私たち人間には、108もの煩悩があります。煩悩とは、本来消す事が理想とされます。
ですから、欲望に忠実にありたいと考える者であっても、周りの目を気にして計算をして、その欲望を悟られぬよう隠す事があります。
ですが、世の中の仕組みから消せない欲望というものもあります。それは例えば生きる為に必要な食欲や睡眠の欲などというものの他、
人間が複数存在している以上避けられぬ欲、良く見られたい、上に立ちたい、良いものやみんなが欲しがるものは独り占めしたい、楽をしたい、などという欲望です。
生きる為、最低限の欲望は仕方がないです。しかしながらそれ以外の欲望は、自分なりの煩悩というものを悟り、それを違う形で消していく必要があります。
そして、人は独りでは生きていく事ができません。必ず誰かと関わりを持って、生きていきます。
その相手を理解したいのならば、相手と同じ目線で物を話し、同じ目線で判断をし、同じ目線で「何がこの人にとって一番幸せか、不快か」を考える必要があります。
理解できずとも、しようとする努力は必要です。
まず先に「自分が」という事はエゴであり、同時に周りの人に対してはどうでも良い、という気持ちがある事になります。
本当の答えとは、自分はどうでも良いと考え、相手の事を先に考えてみる事で、掴む事が出来ます。
何故なら、相手は自分の鏡でもあるからです。
相手が読めないならば、自分の中にその答えが無い、持とうとしていない、答えを見ようとしていないという事。
だから、人は自分を見つめたくないですし、周りを見たくないという事でもあります。
しかしながら人は、探り探り生きております。見えないからこそ、警戒しますし、解らないからこそ、下手をできないと。
周りに先に行かせて安全を確かめたり、誰かが良い方向に行こうとするならば、それは憎らしいから貶めようとしたり。
みんなでやれば怖くない、でも自発的にひとりで踏み込む事はできない。
自分が消える恐怖、人から見られるという恐怖、人から詰られる恐怖があるのは非常に浅い事です。
しかしながら自分がある事と、自分(エゴ)を先に出すという事は異なります。後者は未熟でしかありません。
そして、変わる事が出来ない者も存在いたします。
そして変わる事が出来ない者にいつまでも固執する事は、その者に対しての慈悲になりません。
慈悲とは、捨てるという行為にも存在いたします。助ける事だけが慈悲になるとは限りません。
救いとは、助ける事だけではなく、自分で判断をし、それにより招いた結果で滅びる事にも含まれます。
止めてもらう、これ以上過ちを犯さないように防いでもらう、という事です。
そしてその取捨選択により、必ず波紋が生まれます。
何故なら人は、独りで生きている訳ではないからです。
必ずその一部始終を見て、聞いて、影響を受ける人々がいます。それらがまた、良い影響になるか、悪い影響になるかは人それぞれです。
ですが必ず何かしらの連鎖が起きていき、世の中が回っていきます。
過ちというものは、本来は決して無駄なことではありません。
無駄な事ではなかった、となるには今後の自分の変化、更生にあります。
それがわからないのであれば、いつまでも変わらないのであれば塵に同じという事です。
慈悲というものは、どこにでも存在しております。
慈悲は、悲しい現場にも、虚しい現場にも、楽しく明るい現場にも存在しております。
情けと慈悲は違います。
人間であるならば、まずその人の立場に立って物事を考えるという事が慈悲であり、優しさです。
目の前の現実に真実など殆どありません。ですから、先に見る必要があるのは現実のその前の部分にあります。
今こうなっているのは何故なのか。
人事を尽くして天命を待つ という言葉があります。
それは、自分が出来る事、必要な事を全てやりきってからあとは天の意思を待つ、という事になります。
常に最善を尽くしていく事です。
その真逆を行くのが後ろ向きな者や的外れな者です。必要な時に一歩も動けず逃げ出してしまったり、必要な事を何一つ出来ずに空回りばかりしてしまう事です。
何も果たせない事を示す事が天命であるとも言えます。すなわち、いずれは消滅するしかないという事です。
天命そのものには2種類あります。
1つは天から与えられた使命、要するにこの世に生まれてきた果たすべき役割を指します。
2つ目は、天から与えられた運命です。これは、人の意思を越えて身の上に起こる巡り合わせの事になります。
必ず生きる者、形あるものには巡り合わせがあるからです。
天命は、自分の意思ではどうする事も出来ない、見えない大きな力によって定められている事です。
幾ら望んだ通りであっても、望まない道であっても、必ずそうなっていく運命にあり、逃れる事は出来ません。
そして、その境遇の中で様々な巡り合わせがあり、数々の選択を迫られます。
何を選択していくかにより、自分の器に見合った結果というものが訪れます。
シュミレーションのゲームのように、ある程度の所で分岐があり、運命も何分の幾つという世界で分かれていきます。
こうなる可能性もあるし、ならない可能性もあるし、それは本人次第で分からない、という部分もあるという事です。
失敗しない為には、冷静に考えてみる必要があります。
自分がどうしたい、それは単なるエゴです。どうすべきか、常に冷静に考えて判断していく必要があります。
私たち人間は、生きている間は常に判断を求められているのです。
上に行きたいのであればそれは自分が望もうが望まないが成長しない限り変わらない事であり、変わらないのであれば底に居続ける事になります。
私たちにとって変わる為の一歩、例えばずっとやらなかった事をやってみる事、ずっと続けていた事をやめる事、その一歩で運命が大きく変わります。
その先の人生がそれぞれ全く違うものになって行きます。変わってしまえば、「なんだこんな事だったのか」「何故あんなに出来なかったのだろう」と思います。
しかしながらその一歩が踏み出せないのが人の心理です。逆に、無責任に踏み出して壊してしまうのも人の心理です。
天命は変える事は出来ませんが、その中でも何を選択するかで、人生は大きく変動します。
それが、運命というものです。
運命というものは、選択です。先の運命ですとか、運命の相手、というものも同じ事です。
自分が選ぶ事が出来、自分が捨てる事も出来ます。
しかしながらその選択には必ず欲望が絡みます。
欲望は、悪魔が人間に運んできたものです。
しかし人間に欲望が植え付けられたのは、全ての始まりでもあります。
何故なら、人間が動いていく、進化していくからには、良い事ばかりを連ねても仕方がないからです。
良い事、悪い事、両方が揃った中で正義を見出していく事が必要とされます。
何故正義なのか、それはその逆を行くと全てが消滅してしまい、意味がないからです。
しかし人には、悪い事にしか興味がない者と、良いものしか理想としない者といます。勿論それ以外にも十人十色です。
ですから、本来人が導かれていくその先には教訓というものが必要です。
悪い事にしか興味がない者は、悪い事の全てを、
良いものを理想とする者には良いとされるものを、
そしてそこからその逆も 全てを見ていく必要が、私たち人間にはある訳です。
そしてその教訓を通して、自分の中に過ちがあるならばそれを過ちと理解する事が必要です。
悟りとは、その全てを知りその全てを拾い、その全てを捨てる事です。
人は、教訓というものを例えば宗教に求めます。要するに、信仰心、自分の中で神とするものです。
それが例えば悪魔の人もいるでしょうし、天使や神とする人もいるでしょう。
世の中では、メシアと言われる存在である事もあるでしょう。
メシアとは、イエスキリストが呼ばれていた呼び名でもありますが、いわゆる救世主とされる存在、要するに教訓でもあり、見本にならなければならない、人々を導いていかなければならない存在です。
ですからそれは鏡のような、本来の根本的な人間の姿にも似て見える部分もあるでしょうし、そこに全くない全てとも言えます。
メシアとは、欲望が強い人間には欲望を魅せ、欲望がない人間には枯地を見せる、そんな存在です。
何故なら悪魔は欲望から生まれ、神は枯れ地から生まれており、それが全てであり、紙一重でもあるからです。
欲望が無いという事も、欲しいものを我慢するというしんどさが無い分に楽であり、欲望を避けて通る者は楽を選んでいるという事にもなります。
知らぬふりをする事で、楽できる事も沢山あります。その苦労を通らない欲望というものも存在しているのです。
ですから、枯れ地を見て、その苦しさを悟るという事です。
逆は、欲望にまみれ狂う事で、その苦しさを悟るという事になります。
しかしながら人間の選択というものも限られておりますから、同じ状況になった場合に、同じ選択をする場合もあります。
楽をしたいからあえてやらない、欲しいからわざとやらない、同じ事です。
人にはそれぞれ器というものが存在します。考え方や気質、経験や価値観も十人十色です。
物事に気づく気づかないも同じです。
世の中には何億通り、それ以上の考えがあります。
しかしながら不思議と、周りと同じように、物事が一向に出来なかったりします。
それは何故なのでしょうか。
人と同じで良いという、楽したい欲望、無責任な欲望があるからです。
メシアという存在は、ひとつの強烈な見本が全ての人間の十人十色を一つに、同じように良い方向に導いていく必要があるとされます。
今世、メシアという存在がまた現れます。新たに世俗的なメシアが生まれるとされています。
祭事的なメシアとひとつになり、全てが完璧であり、完璧すぎない、人々から共感をされながらも前に進んでいける存在です。
つまり、成長をし続ける、切り拓いていく事が出来る、
世俗的でありながらも現代の人間からは突出した存在である必要があります。
人間の心と、神の心を両方、持ち合わせていないとなりません。
悟りを得ていく必要があります。
悟りとは、凡人が考える事とは違う視点で物事を見て、凡人を同じ視点からも物事を理解する事。
世俗的なメシアとは、上に在らず、下にも在らず、両者を理解し尚且つその存在に辿り着けない者が成り得る。
神の品格を持つに足りる器があるものがたどり着く境地です。
品格とは、物事が落ち着いた、心が気高く、振る舞いが優雅な事を言いますが、それは表面的なものではありません。
真の品格とは、「自分自身の内側」から、行動からなるものです。
人間としての中身がどの程度か、自分の振る舞いに責任が持てるのか。
そして生き方から感じる品格、自分はこれに生きるという責任感、
そういったものが備わったものこそがオーラを放ち、世俗的なリーダーとしての品格も備わります。
品格を上げていくには、自分自身の本質や中身、要するに心の中で思っている事を変えていく事が必要であり、
いかに周りの人間に不快な思いをさせないか、見られている事を意識し、恥ずかしくない行動が出来るかどうか、
お手本になる事ができるのか、自分が人にやられて嫌な事をしていないか、やり返された時に踏みとどまれず更にやり返し続けるのか、
1を100に振り切ってしまうのかどうか、そういった部分にも関わります。
世俗的なメシアはひとりであるが、
世俗的な救世主とは現代を生きる全てのものも含むとも考えられる。
世俗的なメシアは、常に世の中を映していき、世の中も共感すれば着いてくるし、共感しなければ着いてこないからである。
世俗的なメシアとその仲間と、そして現代を生きるすべての、あらゆる天命を授かっている私たち人間は、以下について考えていかねばならない。
そして最もふさわしい器のものが、世俗的なメシアになると考えられる。