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JAZZ&Coffee kikiのブログ

国分寺のJAZZ&Coffee kikiのブログです。

今に名を残すモダンジャズのミュージッシャンには、悲惨な末路の者が少なくない。アルコールや薬物で命を縮めたとか、女房に撃ち殺されたとか、ハドソン川に浮いていたとか、若くして命を断つ(断たれる)話をジャズ本からよく仕入れた。

ビリー・ホリデイは1959年に44歳で亡くなるが、およそ生涯にわたって災厄がつきまとう生きざまだったように思える。油井正一と大橋巨泉の共訳「奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝」(1972 晶文社)を読み、ダイアナ・ロスが演じた映画「ビリー・ホリデイ物語」(1972 S・J・フューリー)を見て、多少誇張があったとしても彼女の身に起きたことの壮絶さがよく分かる。人種差別、薬物禍、売春、その他、それこそ地べたを這いずり回って生きたように思える。それにしても、そんな状況下でジャズ・ヴォーカルの世界に確たる地位を築いていくのはなぜなのだろうか。あるいは死後に神格化されていくのだろうか。

例えば刹那に身を任せた人生を歌に投影させ、聴く者の心に響かせたからだろうか。終生、人種差別と戦った不屈の魂を、聴くものが感じ取るからだろうか。「Body and soul」を聴き、「Don't explain」の歌詞の意味を確かめ、「Strange fruit」の悲惨な背景を想像してもなかなか核心には到達しない。それはそうだと思う。簡単に想像するだけで彼女の歌に込めた思いを理解したと思うのは、あまりにもうかつすぎる。だから、できることはレコードから流れ出る声の背景を思い、込められた魂を感知するべく神妙に聴き入ることしかない。ビリー・ホリデイに向かうとき、いつもその限界を思い知らされる。(12月26日)

教育という言葉からは、どうも堅苦しさとかにはじまり、上から押し付けられるうっとうしさまで感じてしまう。学校は好きだけど、授業は嫌いという矛盾した学生生活を送っていた身とすれば、当然の思いで、教育現場というのはそれなりに大変だろうな、とこれは今だから無責任に言える。

「今を生きる」(1989年 ピーター・ウィアー)は痛快でもあり、憂うつになりもする作品だった。アメリカの伝統ある全寮制の学校が舞台になっているが、そこに新任の教師が赴任してきて事が動き出す。そのキーティング先生(ロビン・ウィリアムス)は型破りな指導で生徒の目を輝かせていく。とりわけ生徒を机の上に立たせるシーンは象徴的で、視点を変えてものを見ることの大切さを教える。そして、生徒はまさにそれぞれの思いを胸に”今”を生き始める。

しかし、これも常かもしれないが、新しい価値観の前には伝統とか権威がいつも立ちはだかる。古い歴史や伝わってきたものの価値は貶められるものではない。だが、ともすると保守的になりすぎて、新しいものの排除に向かってしまう。演劇に目覚めた一人の生徒が、権威主義の親の犠牲になってとうとう悲劇が生まれてしまう。結局、キーティング先生はその責任を取らされ、辞職せざるを得なくなる。

権威に立ち向かっていく生徒の自発的な行動は痛快に描かれるが、一方で結局、押しつぶされていくさまは、憂うつさを拭えない。しかし、救いは用意されていて、去っていく日に忘れ物を取りに教室に寄ったキーティング先生を、生徒たちは次々と机の上に立ち、送り出す。「教育」とは文字通り、教え育てることだとすれば、生徒たちは力強く育ち始めたということになる。(12月22日)

随分前に一関の「ベイシー」を訪れた時、その装置から飛び出す音に衝撃を受けたことは鮮明な記憶として定着している。さらに日本には音響のファンや”オタク”がたくさんいて、しかもレコードまで作ってしまうということに少なからず感動したこともある。

「Three Blind Mice(TBM)」というレーベルに遭遇したときも、少なからず似たような気持ちを味わった。「3匹の盲目ねずみ」はイングランドに古くから伝わる童謡「マザーグース」にあるが、そこから取ったのかどうかは知らない。いずれにしても、鈴木勲の「Blue City」(1974)を手にした時、スピーカーから出てくる音のクリアさ、リアルさに新鮮なうれしさを味わった。その高揚感は、やがてTBM作品を探し始めてどんどん加速していくが、山本剛、菅野邦彦のピアノトリオはすぐに愛聴盤となった。中でも山本剛の「Live at The Misty」(1974)は、極端に言えば音の波形が体内の共鳴板に届くかのように伝わってきて、しかもライブの緊張とくつろぎという臨場感がまるごと記録されているような感じで、一時期手にしたことのあるJBLのスピーカーから流れる音は本当に気持ちがよかった。山本剛のスインギーなトリオは、ジャズの上質な部分をしっかり保持していて、80年代から90年代にかけてレコード中古店を回るときにお目当ての1枚となっていった。

TBMは正確なところは分からないが、経営に難が生じたのか、今はもうなくなっているはずだ。しかし、中古店に行けば、おそらく今でも一定の需要があって、その作品が並んでいると思う。TBMに作品を残せたミュージッシャンは幸せだったのではないか。日本のレコード文化の大きな所産だと思う。(12月19日)

2023年のメジャーリーグはこの先、日本人選手が躍動したシーズンとして記憶されていく年になっていくと思う。それは、各選手が一定の成績を残したことはもちろんあるが、それ以上にそれぞれがドラマチックな要素をまとってプレーしたことが印象的なシーズンだったからだ。一方で1995年に野茂英雄が大リーグの門戸を開いて以来、最高の実り多き年になったということもあり、約30年かけてここまで来たか、という感慨も同時に沸き起こってくる。

大谷翔平(エンゼルス)がその中心にいたことは論を俟たない。しかし、大谷以外のパフォーマンスも見応えがあった。筆頭格は千賀滉大(メッツ)の12勝、200奪三振だろう。それこそ、野茂が新人のときの13勝、236奪三振に匹敵し、野茂は「ノモマニア」という言葉にも表れ、ブームを引き起こしたが、千賀も「お化けフォーク」で強烈にアピールした。菊池雄星(ブルージェイズ)がそれに続く。メジャー5年目で初の二桁勝利を挙げ、進化を証明した。9勝目から10勝目まで1ヶ月半、難産だった故に喜びも大きく、投球後に左足を跳ね上げる”ダンス”は菊池もまた独創的な存在であることを教えた。8勝のダルビッシュ(パドレス)も離脱がなければ二けた勝利に名を連ねただろう。

さらに前田健太(ツインズ)は2シーズンぶりの復活を力強く遂げ、鈴木誠也(カブス)吉田正尚(レッドソックス)の二人の打者も中心選手としての存在感は十分に重みがあった。

地獄から天国への道を歩んだのは藤浪晋太郎(アスレチックスーオリオールズ)だった。西海岸では先発失格を味わい、ブーイングの対象にまでなった。だが、東海岸では生き返った。チームの地区優勝に貢献し、ボルティモアのファンを熱狂させた。160㌔台の速球はドラマを自らの力で書き換える迫力だった。

記録は数字としていつでも繙くことはできる。しかし、記憶に刻まれるかどうかは別だ。2023年は記憶が印象深く刻まれた年のような気がしてならない。(10月6日)

 

2023年シーズン終盤、エンゼルスの大谷翔平はめくるめくような眩いシーズンを称賛の拍手に送られながら終えるはずだった。ところが、8月末に舞台は暗転する。右肘靭帯の損傷が判明、打者として出場を続けていた9月には右脇腹を痛め、不本意な形で今季を閉じなければならないことになった。こんな憂うつなシナリオを誰が予想しただろうか。

まさに、この男のためのシーズンだった。春先のワールド・ベースボール・クラシックでのドラマチックな活躍から始まり、軌道に乗ったメジャーでの”二刀流”では投げるたび、打つたびに注目度が高まっていった。昨年に続く二けた勝利はともかく、シーズン中盤のホームランの量産で29日現在(日本時間)、日本人初の本塁打王をほぼ確実にしている。7月27日のタイガースとのダブルヘッダーでは最初の試合で完封し、その後の試合で2本塁打と歴史的な一日を記録して見せてもいる。オフには2年ぶりのMVPやら、超大型の契約交渉など、話題の中心には常に大谷がいるはずだった。

いや、実際に8月末からのシーズンをすっぽり切り取ってしまったとしても、2023年は大谷のベストシーズンとして記録に、記憶に刻まれていくと思う。MVPも取るだろう。契約関係も話題になるだろう。

要は物語はまだまだ続くということだと思う。今季で何もかもが完結するわけではない。2度めの手術は確かに試練だろう。投手としての復帰が、目指す2025年にできるかどうかも分からない。しかし、単に物語はまだ終わってないと考えればいい。大谷翔平という前代未聞のヒーローの新たな「章」が提供されたと思えば、待つことなど何でもないと今は強がってみる。(9月29日)

「読んでから見るか、見てから読むか」というキャッチコピーが当たり、映画と文庫本がコラボした時代があった。自らもその惹句に誘われ、角川文庫に絡め取られしたものだったが、この作品(角川とは関係ない)は読んでから見た。原作はアガサ・クリスティーの「検察側の証人」である。

「情婦」(1957 B・ワイルダー)は、クリスティーのトリッキーな一面を遺憾なく発揮した原作の面白さがよく出た作品だと思う。初めて見たのは原作を読んでから何年も経っていたと思うが、「アパートの鍵…」でワイルダーのファンになり、必然的にこの作品に遭遇することになった。殺人の容疑をかけられた男の妻が、あろうことか検察側の証人となって出てくる話で、M・ディートリッヒ、C・ロートンという名優を得て、面白さが倍加した。つまり、原作の可視化が成功したということだろうか。短編の中の登場人物が新たな命を吹き込まれて、文字通り生き生きと動き始めたような気がした。原作を読んでいたから夫が犯人であることは分かっている。その夫を愛する妻が検察側に立ち、夫に不利な証言をする。これで何で大逆転が起きるのか。クリスティー作品は「インディアン」にしろ「オリエント」にしろ何本も映画化されているが、個人的には大掛かりな仕掛けのものより、この作品が一番気に入っている。

余談だが、ラストシーンがどうも原作を違っているように思えたので、あらためて原作を読み返した記憶がある。つまり、「読んでから見るか、見てから読むか」ではなくて、「読んでから見て、見てから読んだ」ということになる。調べてみると、クリスティーは戯曲化のときに最後を書き加えたということらしい。ワイルダーは戯曲化の方を映画化したということなのだろうか。(12月5日)

 

ジャズは、音楽の世界ではもちろん市民権を得ているし、濃淡はあるけどファンを自認する人もそれなりにいると思う。しかし、レコードを聴くかとなるとパーセンテージは狭まるし、そのレーベルに興味を持つかとなると、さらに少なく、マニアックな世界に移行することになるかもしれない。そして、だからこそ屈折して”愛しのレーベル”という思いも生まれるというわけだ。

ジャズが好きになって枝葉を広げていくと自然とレーベルへの思いも募ってくる。本の中でしか知らなかったレーベルを目の前にするときのときめきはなかなか素敵なものだ。これはおそらく日本だからできることで、日本のレコード業界のファンに対するサービスは行き届いている。マイナーレーベルの権利をどう獲得するのか、次々と発売していった歴史は、個人的には素直に評価できると思っている。例えば、「Jazz time」というレーベルは米国では1960年代にわずか3枚しかリリースしてないのに日本では再発が繰り返され、中で「Speak Low」(W・ビショップJr)はいまだに人気を誇る1枚だろう。

受け売りの知識で恐縮だが、「Blue Note」の未発表盤の日本発売など、日本の業界人がニューヨークの倉庫までいって”発掘”してしまう。ファンが待望するということもあるかもしれないが、日本のレコード文化を支える業界の徹底さがここでも伝わってくる。「Jubilee」「Jazz Line」「Intro」「Transition」「Jazz West」など、みんな泡沫のように消えていったレーベルたちだが、日本ではごく狭い世界の中でしっかりと息づいている。つまりどれもこれもコレクションを彩る”愛しのレーベル”たちである。文化は生活に潤いを与えてくれて、心を豊かにしてくれる。極めてマイナーな世界でも、このことに変わりはない。(12月12日)

阪神が嫌いではない。熱心なファンでもないし、便乗型のにわかファンでもないからそんな表現になる。ただし、阪神を生活の一部とする大阪、そのファン、そして「あれ」を生み出す文化にはこよなく好感する。そんなわけで18年ぶりの優勝に大阪が盛り上がっているだろうな、ということを思いつつ一人、祝杯を挙げている。

野球のファン気質というのは、その土地土地で微妙に違いがあると思う。その中で阪神ファンについてちょいと独善的に思いをはせている。

まず阪神ファンは空気感として猥雑な反骨心がある。猥雑なというのは「みだらで下品」という意味ではなく、「ごちゃごちゃしてまとまらない」という意味である。巨人と並ぶ伝統のチームでありながら、2リーグ分立(1950年)後の優勝回数が6度というのは明らかに少ないが、そんなことにはめげない。中央に屈服しないという思いがあるからで「東京?なんぼのもんじゃい」という反権力にも似た”ファン道”を貫いている。

次に阪神ファンは自虐的である。1985年の優勝が21年ぶり、2003年の優勝が18年ぶり、そして今回と長く美酒を味わえない状況が続くと弱いことをネタにして楽しむ。さらに言えば、その”ダメ虎”を応援している自らをも笑い飛ばし、ウサを晴らす。権力に対して笑いで抵抗する弱者の論理とお笑いの文化がバランスよく融合している。

そして、阪神ファンは熱くておもろい。熱狂度は甲子園を見れば一目瞭然だし、そのおもろさは「カーネル・サンダースの呪い」や「くいだおれ太郎」の「わて、およげませんのや」を生み出す土壌を思えばよく分かる。仕事で都合9年関西地区にいた。熱くておもろい阪神ファンをたくさん知っている。普段は「20年に一度、勝てばええんや」と言っていた男が、2005年に2年ぶりに優勝したとき「なんか、変やな。落ち着かへん」と笑っていたのをよく覚えている。というわけで今、久々の”熱狂の日々”を傍観しつつ楽しみたいと思っている。(9月16日)

 

 

スリラーでもサスペンスでも呼び方はどちらでもいいけど、アルフレッド・ヒッチコックはその分野での巨匠とか神様と形容される。実際、そのフィルモグラフィーをなぞると評判を取った作品ぞろいでファンならずとも、感嘆の声を挙げたくなるような感じなのではないだろうか。

ヒッチコックとの出会いは昔、テレビ放映されていた「ヒッチコック劇場」となるが、30分の短い番組だったと記憶している。毎回、本人がどこかの場面で登場しているが、いわゆる”カメオ出演”という呼び方はずいぶん後から知った。それはともかく当然のように映画はいつもドキドキしながら見る。しかし、多くが代表作に挙げるだろう「サイコ」(1960年)や「鳥」(1963年)はどうも苦手だ。「サイコ」はとにかく異様に怖いし、「鳥」は不気味さに、なじめない。もちろん、どちらもヒッチコックの手腕が最大限発揮されている作品だろうけど、一般的な評価と自らの思いはしばしば一致しない。

代わりに何度でも見たくなるのは「汚名」(1946年)だ。イングリッド・バーグマンの魅力ということはある。しかし、この作品もヒッチコックのストーリー作りの巧みさがよく出ていて、その意味では”らしい”作品で最後まで飽きさせない。スパイ物の一種になるのだろうか。ラストシーンは秀逸だ。軟禁されたヒロインを敵の監視下に堂々と正面から乗り込み、目の前で腕に抱えて救助してくる。こんな設定は考えただけでも痛快でサスペンスがここに極まる。

ヒッチコックはこの一本という作品を挙げるのが、とても難しい。目が離せないとか、息をのむとか、のようにスリリングな思いを味わうところが醍醐味ではあるが、一方でその女優陣が豪華でうれしい。多分、ヒッチコックのお気に入りの女優たちなのだろう。作品ごとに新しく登場するスターがどんな魅力を見せるのかも楽しみの一つだった。(12月15日)

野球は、サッカー、ラグビーと同じく団体競技ではあるけど、個人競技の色合いをより濃くしているスポーツでもある。それは投手という、試合を決める比重が極めて高い突出した存在があるためで、極端に言えば投手一人で勝負が決まってしまう。その最たるパフォーマンスが完全試合であり、ノーヒットノーランということになる。

オリックスの山本由伸投手が9日のロッテ戦で2年連続のノーヒットノーランを達成した。プロ野球史上3人目で、過去には伝説の投手と言われる沢村栄治の名前も見える。この偉業への評価は極めて高い。投手の分業制、投球数の制限などから近年、先発投手が完投する率は極めて低い。指揮官の頭には先発ー完投という選択肢はよほど状況が許さない限りないと思う。現に山本でさえ、今季を含めて通算169試合の登板で14しか完投がない。そんな中での2年連続である。この投手の能力の高さが見事に証明された記録だと思わざるを得ない。

優秀性を示す事象はまだある。山本は今季、フォームを改造している。昨年までの完成されたと思われたフォームからさらに無駄を省いて、挑戦の姿勢を見せた。当初は切れの良さが失われるのではと危惧された面もあったが、それも払拭して勝数、防御率、勝率で現在、並ぶものがいない。言ってみれば、まさに一人孤高を歩んでいる感じでもあろう。

山本は来季からメジャーが主戦場になる、とみられている。また一人、日本の球界は最終ステージに逸材を送り込む。海の向こうがさらににぎやかになる。(9月12日)