ツイッターは自動的にたくさんの人の目に触れてしまうから、弱音はここで書くことにするよ。


あのね、わたしは油断してるわけじゃないんだよ。でもね、自分の経験踏まえて、最後まで人を繋ぐものはやさしさであることを信じていたいんだ。


わたしは持病の治療で免疫抑制剤を飲んでるし、一番薬の量が多かったときは赤ちゃん程度の抵抗力だった時期もあるよ。あのときは、正直に言えば自分以外の全てが菌やウイルスだった。


家の家具も、職場も、学校も、家族も、恋人も、友人も、友人の子供も、ペットも、世界そのものが自分の身体を傷つけるものだった。食事すら、わたしを不安にさせる行為になってた。例え入院していたって、病院自体も菌だらけ。


何を信じたらいいのかわからなかった。

わたしが信頼できるものは、薬と消毒液だけだった。手を洗うときですら、蛇口は誰が触ってるかわからないから、蛇口も必ず石鹸で洗ってた。


それら全ての、行為も、物質も、人も、世界そのものを、わたしは否定しなければいけなくなっていた。


それでも学校や仕事には行かなくちゃいけなかった。だって、あのときは、そうなっているのが「わたしだけ」だったから。世界はわたしに関わらず、いつも通りに回っていたから。


わたしがマスクをしていても、使っている治療薬の説明をしても、消毒液を持ち歩いていても、世界は変わらない。


風邪をひいた状態だと自覚しながらわたしの目の前に現れる人もいたし、すぐそばで咳をする人もいた。トイレの後に手を洗わずに、わたしに触れる人もいた。治療のことは事前に伝えてあっても。


そんなとき、なんて言えばよかったの?

「わたしは免疫が落ちてると伝えたよね。だから気を付けてほしい」と言うのは、同時に


「あなたは汚いです」

「近寄らないでほしい」


そう言ってるようなものでしょう。そんなことをしていたら、周りに人がいなくなってしまうよ。


だからそんなときは、ひっそりとわたしが、わたしさえ居なくなればいいと思ってきた。そうすれば、世界は変わらず、通常運転できるんだと。


でもコロナ騒動が起きてから、たくさんの人が非常事態の情報を流したり、身の守り方や、他者へ注意を呼びかけるために、堂々と声を上げている姿を見て、もやもやしてしまう時があった。


みんなが気を付けられるのは、喜ばしいはずなのにね。当然のことをしているのだし、中にはわたしのためにしてくれてるのもわかってたよ。


でも、わたしから見たらそれは、数の勢力に見えてしまうときがあった。わたしはひとりで戦ってきたんだなって、なんだかそれを改めて実感してしまって、とても寂しくなったりするときがあった。


病院で看護師さんから「マスク足りてる?手洗いうがいこまめにね」なんて言われたり、友達やお客さんと「世の中大変になってきたね」なんて言われたりすると


「大丈夫だよ、ありがとう」とか「そうだね〜」なんて言いながらも、心の中ではこんなふうに思ってしまっていたよ。


わたしはずっと、そうだったよって。

わたしにとって、世界はそんなに変わっていないよって。ずっと変わらず、生きづらいよって。


どうしても昔を思い出してしまって、わたしの事態にその場で気付いてくれない人、察しが悪かった人、何度説明してもすぐに忘れてしまう人。

そんな人たちがいた場面のことを思い出して、改めて憎んでしまう瞬間もあった。


「身を守るためならば、こんなに大きく声を上げていいものなら、自分ももっと声を上げればよかったの?我慢しなくてよかったの?笑わなくてよかったの?」って。

相手への気遣いだと思ってやってきたものは、あれはなんだったんだろうと。もっと激しいSOSを掲げればよかったのかな。そしたらもっと、うまく自分の身を守れたり、他人を一瞬でも嫌わずに済んだのかなって。


自分が通ってきた道に対して何度も疑問を感じたし、そんなことを考えてしまうこと自体が、自分も他者も否定しているようで悲しくなった。でも、どうしても考えてしまう。あの孤独感自体が無駄だったんじゃないかって。


それでも、やっぱりわたしは、自分だけでも自分を認めてあげたいよ。自分を肯定することは、他者を肯定することでもあると信じたい。


自分がそうしてきたから、きっと今も周りに人がいてくれているんだ、と。


あのときもし、周りの人間を、世界を拒絶しながら自分を守り続けていたら、もしかしたら、今わたしの周りには誰も居ないんじゃないかって。だってわたしの周りには、悪意があってわたしの近くにいた人はきっと、きっと、一人も居なかったんだもの。


世の中には、悪意を持って人に近付いてくる人がいることも最近知ったよ。でもね、大多数は気付いていないだけなんだ。悪意なんてものは、本当はとても少ししかなくて、みんな一定のやさしさを持ち合わせているはずなんだ。

情報が足りなかったり、状況をうまく飲み込めていないだけなんだ。


そう信じたいし、それが共存なんじゃないかって思いたいよ。病気になった自分だけが悪いとも、自分の身の守り方が下手だっただけとも、周りの人の気遣いが足りなかったんだとも、これからも思いたくないよ。


きっと、この気持ちはわかる人は少ないかもしれない。自分が非難されてるような気持ちになってしまう人がいたらごめんなさい。


それでも、わたしは自分の中で、この気持ちを吐き出してしまいたくなってしまったんだ。綺麗事だけ言ってると思われたくなかったんだ。綺麗事言ってるかもしれないけど、そう思わなければ、今も自分を肯定できないんだ。


わたしは今は量は減ったけど、種類は変わらず免疫抑制剤を飲みながら、透析のために病院に行かなくちゃいけないし、生きていくために仕事をしなくちゃいけないよ。でもそれに絶望してないよ。生きていくことに必要だから。それは、人と関わることだけど、それを否定したくないよ。


できれば舞台も作りたいけど、舞台はたくさんの人を巻き込んでしまうから、それはみんなと相談しながらやっていこうと思う。無理にやろうとは思わない。でも、まずはそれぞれの想いを共有することから共存が始まるんだということを、今は少しだけわかってる。


そして、自分が生きてることは、今わたしの周りにいる人に支えてもらっていることも、これからも忘れないでいたいよ。


たまに、誰かのことを憎んでしまうこともあるかもしれないけど、そのときは同時に、自分の存在にも疑問を感じているの。わたしが生きてさえ居なければ、なんの問題もないんじゃないかなって。


でもできれば、わたしはまだ生きていたいし、どうせ生きなきゃいけないのなら、周りの人を、世界を愛しながら生きたいよ。


強いて言うなら、お願いをするなら、もし近くにいる人で免疫抑制剤を飲んでる人や病気の治療をしている人がいたら、物理的な注意とともに、精神的な不安にも気付いてあげてほしいな。


みんな辛い。それはたぶん、みんなわかってる。ただ、高齢者のように、より不安定な状態の人がいるときに、きっとその人は今とてもとても心細く、より強く死を身近に感じているはずだから。だからこそ、その人たちが少しでも世界を憎まないで済むといいなと、心から願ってる。一度、世界を憎んでしまったわたしだからこそ、それを願ってるよ。


でも改めていうけど、今はみんな辛いから、わたしだけ、わたしと似たような状況の人だけが更に辛いんだ、なんてことは言わないよ。みんな辛いんだ。それはもしかしたら、人によっては、寂しくないかもしれないしね。


またみんなで、楽しく笑いあえることを祈るし、できるだけ多くの人が世界を愛せるまま、この騒動が落ち着くといいな。そして未来には「こんなこともあったんだね〜」って、ちょうどいい危機感を保ちながらも、みんながそのときの今を幸せに生きれる日が来ることを、願う。


きっと時代は繰り返すものだから、悲劇もきっと繰り返されることがあるかもしれないけど、当たり前の幸せな日常の方がきっと遥かに長いことを、身近な人とそんな日常を過ごせることを、心から祈ってる。