令和7年9月20日(土)18:30〜【満月】、27日(土)18:30〜【彗星】、東京芸術劇場シアターイーストにて。
脚本・演出/堀越涼(あやめ十八番)
音楽監督・作曲/吉田能(あやめ十八番)
舞台監督/土居歩(7th FIELD)、藤田有紀彦
照明/南香織(LICHT-ER)
照明操作/男山愛弓
音響/田中亮大(Paddy Field)
音響操作/角田里枝(Paddy Field)
美術/久保田悠人
大道具/俳優座
衣装/熊谷有芳(アガリスクエンターテイメント)
衣装助手/中野亜美(あやめ十八番)
衣装協力/花組芝居、原ちゃん落語、藤田友
ヘアメイク/新妻佑子
ヘアメイク協力/吉村幸
演出助手/渡邊力(PAPALUWA)、今井未定、新井彩
稽古場代役/黒田和宏、平野紗貴
宣伝美術/[デザイン]吉田能、[切り絵]田畑諒、[題字]玲彩
写真撮影/下田直樹
パンフレットデザイン/荒川久忠
映像撮影/舞台映像カラーズ
CM撮影/吉田悠
制作協力/大森晴香(SET)
票券/大森茉利子(あやめ十八番)
受付/内田靖子
制作助手/伊勢晴名
主催・企画・製作/あやめ十八番
助成/公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京【東京ライブ・ステージ応援助成】
キャスト及び配役/
金原賢三:
(少年期)今村美歩
(青年期)【満月】藤原祐規(アミュレート)
【彗星】宮原奨伍
(壮年期)桂憲一(花組芝居)
少女:中野亜美(あやめ十八番)
金原マツ:藤吉久美子
坂東天鼓:【満月】宮原奨伍
【彗星】藤原祐規(アミュレート)
坂東天五郎:北沢洋(花組芝居/賢プロダクション)
板東文七:小林大介(花組芝居)
狐:金子侑加(あやめ十八番)
伊勢友之助:千綿勇平
伊勢勘十郎:八代進一(花組芝居)
尾長光子:中込佐知子
尾長さなえ:小口ふみか
久連子益次郎:金子侑加(あやめ十八番)
〈近衛歩兵第三聯隊所属〉
対馬勝明:佐藤弘樹
大蔵大和:小林大介(花組芝居)
特地達平:谷戸亮太
佐渡源太:藤尾勘太郎
雁部保:高村颯志(家のカギ)
楽隊/
伊佐健司:吉田能(あやめ十八番)
声良智樹:島田大翼(オペラシアターこんにゃく座)
三河直人:新井秀昇
相良康彦:杉田のぞみ
アンサンブル/
同級生ほか:家入健都(avenir’e)
佐渡文香ほか:土屋杏文(青☆組)
社内アナウンスほか:森本遼
家政婦ほか:松井愛民
あらすじ/
明治の終わり、まだ誰も見たことのない「テレビジョン」という夢を追い続けた一人の青年がいた。
それは、浜松に住む母に、東京の歌舞伎を見せてやりたいという、小さな願いから始まった。第二次世界大戦下、南方の戦地に赴いた若き歌舞伎役者がいた。命の瀬戸際にあっても芸術に触れようとする兵士たちの思いに突き動かされ、彼は一度諦めかけた芸道への復帰を決意する。時代は、二人を引き合わせる――。
一人は「芸」を、一人は「夢」を、未来へと繋ごうとした。両者の思いが重なり合う時、金鶏は、新しい時代の夜明けを高らかに告げる。
(公式サイト及び当日パンフレットより)
あやめ十八番第十八回公演『草創記 金鶏一番鶏』、【満月】と【彗星】として2人の主役のキャストを入れ替えた2つのバージョンを観てきた。
2012年6月、『15 minutes made vol.11』というショーケース公演で上演された『八坂七月諏訪さん九月 』があやめ十八番の最初の作品だった。主宰である堀越涼さん作・演出・出演、15分の一人芝居だ。
そこから13年。
遠くまできた……という感慨は創り手側のものであって私のものではないと思っていた。見る側にとっては最初の一人芝居から完成度は高かった。
それでも、今回の作品はなぜだか特別なものと感じられた。
あらすじにあるとおり、テレビジョンを生み出すことを夢見た科学者と南方の戦地へ赴いた歌舞伎役者の物語だ。
観るまでは、2つの人生がどう交わろうとやはり別々の物語でしかないのではないか……と危惧していた。
けれど、観始めてすぐそんな心配は忘れた。
科学と伝統芸能、過去と現在、東京と浜松、日本とスマトラ、それぞれの時間、それぞれの場所で、人々は生き、なにかを探している。
休憩になって我にかえった。面白い。凄く面白い。
さまざまな玩具を小道具に見立て、舞台上にはいくつものブラウン管テレビが置かれている。
登場人物たちの名は鶏の品種や銘柄から付けられているのだろう、などということは後から気づいた。
たくさんのこだわり。
元になった出来事もいろいろあるようだ。それらを丹念に織り上げて見事な絵模様が見る間に浮かび上がっていく。
2月前に上演された『金鶏ニ番花』とのつながりも見事だった。物語としては独立しつつ、響き合うたくさんのピースたち。
天鼓の物語は仄暗い。彼自身の真っ当さとは裏腹に父の選択が彼の人生に陰を落とし続けている。
なのに、ラストで描かれる『白浪五人男』だけはジャングルの中で奇妙に色鮮やかに輝いていた。満月に明るく照らされて。
満月はまた悲劇をも照らす。スマトラで。あるいは戦後の東京で。
そして、テレビジョン撮影所の強烈な照明は、白塗りの歌舞伎役者たちを満月よりも明るく照らしたことだろう。
彗星をラムネ瓶に捉えた賢三少年は、彗星の尾に手を伸ばすような不可能としか思われない夢に向かって突き進んでいく。
彼の傍らにはいつも、もっとも早く鳴くめんどりのサチがいた。ともに遊び、ときに励まし、守り、寄り添う。
天鼓も賢三も幼いときの病がひとつの転機となっていたのかもしれない。少年が床に臥す場面に狐とめんどりが関わる。
2人と出会った人々の物語も濃淡はあれみな心に残る。天鼓と賢三の物語であるだけでなく群像劇でもあった。
キャストでは、花組芝居のお兄様方が大黒柱のように作品を支える。
ニ番花に続いて物語の軸となる金原賢三博士を演じた桂さん。
芸のためにある決断をし、役者の意地を見せる北沢さん。
したたかさとしなやかさを併せて見せる八代さん。
古参の弟子と古参の伍長をそれぞれ強面で見せる小林さん。
長年所属していた花組芝居の先輩方や同期の個性をよく知る堀越さんらしい采配だ。
主演のおふたり、藤原さんと宮原さんの個性の違いが2つのバージョンをそれぞれに輝かせる。
個人的には、宮原さん演じる青年期の賢三が桂さん演じる壮年期の賢三の口調や所作と同一人物らしさを感じさせて印象的だった。
そして何よりあやめ十八番の金子さんと中野さんだ。
賢三に寄り添うイマジナリーフレンドのような(実は子どものころ飼っていためんどり)サチを演じる中野さんのなんて魅力的だったことか。
金子さんの演じる狐の人ならざる存在感と誰よりも人がましい煩悩にとらわれた益次郎の振り幅、そしてその狐が益次郎に取り憑こうとする場面の迫力。
墓参りの場面で賢三とサチの前に現れたのは、益次郎の姿はしていた(そして語る言葉も益次郎のもののようではあった)けれど、すでに人ではない何ものかと成り果てていた気がする。
毎度思うけれど、演出家としての堀越氏は女優としての金子さんを、どんな無理を言ってもなんとかしてくれると信頼しているのだろう。
そして、あやめ十八番名物ともいえる楽隊の活躍。
吉田さんの生み出す楽曲はもちろん、いつもどおりさまざまな物音がみな生音で「演奏」される。「耳福」というヤツだ。
楽隊といいつつ演奏に加えて芝居にも加わる。声良という名にあまりにもぴったりな美声で客席を沸かす島田さん、とか。
そういうもろもろを踏まえて、この公演に対する後悔がひとつある。それは、後方の席からも観てみたかった、ということ。
この公演では価格の異なる3つの席種があって、つい2度とも前方の席を選んだのだけれど、後方からあの美術や照明を含めた舞台全体をじっくり拝見したかったなぁ、としみじみ思う。
連作ながら『金鶏第二花』とはまた異なる雰囲気の作品だった。よりあやめ十八番らしいと感じられたのは今作の方だったかもしれない。ある種の仄暗さ。明と暗のせめぎ合い。この世ならざるものとの関わり。語りものの味わい。
昨年の『小夜の月』は言わばホームドラマであった。お団子屋さん一家の過去と今に渡る物語にあの世とこの世のあわいが重なり、明るさと静かさの同居する作品だった。
そうやって作品ごとにテイストや題材が変わっても「あやめ十八番の芝居は面白い」と思わせてくれる。この団体の、この創り手たちの仕事をまた観たいと感じさせてくれる。その信頼感。
さまざまな要因もこだわりもあるだろうけれど、何よりも堀越氏の紡ぐ言葉(戯曲としてのそれだけでなく舞台にのせる際の細やかな抑揚や間のひとつひとつも含め)が、観る者を物語の内にしっかりとひきこんでくれる。
あやめ十八番がこの先いったいどんな風景を見せてくれるのか、楽しみについていきたいと思う。
作品の内容とは別に少し残念だったのは、2作続けて主宰の堀越さんの御出演がなかったこと。これは単にファンとしての繰り言で、この作品の上演中に次の演出作品の稽古が始まるなどお忙しく活動されていることを喜ばしく思ってもいる。
だからまあ聞き流していただいて構わないのだけれど、ときには『驟雨』や『楽屋』ような番外公演でお目にかかれたらとてもうれしいし、それがあるとしたら朗読劇か、ひとり芝居や二人芝居か、あるいは昨年の『楽屋』の男優版などもいいなぁ、とこっそり夢想している。