1980年9月25日開店
ごくたま〜に「KIKI HOUSEってゆう店名ってどうゆう由来があるんですか?」って
そう聞く人に限ってコダワリを大事にする人だから「僕が造った料理を食べて頂いて、お客様が「大変美味しゅうございました」って喜ぶ顔を見て、僕も大変喜ぶ、なので喜ぶ喜ぶ家って書いてキキハウスって読むんです」って大理石で作った自作のハンコを一緒に見せると喜家喜と掘ってあるので「ふ〜ん」って妙に感心して納得してもらえる。
ぶっちゃけ、ここだけの話 拡散無用
キクチチアキの前と後ろの文字をとってキキハウスなんだけどね
1979年10月の遅い時間、ほとんど鳴らない寮の黒電話がリリリーンと鳴った。
電話当番の僕は受話器を取って応答したら
それは僕の父からの電話だった。
「地元の一番大きいデパートが移転しテナントを募集しているから
店を出して見ないか」という話だった
でも、僕は横浜ニューグランドホテルの直系レストラン
渋谷のレストラン サバランっていう店で働いていて
もう一段上げてホテルのシェフを目指そうとしていたので、とりあえず断った。
それから何回か寮に電話があって「それじゃあ 一度話し合おう」ということで
お正月休みに実家に帰ることになった。
そこで説得され、親父が言う青年実業家ちゅう文句にもグラッときた。
渋谷に戻り、修行させてもらっているレストラン サバランの社長にその趣旨を伝えた。
普段可愛がってもらっていて、皆が余りモノで作った賄いのお昼を食べているのに
俺だけ、蕎麦屋に連れってもらい、ざるそばにカツ丼とか
寿司屋に連れて行かれては、お昼セットに「好きなものお食べなさい」って言われたので
そこは容赦無くウニとか赤貝とか墨イカとかバンバン頼むので
「千秋くんは遠慮ちゅうもんがないのね」って言われたんだが
その喰いっぷりがあまりにも良いので社長は大将に「この子喰いっぷり良いでしょう」って
自慢していたくらい可愛がられていた。
当然自分が店を出すっていうことに反対されるのだろうと思っていたが
意を決して社長に言ったら
「やっぱりね、ただの勤め人じゃない気概とやる気が感じられていたから
遅かれ早かれ独立するんだろうなとは思っていたわよ」と
だって、レストランのシェフっていう仕事 楽しくて楽しくて
そりゃもう一生懸命になるのが至極当然無我夢中
気がついたら閉店時間みたいな、それくらい集中
さらに、お昼の休憩を返上しての料理長に直訴
「休み時間は要らないので、デゾッセさせてください」って。
今みたい肉といえば、肉屋さんに発注すると部位ごとに届く
なんて事は無くて、そのまんまで、ごろっとくるわけ
それのデモンタージジュ、自分の指もデモンタージュ血まみれ
タマネギのコンカッセを血まみれにしながら一箱20kgとか
カニクリームコロッケを火傷しながらのメランジェとか
とにかく何をやるにしても楽しくて楽しくて一日があっという間
それを、やらしてくれた料理長には今となっても感謝しかありません。
そして厨房の中40度超えの中で働いて21時過ぎの上がりには
コックコートは汗でビッショリ、絞れば汗が滴り落ちてきたのにもかかわらず
店を出れば、赤坂見附の無限とかビブロスっていうデスコには
しっかり踊りに行って暴れ、ここでもジャックの水割りをガンガン飲みながら
汗をビュンビュン噴き出す。
踊り疲れて、池ノ上の寮に帰るのもかったるい
なので渋谷に戻り、店の3階のホールで、そのままバタンキュー
なのでTOKIOの修行時代、寮に帰って寝た記憶があまり無い
そのくらい昼も夜も充実しまくっていた。
そんな俺、見られていた感じはなかったけれども、それをちゃんと見ていた社長は
「千秋くんなら大丈夫だわよ。頑張りなさいよ」という心強い言葉を頂いたので
東京勤めに踏ん切りがついた。
で、地元の大きなデパートの移転テナント説明会に父が行って担当者と話した結果
「ある程度の知名度と実績がなければテナントに入れないね」と言われ
まったく相手にされなかったたそうで、父は大いに憤慨した。
地元一番の老舗デパートなんだから当然と言えば当然の話なんだけどねと。
そこで父が下したことは
自宅とは別の所に所有している稲荷神社を取り壊して店を建てようという案
ていうか、もうその気になっていた。
「それってやばくないの?バチ当たらないの?」って言ったら
「先祖代々菊池家を守ってきた神様が子孫にバチ当てるわけねぇ」とキリッといった。
僕はその言葉に妙に納得した。
そうと決まれば話は早くてお稲荷さまの取り壊しが始まるのだが
その前にお堂の整理をしなければと言うことで、ギギギぃっと、ご開帳とあいなった次第。
「何やら、お稲荷さんのとこで、なにかが始まるらしい」と、
この地域の長老達や隣町の年寄り達ががワラワラと集まってきて
「久しぶりにお祭りをするのか」「お堂を新築するのかとか」
「まさか取り壊しはしないだろうな」とかうるさかった。
が、父は全無視で、お堂の中にあった祭り物を黙々と運び出し始めた
三方とか神前幕とか段板とか提灯などの「燃える部材を一箇所にまとめろ」って言うことで
境内の広場に運び出し、山盛りにした。
最後に神様の大きな扁額(看板)をその上に載ます。
そして父がその祭りものの山に火を放ったところで
地域の長老達は「わがね、わがねっ!」と「バチが当だるはんで!」って言い
血相を変えながら霧散していった。
そんな長老達を見て「大したことねぇ木端な奴らだ」って、父はうすく笑っていた。
バチバチと燃え盛る炎をバックに、そんな父が大きく無敵に見えたのは
今でもはっきりと覚えている。
そんな太敷堂稲荷神社の御神体を一時自宅に移す時
この街で一番大きな榊山稲荷神社の宮司の荒川さんにお祓いをお願いに行った。
そこで、いい機会だからどのよう謂れがあるのか
御神体を見ていただき、鑑定してもらうことにした。
結果、この町にある小さな稲荷神社は、ここ榊山神社の分霊なそうなんだが
うちの太敷堂稲荷神社は、お稲荷さまの総本山 伏見稲荷大社の分霊って事がわかり
弘化二年、西暦で言うと1845年に莫大なお金を使い本山まで赴き分霊を戴いた事がわかった。
さすが我がご先祖さん、南部家の総代神主だったことだけの事はあったんだな。
なので伏見稲荷大社の分霊である榊山稲荷さまとは兄弟関係にある事もわかった。
もう一つあった神様と思われる六角堂を見てもらった結果、
九州の菊池郡から船で県北の侍浜に上陸した
高尚な山伏であった先祖が南部家にとり入れられ
そこで新たに修行を積むため南昌山に籠った際、降臨された大山祇神とのこと
さすがの荒川宮司です。俺には読めない漢文をここまで詳しく解析して頂いた。
てことは、稲荷様は宇迦之御魂神と言う女神様
かたや六角堂の主神、大山祇神様は山の神ちゅうくらいだからこれまた女神様
なので「女どうし今まで一緒に祀って何事もなかったが不思議なくらいだ」と荒川宮司は語った。
と言うことで二つのお堂を作ることになったので出費が嵩むがしょうがない。
お堂が出来上がるまで自宅に移す遷宮を荒川宮司に執り行っていただいた。
そして店を建ててもらう棟梁の案で
「境内にある太いヒノキを製材して御堂を作りましょう」
と言う事になった。
そりゃあ めでたい事この上なし。
とまあ、うまい具合に話も建物も何もかもトントン拍子に進んで
棟上げ式を執り行うわけだが
なんの前触れも出してない午前10時
荒川宮司さんの柱立ての祝詞が終わって
柱が組み上がった天井部分に這い上がったら
ワラワラと旧小人町(現神明町)の老若男女が
どこから聞きつけたのかわからないが
眼下に集まって来たのにはびっくりした。
それに神社を解体したときに
「わがねわがね、ばぢたかる」と霧散していった
氏子でもある町の長老たちも集まってきたのには
僕は密かに失笑したのは内緒の話だ
てぇことは逐一建物の進行具合をチェックしていたんだな。
建物の四方に御神酒を振りかけ
いよいよ餅まきのときがやって来た。
のし餅に5円50円500円を仕込んだ袋を
集まった民に投げ入れると我先にと争奪戦
取れなかった童子は泣くし
おがさんは必死に拾うし
オドっちゃんは帽子を広げてキャッチしようと必死だし
なんだか民に富を分け与える殿様になった気分ではあった
が、それが終わった途端
潮が引くようにあっという間に民が居なくなったのには
更に笑った
そしてついに完成1980年9月25日開店の運びとなったのだ。
そうゆう流れの中で、昔の違法無線仲間の花さんが「舞台照明の仕事を辞めて店を手伝いたい」
と言う事で、またまた仲良く遊ぶ事となる。
その花さんの趣味がフライフィッシング
当然、魚釣りに目がないオイラは誘われるままに
あっという間にフライフィシングの世界にドップリとハマり
飲食店やるよりフライフィシングのプロショップをやりたいと思うほど熱中した。
休みのたびに県内の河川を渡り歩き、ほぼ全域をカバーした頃
この町に初めて出来たフライフィッシングのプロショップ「フリークランド」
そこの店長佐々木氏、フライフィッシングは勿論
鮎の友釣りも大好きで鮎釣りのことも散々聞かされていて
面白そうな釣りだなと思っていたので
砂子沢釣具店に買い物に行ったとき鬼印の友釣り仕掛けを1セット買った。
そしてヤマメ釣りのグラスの振り出し竿に、仕掛けセットの裏の解説書を見ながら
グラス竿に仕掛けをセットして、簗川漁協から購入した養殖鮎の鼻に仕掛けを通して
簗川の流れにそっと送り込んだ途端にガガガが〜ンツと言う衝撃が手に伝わった
悪戦苦闘して2匹の鮎をやっと取り込み
それからは連チャンで掛かるわ掛かるわ
鮎の友釣りの一歩目を踏み出した勢いのままに
鮎釣りに途方もなくノメリ込んだってのは言うまでもない事は開店して三年目の夏のこと。
そして開店して四年目の鮎釣りシーズンに入る時
毎日毎日鮎釣りをしたいと言うことでランチをやめようとした時
仕入れ業者の支店長が直々に来て
「飲食業ってのは、一日のうち二回しか儲ける事ができない
そのうちの一つ、昼の営業を止めるとは商売に反すること。何事か」とか言って
引き止められたが、暴走気味のオイラには「馬の耳に念仏」
そんな僕を見て、呆れ果てて支店長はしょぼしょぼ帰って行った。
というわけで事業を拡大する青年実業家という野望はボンっという音を立てて霧散した。
そういう経緯もあるんで言っときますが「鮎の友釣りだけには手を出すな」って言うことです。
人生狂う事、保証します。
当然、夏のバカンスシーズン、海水浴なんか行きません。
そもそも鮎釣りに行ってて家に居ません。
家にいると思ったら鮎の仕掛け作りで一生懸命、取り付く島もありません。
年がら年中頭の中で鮎が泳いでるんで家庭なんかどうでも良くなって夫婦仲が険悪になります。
なので釣り全般の中で一番離婚率が高いのが鮎釣りです。
釣り大会ってあるじゃないですか
でも競技となりえる釣りって限られていて
その中でも鮎釣りってのは、釣れているエリアに入っても
仮に10人いたとしても皆が釣れるわけでない
エリアの中でも、途轍もなく良いポイントに入った者だけがバシバシ釣れて
あとの連中は指を咥えて悶々ジリジリするわけ
そして鮎の強烈な掛かり方と連チャンが始まったしたら
もうメチャクチャ気分が高揚しちゃうんだな
それはパチンコのシマで一人だけ確変突入みたいな同じアドレナリン出まくる
なので鮎釣りシーズンが終わって自分を失ってウツになった鮎釣り師は
自分を持て余しパチンコ屋に寄ったら最後
その途端パチ狂いになって貧乏人になってしまいます。
それに鮎釣り竿って安いのは5万円くらいからあるにはあるのだが
一回でも30万円以上のハイエンドの鮎竿を持ったら
軽さ、感度は驚愕で、もう元には戻れません。
釣り糸だって28メーターで5000円します。
以上。
熱くなりやすい人、悪いこと言わないから辞めときな、鮎釣りだけわ。
なのでランチを辞めた店の営業方針はレストランからいきなりだと
今までのお客様が面食らうので、徐々に変更していき
アルコールを充実しビストロに転換したて行った。
って、いうか元々自分の食べたい料理を作るってのがコンセプトなので
それに自分が飲みたいワインを出すってことにも繋がったのだ。
そして釣りの世界はどんどん広がって行き、食いたい魚は自分で釣ると言うコンセプトのもと
鮎釣り、ヤマメ釣り、サクラマス釣り、ワカサギ釣り、もう辞めたけどマグロ釣り
ヒラメ釣りにカレイ釣り、イカ釣り、ノドグロ釣り、ジギングそして深海釣りと
今じゃ広がりすぎて何が何やら仕掛けがごちゃごちゃになってしまっている今日この頃
狩猟は釣り友のいっちゃんから青首(真鴨)をワカサギ釣りに一緒に行った時に
「結構美味いから食ってみろ」ってもらって食った時の衝撃
美味すぎてアゴが外れちゃいました。
なので又ワカサギ釣りに行った時に、いっちゃんにオネダリしたら
「自分で獲って食え」と言われた。
そりゃそーだと納得して速攻、鉄砲を持つ身となった。
ヤマドリのラーメン旨いし、キジのリゾット旨いし、尾長鴨のソテー旨いし
真鴨の鍋からの蕎麦旨いし、熊の脂身旨いし、猪の赤ワイン旨いし
今一番美味いなと思うのはバンビの塩焼きにカボスをちょいと垂らしてです。
と言うことで現在の店の立ち位置はジビエと一本釣りの魚がウリの店みたいな
てなわけで
釣りとか狩猟とかバイクとかに乗って遊んで
夜はレコード回しながらワインとかウイスキーを飲みながら
食いたい料理だけを作っていたら
あっという間に45年たっちゃいました。
そこで
KIKI HOUSE 45th Aniv. party
散々お世話になったテレビ岩手の人気番組『夢見るピノキオ』の
プロデューサー&セレクターのpinoda氏を迎えての
ノスタルジックアワーです。
表示を縮小
インサイトと広告を見る
投稿を宣伝
37
12