悪人正機とは
(以下、Wikipedia引用)

悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。

「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。
法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。


悪人
衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

善人
親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。
また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。(#本願ぼこりも参照のこと。)

因果
凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。


救済の対象

『仏説無量寿経』には、すべての人が苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」(意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が心から念仏して、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。)と説かれている。
「十方衆生」、すなわちすべての衆生が救済の対象である。また至心・信楽・欲生は、如来の願によるものである。よって自らの計らいによる善悪は、阿弥陀による救済の条件・手段にはならない。
「唯除五逆誹謗正法」(「唯除の文」)についての親鸞の了解は、曇鸞の『浄土論註』、善導の『観無量寿経疏』に依るものである。詳細は、「四十八願#唯除の文」を参照のこと。

我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。
1. 自分のやった善行によって往生しようと思うのは、阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。
2. 何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。
3. 善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、本質的な善悪の判断基準がない。
すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、「悪人正機」の本質である。
しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。(#本願ぼこりを参照)。

さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは、「親鸞一人のためであった」と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は、行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。 この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。
以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。




本願ぼこり
悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。
これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。
ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。



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正機とは、自らの悪を気付かない善、悪を悪と分かっていて改めない悪を指します。
例えば、自ら良かれと思い、結果的に他者を苦しめてしまっている人間も、悪を悪とわかっていて他者を苦しめている人間も、本人の認識は善悪と異なれど結果として同じな為、現代で言えば前者の善は空回りのお節介、無意識に人を傷つけてしまう事や、良い行いと思いつつ、実際は自分の利益や満足の為に行なっているような偽善の人々等が善人に当てはまります。

他方で例えば犯罪とわかっていながら人に被害を及ぼしたりするものは絶対的な悪人であり、悪いと分かっていて中々改められないものも悪人とされます。

そしてどんな人にも悪は存在しているから、最終的にはこの世の中に存在する全ての人間は悪人とされ、ただの悪ではなく仏の教えや救いを受ける資質を持つ人々として「正機」とされます。

即ちこの世に生きる衆生は全て正機とされるのです。

その為、どんなに罪深い人間でも救いを受ける、慈悲を受ける権利があるという事にもなります。




私達は現世に生まれ、自分達の魂の状況や運命に従って与えられた時間を過ごしていく中で、如何に気付きを得て変わる事が出来るか、という修行をしております。
そして私達は皆同じように死を迎えます。その死をもって、魂に向上がもたらされます。

魂の向上をする事で生前何を誤っていたのか、悟ります。
その為に通常であれば49日間、自分の生きてきた時間を走馬灯のように振り返り、成仏していくのです。

ですが本来であれば、その死をもって得る気付きというものも、生きているうちに得る事が出来る場合もございます。

何故なら、修行中の身であるからです。自力で、自発的に閃いて、自分の何を改めるべきなのか、気付きを得る事があるのです。

そういたしますと、人生の分岐も、違う方向に進んでいく場合が御座います。

ですから、人は過ちを犯さないと反省も出来なければ改める事も出来ないですし、はじめから全てを持ち完璧な人間などどこにも存在致しませんから、
中途半端な善よりも完全なる悪の方が、魂の出世のチャンスがあるのという事です。

何故ならはじめから善を掲げてしまうと、省みるべき着眼点をはじめから失ってしまうからです。
これでは、生まれてきた意味がありません。


私達は様々な出会いを繰り返す事で色々な経験をする為に、何かを成し遂げる為に、感じる為に自分だけではなく自分以外の存在とも関わり、愛を育み、幸せになる為に生まれてきております。

勿論、試練の時代もございます。苦しみが多かったり、不自由に感じる事が多かったり、寂しさに埋もれそうな時代もあるでしょう。ですが、その中にも感じる自分自身の気持ちや信念、ささやかな愛情を感じる事もあるでしょう。

憎しみだけである場合も、必ずそこに自分自身の心の在り方、自分だけの真実がございます。


他者に影響を何かしら与えていく場合も御座います。その他者の中に、そのまた先に、自分の生きていた証や軌跡が御座います。産まれてくる時点で、本来は意味のない命、人生とは一つも存在しないのです。

そして人は死に生まれ変わる時、自分が前世何に一番後悔したのか、自分が何を望んで生まれるのか、それらの記憶を一切忘れた状態で生まれます。

正確には、潜在意識にはあるのですがはっきりとした意識の領域に存在しないという事です。

そしてその後悔を次の人生で試されます。同じ運命を繰り返すのです。

その時に乗り越える事が出来れば、また一つステップアップをいたします。そうしてその先の未来の分岐が、自分の望みや幸せに近いものに変化していくのです。

変わらなければ前世までと変わらないか、もっと自分の首を絞めるようなものに落ちぶれてしまう場合もございます。

そして変わらない場合、思い出せない場合に必ず邪魔となるのは自分自身のエゴです。


主観は、判断力や閃きを妨げます。本来の得策を思い付かず、全く違う所に利益を見込んで全く違う方向に感情や行動が突き進んでしまう場合があるのです。

自分の欲望に映し出された一瞬の損得勘定や一瞬の快楽といったものの為に。

信頼を得るという事は根気の要る事です。
一度失った信用というものは尚更です。
しかしながら失うのは一瞬の出来事です。そしてその事実は消えません。

そしてそうなった運命はそのまま進んでいきます。
ですから最後に得る結果というものは、自分の器通りのものになるという事です。

ただどのような人にも必ず正機があります。先述の通り、慈悲はどんなに罪深い人間にも受ける権利があるからです。
向上出来る人とは、自分の弱さに気付き、その事実を受け入れ苦しみ悔やむ事が出来、
誰かを信じる事が出来て、素直に助けを求め、迷わず手を差し伸べる事が出来る者です。

そしてその正機とは、今この瞬間も、10秒後、1分後、今日中、明日、その先、と常に存在しております。後は自分次第なのです。

何もしていない間も、考える事は出来ます。
ですから、瞑想する事も良い事ではあります。

自分に何も無いと思っていても、必ず潜在意識の中に、自分の中に自分の答えが存在致します。
それを捻り出せるか、思い浮かぶかどうかなのです。そしてその正解が出せた分だけ、魂の向上が行われ、自分自身良い方向に進んでいきます。

ですから主観やエゴを抜いて、考えて、考えて、考え抜く事が必要でもある訳です。

後は、向上しない魂もある事を理解して、同調はしない事です。そこに人の欲から成る誘惑があると理解する必要もございます。

他力本願を自分だけの力では無く他者の力、特に阿弥陀仏の力によって救われるとされるならば、他者、特に阿弥陀仏が差し出した慈悲を阿弥陀仏が解くものは絶対で正しいのだから、と態々毒づく様な捻くれ者はその他力にあやかる事無く、我が道を進みその器の通りを受け取るしかないのが現実です。

自分に与えられたどの正機も気付く事無く誘惑にだけ同調し渡り歩いて平気でいる、正機すら馬鹿にしてその程度のものとする、そしてその誘惑を良しとする、魅力あるもの、甘美なるものと考えるのが、向上しない魂です。

本来の甘美なるもの、魅力的なものとは、愛の中に存在しております。
愛の無い者の中に、その答えはありません。

愛が無い人間は、空です。
そして愛ある者は、中身も詰まっております。
ですからそういう者の行動や言葉は重みがあり、人は十人十色と言えど愛ある者を見続けていれば、どんなに気に入らないとしても、共感しにくいと思っていても、長い目で見ていれば何処かが必ず腑に落ちて心に残ります。

何も響かない変わらないものというものは、何も無い、空っぽな存在なのです。

そしてそういう者は見せかけや目に見える世界にだけ執着をし、自分の見たいようにしか物事を見れない、人の痛みや苦しみも分からない。

空っぽな器に、自分のエゴだけが詰め込まれた人形のようなものです。
ですからそういった空っぽな者の言動に、人々が動かされる事はありません。

ですが空っぽであるならば、中身をこれから詰め込んで行く事も出来ます。伸び代があるという事です。ですが、それも自分次第であるという事になります。変わらない者は変わらないですし、変わる者は変わっていきます。

変わった者は、新たに得ていくものがあります。
変わらない者は、次第に何かを失っていきます。

そしてそれが何なのか、どうなるのかは人それぞれ、自分次第です。