「般若心教」
般若波羅蜜多心経は 空の理法を悟ることが根本思想とされる大乗仏教の教理が、短いこの一巻の中にすべて納まっているといわれてきた経である。

「色は空、空は色である」との一文は有名であり、大乗仏教の根底である二諦教義が凝縮されている。空の理法とは追究すれば限りがなく、『大般若経』六百巻のような大部の経が成立したが、この短い『般若心経』一巻にすべて納まる大乗仏教の精髄を示すものとして重要視され、常に読誦されてきた
(ウィキペディアより)




色即是空、空即是色という言葉があります。


色即是空とは、この世のあらゆる物は形を持つが、それは見せかけに過ぎず本質は空であり、それは不変のものではない、という意味であります。

色とは所謂我々にとっての万物を指し、すなわちそれらそのものは空の存在である、と言う事です。

この世の物の全ては縁起によって存在していて、その事実は変わらないという事です。

そしてそれは人間の欲望等、はっきりと認識が出来るものも含みます。

他方で空即是色というものは、物の本質は空であるが、それはそのままこの世の一切のものに等しいという意味です。
全て、という意味も含みます。

そしてすなわち変化していくものを指します。
空即是色は実態が無いもので形成された事であり、それらが形となっているものです。

これらを全て壊していくと色即是空になります。

すなわち世の中を壊していき、最後に残るものは人間の欲望であり、それ自体は空虚な存在で意味を成さないという事にもなる訳です。

色即是空とは本来、空即是色に吸収されていくものです。

何故なら色即是空とは目に見えるものであり、それらには中身が無く、何の意味も為さない事に対して、それらを全て踏まえた上で世の中の全てが進んでいくからです。

色即是空は一部、であり、空即是色はそのあらゆる色即是空を全て含む全体の事になります。

目に見える形あるものには本来何も意味がなく、それらばかりに固執する、見せかけにだけとらわれる行為は空虚そのものであり、何の意味も為しません。
自分や他人の見せかけ、見てくればかりを気にしてその者の中身を全く見ない事も同じです。

しかしながら欲望に塗れた者がいる事で世の中に悪が生まれ、それらが必要悪となる事で世の中が良い方向に進んでいく場合もあります。
他がそれらに同化をしない、反面教師になる、という事もあれば、毒を以て毒を制す、という意味にもなる訳です。

中途半端に欲を抱く者も、振り切って欲に塗れた者を見れば嫌気がさす事もあります。
哀れみや恥を感じる事もあります。それらを見て己を省みる場合もあるという事です。
晒し者という事です。
またそれら強い悪そのものが、半端者を食い潰す場合もあります。

そうして世の中全体が変わっていきます。

それは人々に完全に全てが認知される訳でもなく進んでいく変化であり、それが空即是色という事です。

そして空即是色と色即是空は常に対となっており、欲望に塗れればこの世の中が壊れる為、それらを再生する為にもその欲望自体を消さなければならない事もあります。

全てをひとつの方向に傾けてそのままにする事に何の意味も持たないからです。要するにバランスが大切という事にもなります。
バランスを保つ為には、それぞれのタイミングもあります。

この様に万物は常に変化をし続け、この宇宙自体は追憶である事の表れでもあります。

追憶とは、進化に連れて消えていくものがあったとしても、その結果の全てにそれら全ての存在していた証がある、そしてそれらは常に吸収されていく、という事になります。

つまり見せかけだけの世界には何の真実もなく、目に見えるものとは、偽りの世界という事です。

例えば幾ら表面的なものばかりに囚われていても何の真実も掴めないと言う事にもなります。
アイドル等も同じで、幾らそこを深く見ようとも本人の実態を見透かす事は出来ず、その姿自体幻に等しいと言う事です。なぜなら、人は必ず目に見える所に相手ではなく自分自身を見るからです。

しかしながらそのような者達は肉眼で認識できます。
他方で肉眼で認識できないような目に見えないものというものは、人間にとっては空虚とされます。
目に見えない部分に全てがあり、目に見えるものこそが空虚であるというのにです。

スピリチュアルで言うとどうでしょう。
例えば重力が目に見えないにも関わらず確かに存在しているのと同じで、何かを引き寄せる力や引き離す力、物を動かす力、人の念、そういったエネルギーは確かに存在しています。
しかしながら目には見えません。
物質が絡む時だけ、現象として現れます。
しかしながら、認知するかしないかはその人次第になる訳です。

仮に人間関係の変化が訪れたとしても、目に見えない場合は結果として何かを得ても本人の気持ち次第になってしまいます。
そこが、人間自体の空虚な部分でもある訳です。

では、神様というものは存在するのだろうか?
この世にはあらゆる昔話や神話が沢山残っています。

その割には、信仰心もその人次第であり、実際存在しているかどうかというと、それぞれの心の中に存在していたり、否定する者もいれば、ちゃんとした存在として有ると考える者もいます。しかしながら確実に目に見えるとはされません。

スピリチュアル、神という存在は空即是色、すなわち世の中の在り方に等しいとも言えるでしょう。目に見えないが確かに存在しているものという訳です。

そうしてそれらが目に見える物理的な世界に飛び込んで来た時、それは色即是空になります。
確かにそこに存在しているが、空であるという訳です。何故なら認知される領域に全てが無いからです。
そして、それらは一人一人の欲望の目に映ります。

そして、それら全ては、空即是色に吸収されていくものになります。

この宇宙に存在している限り、私達はこの真理から逃れる事は出来ません。

目視出来るものがあるとして、それらが全く違う所で、関係ないと思われるような真実に繋がっている可能性もあります。

そして何かをするという事は、それ以外の全てをしない事にも繋がる、それが色即是空、空即是色でもある、という事にもなります。

何かを拾う事は何かを捨てる事と同じです。

そしてそれらを積み重ねる事で一人一人の真実が形成されて、そのうちの一部のみを人は認知します。

人にはまだ知らない領域というものが沢山あり、この宇宙の本当の広さを知りません。

そして目に見える偽りを鵜呑みにしてしまう者は、この宇宙の真理に吸収されていくという事にも繋がります。
つまり見せかけとは、無に等しいという事です。

人は一部を知り全てを知った判断をし、簡単に何かを馬鹿にしたり、簡単に自分が優位に立っているとも考えます。
欺けるとすら思い、その全てを握ったつもりにもなります。
しかしながら、そのような判断や、判断をする存在は塵に同じという事です。

そしてそれら空虚の全てを理解する事に悟りがあり、それを把握し転がす者が現れた場合、一体どうなるでしょうか。

馬鹿なふりをしている者こそが一番恐ろしいという事です。

空虚なる者は、その事に気づく事もありません。

この宇宙はそういった空虚なるものすら含んで、常に前に進んでいきます。

要するに、この宇宙が進化をする為の、ビッグバンビッグクランチの燃料、要は燃えカスになるに等しい、という事にもなります。

必要なものだけでは、必要な進化を遂げる事は出来ません。

必要が無いものにこそ、必要な部分もあるという事です。

何も無い所には、全てがあります。

宇宙はそうして創造されて、今日まで進化をし続けて来たという事です。