先日、近くの公園に地元の四日市市の動物愛護団体「つむぎ」さんの譲渡会に寄ってきた。

昨年だったか、散歩の時に、何か動物愛護団体さんがいるなとは、分かったが、キキを連れていたので吠えると迷惑なので、立ち寄らなかったのだが、一人なので寄ってみた。少しだが寄付と、キキの為に死の直前に買った、おやつを3袋ばかり受け取っていただいた。
保護犬はちらっと見たが、直ぐに立ち去った。じっと見て目があったら、「ちょっと触っていいかな?」になって、「く~ん」とでもなかれたら、そのまま「おめでとうございます!○○ちゃん、お連れ帰りです。」になってしまいそうだからだw。いや、ほんとに私は情に弱いから困ったものだ。まあ、60歳以上夫婦だから、里親は断られるかも知れないが・・(^^;)

動物愛護団体は、都会のものだと思っていたが、こんな田舎県にもあるとは、正直驚いた。
殺処分の犬猫は数万頭/年にも及ぶと聞く。それに、たぶん、もっと多いのは、流通過程で「売れ残り・欠陥商品」として処分される犬、猫たちだろう。

 

世の中、マスコミを見ていると、「記憶にない」と自分の悪にしらを切る大人、「おれおれ」とお年寄りのわずかな財産を盗む若者、仲間をいじめる少年と・・・「神のため」と称して殺人まで犯すものまで世界には沢山いる。犬猫の命など命とも思っていないものもいるのだろう。本当に人間は地球のばい菌ではないかと思わざるを得ないのだが、また、反対に、「人間てすばらいいな」と思わせる方々もいるのが、この世というものの救いだろう。

忙しく働いていたときはあまり目に入らなかったのだが、退職すると私の周囲にも、動物愛護に限らず、いろいろな分野で善意の方はいることが分かってきた。近所の歩道や町並み、あるいは海岸・河川をきれいに掃除されている方。通学路の安全を見守っていただいている方。私も微力ながら、民生委員としてお年寄りの訪問を少ししている。

動物愛護活動(里親さんを含む)も本当に砂浜の砂粒を拾うような作業だろうが、人間一人は一粒一粒の命を救うことしかできないし、それが、きっと命を守る大きな流れになると信じ、貴重な自分の時間やお金、そして何より熱意と愛情を小さな動物のために注いでいる、すばらしい方々だと思う。

本当は、保護犬を飼うのが良いのだろうが、私はキキの思い出が、どうしても忘れられないので、似た白い北海道犬を子いぬの時から育てたい想いが強く、やはり保護犬を譲り受ける気持ちにはなれなかった。愛護団体の保護犬(の写真)を見ると、つい後ろめたい気はしてしまうが。

で、動物愛護の方に話は戻るが、私は、年若い頃、動物愛護というのに、どうも、「うさんくさい気持ち」を持っていた。

なぜかというと、犬猫を大事にすることに異議はもちろん無いのだが、「じゃあ、その人たちが牛肉をうまそうに食べながら懇親会するのは何なのよ?」という、素朴だが、実は本質的、あるいは倫理的疑問を持ったからだ。

まあ、この現状を露骨に擁護するには、キリスト教徒のように「神が牛は人間に食べられるように作られた」というご都合主義的な説明をするしかないはずだ。もう少し良心的なw仏教だと「四つ足(ほ乳類)」はダメとかいう、まあ、感情を持っていそうな動物は止めましょうという、話にはなる。だが、この線引きはやはり文化的で、説得力には欠ける。なぜ、日本じゃ鯨はOKでアメリカじゃダメなのか・・・・とか線引き自体に異議が出てしまう。極端に言うと、日本でも虐待は禁止されているが、別に犬猫を食用にしてはいけないという法律はないらしい。こんなのおかしいじゃないか・・・と考えていくと・・・・

「命を大事にしましょう」を突き詰めていくと、少なくともベジタリアン(菜食主義者)であることは必須で、やはり最終的に論理的につきつめれば、インドのジャイナ教におけるアヒンサーとう概念に行き着くしかない。この宗教では、如何なる肉食も避けるだけでなく、植物の殺生に通じる芋などの球根類の摂取が禁じられている。さらに小さな昆虫や他の非常に小さな動物さえ傷つけないようしようと道からそれるなど、毎日の生活で極力動植物を害さないようにと少
なからぬ努力を行うというすさまじいものだ。いや、雑草も抜けないどころか、顔にとまった蚊すら、たたけないのは厳しいw。

まじめに言うと、「愛の優先順位や命の軽重はあるか?」という質問に還元されると思うが、私は今は「ある」と思っている。

正確に言うと、「(神ではない)人間は論理(知性)では、『愛や命は平等』と言えても、決っして感情(心)では、そうではないと感じ、振る舞う。」と思っている。(少なくともジャイナ教徒は150万人いるそうだから)「人間は」という一般論は少し言い過ぎでも、私としてはそうだ。

私は最近見た、ビデオで2つのものを思い出す。

1つは、「デス・パレード」あるいは「デス・ビリヤード」という名前のオムニバスアニメだ。
死者が裁定者により、天国行きか地獄行きかゲームの選択で決められるという内容だが、その中の逸話の1つでは、「大好きなアイドル(の天国行きを)助けるため、知らない誰かの死を選ぶ」ことにより自分が地獄(正確には虚無)に落ちた少女の話だ。で、もう1つメインとなる最終話は「(自分が生き返って)母をたとえ助けられなくても、見知らぬ誰かの死を選ぶことはしない」決断をして天国(正確には転生)を得る少女、知幸(ちゆき)の話だ。ここでは「愛や命はすべて平等たるべし」ということになる。

もう1つは、キアヌ=リーブスの「マトリクス・リローディッド」。
この物語の最後に、主人公ネオは設計者アーキテクトに「全人類(マトリクス全て)を救うか、今、現実世界で接している人々(ネオにとっては恋人トリニティ一人)を救うかの二択を迫られ、「愚かにも」トリニティを救うことを選択する。ここでは個別の一回性を持つ個人の生に共に生きた愛や命が優先される。「一人への愛が全て」ということになる。

これら2つ物語は、全く逆の結論に至っているが、私はネオの選択を常にするだろうと思う。

私は「愚か」だと言われようと、顔も知らないアフリカの餓死する子どもを救う基金にではなく、この目で見た四日市の保護犬を助けるために寄付する。

私は「狂っている」といわれようが、もし、そんな状況を強いられれば、間違いなく、見知らぬ人間より、自分の犬の命を助けることを選ぶだろうと思う。
毎日、しっぽを振って迎えに来てくれる、お尻を足先に置いて体を寄せかけてくる、目を見つめてくる、あの犬を見捨てられるはずもない。

たとえ、地獄に堕ちようとも。