(1)天一国憲法が抱える一つの課題
「鉄のつえの王国」第6章には、アメリカ合衆国憲法について、次のようなことが書かれている。
道徳と宗教に縛られない人間の情熱と対抗できる力で武装した政府はない。 欲望、野望、復讐、または勇敢さは、クジラが漁網を通過するように、私たちの憲法の最も強力な綱を(やすやすと)破壊するであろう。私たちの憲法は、道徳的および宗教的な人々のためにのみ設計されている。 この憲法は、それ以外のどのような人々の政府にとっても全く不適切である。
上記の内容は、アメリカ合衆国憲法について、ジョンアダムズが言った言葉である。ここでは、「道徳的及び宗教的な人々」と書かれているが、もう少し踏み込んで言及してみると、愛国心や公的意識、良心基準の高い人々でなければ、アメリカ合衆国憲法は機能しないし、その憲法の精神に立脚したアメリカ合衆国という国が発展していくこともないということを示唆しているのだと思う。
例えば、実際のアメリカは、そのような建国精神に立脚していないであろう一部の人々によって、この憲法を悪用している例を見ることができる。例えば、「エンゲル対ヴァイテイル事件」(1962)などが挙げられるであろう。
※「エンゲル対ヴァイテイル事件」(1962)
ニューヨーク州の公立学校で毎朝始業時に、生徒に「全能なる神よ、私たちはあなたに依存していることを認めます。私たち、両親、先生たち、わが国に祝福を与えてください」と唱えさせていたのは明らかに宗教的行為であり、修正1条の「国教樹立禁止条項」に反するとした判決。最高裁は続く「アビントン学校区対シェンプ事件 School District of Abington Township v. Schempp, 374 U.S. 203 (1963)」で、公立学校で聖書の一部を朗読し祈祷を斉唱することを命じたペンシルベニア州法が修正1条に違反していると判断した。公立学校での宗教的教育を事実上、不可能にした両判決は宗教右派を中心とする保守派の猛反発を招き、この判決を無効にする憲法修正を求める政治運動や法廷闘争が活発になった。
上記の内容は、天一国憲法を掲げる天一国においても、同じようなことが言える。神から与えられた権利を、より高い良心基準で用いることが出来なければ、神が私たちに願われた天一国は、その本来の姿を現すことができない。
(2)天一国主人とは
天一国憲法は、全体像として、どの分野においても権力の集中を禁止して、分散させることに注力している。それは、真のお父様の直系である王に対しても同様であって、たとえ天一国の王であっても、その権限は限定的である。軍隊を持つこともできず、お金も議会の承認の下に支給されることになっている。王でさえ、その権限が抑制的であるということは、他のいかなる組織においても、その権限が抑制的であることを天一国憲法から読み取れる。
王に至るまで、あらゆる組織の権限を抑制的にすることの目的はどこにあるのだろうか?言うまでもなく、「天一国の主人」である天一国市民に、その自由と責任を持たせようとするためである。
国進様は、質疑応答の中で、経済的な観点からも、権力等の集中を排除して、自由競争の市場原理が導入された場合の天一国の様子を描写しておられる。
≪引用開始≫
神様の王国は、主権の王国です。政治的王朝にとどまらず、経済の王朝でもあります。われわれは多くの中産階級の王朝をもたなければならない‐これが問題です。しかしそれは現在の法律では不可能です。神様の王国を語るとき、それは無数の人々の主権を語るのと同じことです。基本原理としてその国は、憲法に規定される基本的権利の上に建てられるものですが、それがどう法律で具体化するかが問題です。
憲法とそれに基づく立法が、大きな独占を防ぐように運営されるなら、中産階級の花咲く社会が生まれるでしょう。中産階級が、次世代に丸々相続させることのできる社会が生まれるなら、世代を超えた中流階級が定着します。相対的に層の厚い中流階級が、世代を超えて続くでしょう。地上天国をいうとき、そのことを語っているのです。王国と国民という場合、一部の貴族階級の相続権だけではなく、国民の30%が同じように相続させることのできる社会を語っているのです。
どのようなタイプの社会でも、自由競争の障害物をすべて取り払うなら、規制や官僚主義を排除するなら、ビジネスや資源の所有者が、たいてい国民の30%を占めるようになります。零細企業から中小企業、大企業に至るまでの経営者の割合がそうなるというのです。まだ労働力になるまえの未成年の世代、退職して一線から引退した世代、それらを除いて、最大30%の人口がそうなるのです。すべての人が所有権を有する社会、つまり30%の人口が何らかの事業を行う社会と独裁者の君臨する社会つまり1人がすべてを所有する社会、この幅があります。
神の国を実践的な面から語るなら、私たちがそのためにしようとしていることは、事業主の数を最大にするような法制度をつくることです。そのことを目指して天一国憲法は設計されています。
≪引用終了≫
自由と責任を与えられた「天一国主人」として、本当に自主的に取り組まなければ、天一国は成立しないように、天一国憲法自体が、そのように設計されている。天一国の市民、天一国の王、王妃として、それらの権利を各々が果たすときに、この天一国憲法が機能する天一国が生まれるということなのだろう。
(3)ひとまとまりの権利
もう一度、国進様の質疑応答から引用する。
≪引用開始≫
自由意志と、言論の自由と、信教の自由から出発しました。それらの自由をもっているなら、そして「主権者」だというのなら、「自由」は自動的に次に必要なものを。自由があるというなら、あなたの家も富など自分が築いたものは、むざむざ他のものに奪われてはなりません。それが自分を守る自由だというのです。だからすべてつながっているのです。何世紀も人類が見つめてきたその、本来の権利、神様の贈り物と言ってもいい-それは聞くに心地よいから、あるいは銃をただ所有したいから、誰かがつくりだしたものではありません。それらはひとまとまりの権利です。ほかのどの権利が欠けても基本的な良心の権利を維持することができません。
国に、守りを委ねると、国に自分の所有を引き渡さなければなりません。そして信仰の自由も言論の自由も良心の自由も失います。自分の持物も失うのです。ひとたび、国が守ってくれるようになれば、自分の物を守る手段を失います。国がやって来て、所有物を求めるからです。その時、国になんといいますか。何も言い返すことができません。自分を守る術をもたないからです。
≪引用終了≫
政府のような大きな組織に、神様から与えられた権利を渡してしまうということは、せっかく与えられた天一国の主人という立場から僕の立場になってしまうだけでなく、基本的な良心の権利をも奪われてしまうことになる。改めて、天一国憲法に願われた神様の御心に適うような歩みをしていきたいと思う。