、水彩画、インスタ、ブログ、ロック音楽・・と同じなんですよ。

「今晩はきれいな満月でしたね。」「散歩道に花が咲いてましたよ」「モズが巣を作ってましたよ。」「ワンコが・・・」言ってることは、今も昔も同じで大したこと言ってないw。昔はインターネットや写真機が無かっただけですね。だから、今は言の葉の種類が沢山になっただけなんですよ。インスタ葉、ブログ葉、ツイッター葉、ラップ葉ってぐあいにね。

そして、和歌集の前半が四季なら、後半は恋愛歌。
いや、今も昔も人間の関心事は色恋ということですな。

というか、貴族なんて、もともとすることないし、おまけに車もヨットも海外旅行も、ブランド品もTVもインターネットもないから、やることといったら、あれしか無いわけですw。

でも、うまく成就してる恋なんか、ばれたり、ひがまれてもいけませんから誰も歌いません。
詠まれているのは、それはそれは、遠くで想う切ない恋や、つれなさをめちゃくちゃなじるやつとか、ほんとに強烈なのが、これでもかというくらいてんこ盛りです。

まあ、和歌にして発表すると言うことは、本当にそうだったのかという疑問なしとは言えません。ある人に恋してるというより、恋するこ自体に酔ってるというか、酔ってる自分を表現することに酔ってるというか。ま、そんなこと言ったら、文学とか芸術なんてみんなそうとも言ってしまえるので、身も蓋もありませんが。

が、そういうひねくれた解釈は置いておいて、自分が同じ(悲恋の)立場に立つと「うん、うん。そうなんだよ。」と凄く共感できるの多いです。(^^;)ま、逆に言うと、そう言う共感してしまった人が多かったから、千年の時を生き延びたのですね。

ビートルズとかは、もう、古典とか言われてますが、果たして千年の時の試練に耐えて残るのでしょうか?今、この雑文を書いてる私も読んでるあなたも、とっくに墓の下どころか墓もないでしょうが、ちょっと知りたいものですよね。

もし私の推測した上の理由で古今和歌集が今に残っているのなら、私の秘蔵本の絶望失恋「中島みゆき全歌集」も、ぜひ残って欲しいものですw。