裏庭のがれき

裏庭のがれき

備忘録。ネタ帳。

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 さてさて、一生懸命のおしゃべりでございます。
 だいたい人間の強さっちゅーもんは物理的に決まっておりまして、刀持ってる輩は刀持ってない輩よりも強いですね。こりゃもう当たり前の話です。江戸時代なんか260余年の太平の時代と言われていますが、当時の刀持ってない輩にしてみたら平和でもなんでもない、びくびく頭下げて暮らしてましたっちゅー見方もできますわな。
 いわゆる無礼討ちという言葉もあります。町民が侍に無礼を働いたならその場で殺せるっちゅー決め事ですな。基本的に侍の身体にうっかり触ってしまったら殺される権利が発生します。いやいやほんとの話で、例えば、おにぎり咥えた女の子が寺子屋の授業に遅れないためにすたこら走っていて、うっかり角を曲がってきた若侍とぶつかったとしますわな。
「どこ見て歩いてんのよ!」
「死ね!」グサ。
 ――と斬られて人生が終わります。ラブコメなんか発生のしようもありません。女の子はむやみに走るな歯を見せて笑うな口答えするなという、今聞いたらえらい非人道的なしつけの数々も、侍が刀持ってた時代にあっては必要悪みたいなもんです。ほんまにその程度でも命が危うい時代です。
 もっとも無礼討ちにもデメリットはありまして、一生懸命証人をひっ捕まえて、お上に殺した相手の無礼さを証明しないといけません。証明できなければただの人殺しとしてお家改易や切腹やと厳しい処罰が下ったそうです。
 さっきの例で言いますと、若侍は斬ったあとすぐさま周りを見回して証人を探します。運悪く居合わせたのが天秤棒担いでこれから市場に行こうとしていた魚屋のおっさん。
「おい魚屋! きさまついて来い、奉行所行くぞ」
「うへえ、なんでです。殺したのお侍さまやないですか」
「見てたなら女の無礼を証言せえ。口答えするとお前も殺すぞ」
「へえご勘弁を。これから仕入れに行きませんと、とりおきの魚腐らせたら後で買い取らなあかん始末でして」
「口答えしたな、斬る!」グサ。
 ――さて周りを見回した若侍の目ぇがギョロッとあなたの方を向きまして。

 まあさすがにこんな短絡的な侍もなかなかいないでしょうから、極端な例えのための例えにすぎませんけど、ともかく町民にとっては侍ほど鬱陶しいものはない。お堀の中でええもん食って、ひっそりと刀でも振るってろという、これはそういうお話でございます。

「大変やー、大変や大変やご隠居、やってもうたぁ」
「なんやどうしたんや熊きち。ええ年して寝小便でもしたんかい」
「ちゃうわいちゃうわい、侍殺してしもうたんや」
「あ? なんやて熊きち、何を殺した?」
「侍殺してしもうたんや」
「……侍?」
「侍殺してしもうたんや」
「ま、待て待て。殺したって、袴着て刀差してる侍か?」
「そや」
「横浜来て肩鳴らしとる」
「それはぺるりや。肩鳴らしとるて、ボケが苦しいでご隠居。勝手にぺるり提督肩こりにしたらあかんで」
「ああそやな、ぺるりには悪いことした。――そやかて熊きち。そらまずいやろ。ええ? ……はぁー、侍を? 殺した」
「殺してもうた」
「そらしかし、なんでまた殺してもうたんや」
「わし悪くないんや、世の中が悪いんや」
「世の中てお前、そんなガキみたいなこと言うな三十路近いくせに。なんで殺した。喧嘩か」
「いやそこの角で出会い頭にどかーんぶつかって」
「ぶつかって、それで?」
「わしはなんともなかったんやけど、侍が壁に頭ぶつけて気ぃ失ってしもうてな」
「そのまま死んだんか?」
「ちゃうんや、うっかり起こして無礼討ちになったらアカン思うて、そのまま放置して逃げよ思うてんけど」
「けど?」
「侍の懐に虫が入ってるの見つけてもうたんや」
「虫? 虫てどんな虫や」
「そらもう、この長屋でも毎日のように見る」
「黒いアレか?」
「黒いアレや。あんまり名前言うとカサカサ這い出てきようやから、よう言わんけど」
「ほんなら仮にぺるりにしとけ」
「ご隠居よっぽどぺるり提督嫌いなんか」
「やかましい、黒船も便所コオロギも似たようなもんや。――ほんでぺるりが入ってたから、どうした」
「いくらなんでも懐にぺるりが入ってるのはかわいそうや思うて、取ったろうとしたんやけど、素手でぺるり触るのも嫌やからなんか棒きれないかなと思うて。そしたら侍の腰に刀が差さってるやんか。鞘ごとしゅるりと腰から抜いて、それでぺるりをツンツンしとってんけど」
「危ないことしよるなあ。ほんで?」
「なにせ刀なんか生まれて初めて持ったから、重くてよう使いこなせん。外へ追いだそうとつついてるはずやのに、逆に懐に追い立てるみたいになってしもうて。ぺるりがどんどん奥の方に入り込んでいって、しまいにゃ見えなくなったんや。そんでふと気がつくとガサガサガサガサ異様な羽鳴りがお侍の股の辺りから」
「ふんどしの中入り込んだんか」
「そうやねん。ほんでこれはもうどうにもならん思うて、刀放り出して逃げようとしたら足をガシって掴まれて、待てい貴様と咎められ」
「お侍起きたんか」
「そうや。起きて暴れよるからふんどしの中のぺるりもますます暴れよる。お侍も腰砕けになって股押さえていったい貴様何をしたと喚きよるから、正直に話したんや。ぺるりが金玉齧ってまっせ」
「ほんで?」
「泡吹いて死んでもうた」
「はぁ……かわいそうに。お侍がぺるりに金玉齧られたらそら、生きてられんわな」
「ちょっとおもろいな」
「あほ、おもしろがるな。まあでもそんなら殺したのお前やなくてぺるりやないか」
「でもわしが馬鹿正直にぺるりのこと言わんかったら平気で生きてたかもしれんで。なんや金玉かゆいなぁボリボリ、ん、なんか変なコブついとる、性病かな? ぐらいで済んだかもしれん」
「性病は性病で難儀やけどな。ともかくお前に悪意はなかったんやろ? そんならそれでええやないか。不幸な事故や。ぺるり如きでビビって死んだお侍が情けない」
「わし悪くないんか?」
「悪くない、ということにしとかな、この貧乏長屋の連中にも迷惑がかかるやろ。同じ五人組の男がぺるりけしかけて侍殺しましたて奉行所にバレてみい。連座でみんな首飛ぶで。もちろん私の首も飛ぶ。そやから知らん顔しとけ。同心やらが取り調べに来てもなんにも言うなよ。お侍の遺族からしたら、侍がぺるりに金玉齧られて死んだなんて真実に耐え切れるはずもないから、絶対に事情を捻じ曲げて逆恨みしよるからな。お侍殺したのはぺるりやなくて熊きちということになり、熊きちは貧乏町人やなくて香具師の一味ということになり、私ら五人組もその片棒を担いだということになって殺され、それでもまだ武士の面目が立つかも分からん。下手したらこの町内、ぺるりのせいで人っ子一人いなくなるかもしれん」
「お侍ってのはそんなに陰険かいな」
「陰険や。陰険が服着て歩いてるようなもんや」
「そんなら黙っといた方がええな」
「そうせえ。熊きちがしっかり口を閉じるだけで何人の命が助かるやもしれんのやからな」
「ほんならそうしよう。ご隠居に相談したかいがあったわ」
「そうやろうとも。そんで熊きち、お前さんがお侍の刀持ってぺるりつついてたとこ、誰にも見られてないやろうな。誰かに見られてたら厄介やで。誤解されよる」
「それは大丈夫や。裏手の小便横丁の角やからな。あんなとこ、うちの長屋のもんが立ちションする時ぐらいしか人通らんで。ご隠居以外はみんな仕事に出てるしな」
「お前もぶらぶらしてんと働けよ。まあそれはええとして、小便横丁なぁ。なんでそんなところにお侍がいるんや」
「よお分からん。小便しようと角を曲がったら横丁から出てきて、そんでぶつかったんやけど。お侍も小便したかったんかなぁ」
「あほ、お侍が立ちションなんて外聞の悪いことするかいな。――いやでも他に考えられんな。うっかり我慢できなくなって、人気のない小便臭い横丁に入ったんやろうな」
「焦ってたからふんどしの締りも緩くてぺるりがするっと入ったんか。……なんかかわいそうなお侍やな。わし涙出てきたわ」
「そうやな。お侍なんていなくなった方が世の中のためやけど、この死に方はあんまりや。念仏ぐらい唱えたろ。なむなむ」
「どうせなら直接死体に唱えたってや」
 
 ――熊きちがご隠居の部屋の戸を開けると、そこには洗濯桶に突っ込まれたお侍の死体がありました。

「お、お、お、お、お前あほかい熊きち。なんで私の部屋まで死体持ってくるねん」
「だってどうしたら分からんからご隠居のとこ相談しに来たんやし。突拍子もない話やからとりあえず現物見てもらおう思って。ほらこれがふんどしの中や」
「めくるな、袴めくるな! はよ小便横丁戻して来い!」
「ほんならそうするわ」
「……ああ、待て待て。もとに戻すとこ誰かに見られるかも分からん。……嫌やけど持って入れ」
「よいせ……よいせっと。うわ、ぺるりが這い出てきた」
「余計なこと言うな、私も泡吹いて死にそうや……」

 ご隠居さんすっかり蒼白になりまして、熊きちと一緒に狭い部屋の中どたばたぺるりから逃げていましたが、やがて覚悟が決まったのか――

「よし、埋めよう」
「埋めようてご隠居、何処に埋めるねん」
「この部屋の床下や」
「ほ、本気で言うてんのか?」
「ほんまの本気や。ええか熊きち、私も昔は木っ端侍の三男坊で、旗本の家に奉公に出されてな。ちょっとしたことで不興を買って無礼討ちされそうになったんや。別に殺されるほど悪いことしてないねんから、堂々と殺されとけばお天道様に導かれて極楽にでもいけたんやろうけど、そんな度胸はなかった。必死にへいこらしてな。毎日土下座して、竹刀でケツ叩かれて、池のぬるい水に顔つっこんで鯉の真似してな。そんな日々を耐えて耐えて、耐えてるうちに人間が曲がってこのザマや。嫁の来てもなく、流れに流れて貧乏長屋でかすみ食って生きとる。恩義がなんや、忠節がなんや。そんなもん全部刀がやらせてることやないかと思うてしまうと、世の中支えてる屋台骨の道徳すら信じ切れん。そんな私のところに侍の死体が来たのも、これも何かの縁やろうな」
「縁てご隠居、死体の上で寝て平気なんかい」
「どうってことない。……ええか熊きち、夏も近いし、死体を地下に埋めても三日とたたずにひどい臭いがするやろう。そしたらお前は同心呼ぶなり奉行所駆けこむなりせえ。ご隠居の部屋から異臭がする言うて、駆け込め。五人組の連座は、ちゃんと密告すれば恩情で軽くなる」
「そやかて」
「ええから聞け。私は奉行所でお侍殺したと白状する。なんで殺した? お侍が立ち小便したのをあげつらったら無礼討ちで殺されそうになったからや。そんで奉行に恨み節聞かせたるわ。なにが無礼討ちや。何が礼儀や。そんなもん人殺す理由になるかい。人をいじめる理由になるかい」
「なんか変なスイッチ入ってもうてるなぁ……。よっぽどお侍に殴られてきたんやろうな。……あのなご隠居、お侍殺したんはぺるりやで。ほれ見ろやふんどしの中! 見ろや!」
「見せんでええ。真実なんかどうでもええんや。ぺるりがお侍殺した言うて、世間の誰が納得するかい。金玉齧られて死ぬお侍なんておらんのや。世間的にそういうことになってしもうとるんや。……ええか、その間抜けなお侍殺したんは私や。ぺるりも私も似たようなもんや。もし私の言うこと聞かんと余計なことしよったら、ぺるりに生まれ変わってお前さんの金玉齧ったるからな!」

 思わぬところから年よりの頑固に火がついて、熊きちはすっかり狼狽してしまいました。ご隠居は床下をひっぺがし、侍の持っていた刀を器用に使ってザクザク地下を掘り抜いていきます。こらもうどうにもならんと思った熊きちは貧乏長屋を飛び出して、表通りにある同心の詰め所に駆け込みました。

「大変だ大変だ!」
「んだい人が昼寝してたのに。何かあったのかい」
「さ、佐吉の旦那。ご、ご隠居がぺるりの罪を被ってお侍の死体を」
「あ? なんだって」
「ぺるりがお侍を殺してしもうて、その罪を被ったご隠居が奉行所に文句つけたるって」
「ぺるり? ぺるりはこないだ海の向こうへ帰ったらしいで。なに寝ぼけてんねん」
「いやぺるりやなくて便所コオロギ」
「話にならん。酒が抜けてからもう一回来い」

 蹴り出されてしまいました。こわごわ長屋に戻ると、ご隠居はすっかり死体を埋めてしまったのか、表で洗濯桶をたわしでゴシゴシこすっています。

「あかん……手遅れや。ほんまに死体埋めてもうたら、殺したんが便所コオロギでも許してもらえん。何がなんでも隠し通すしかあらへん……」

 熊きちがびくびくする間に三日経ち五日経ち、死体がぷんぷん臭うようになりました。同心たちは行方不明のお侍の捜索に明け暮れていますが、手がかりがありません。詰め所で疲れた足をもんでいた佐吉は、ふと熊きちが妙なことを言っていたのを思い出しました。
「ははーん、さては」
「どうした佐吉。なんぞ手がかりでも見つかったか」
「へえ、親分。ちょっと例のワン公お借りしてもよろしいですか」
「おお、例の壬生の狼かい。あいつの鼻は普通の犬の五倍は利くからな。なんぞ心当たりがあるんやったら、思い切って使わせたろ」
「へ、任せといてくだせえ」

 翌朝、わんわんうるさい犬の声で長屋の連中が起き出しますと、同心の佐吉が普通の犬の二倍はあろうかというような大きなワン公を連れて現れました。
「なんや、くっさい長屋やな。こんなんやったら狼連れてこんでもよかったわ。おい熊、熊きち」
「へい」
「前にご隠居がどうのと言うとったな。隠すとためにならんぞ。ご隠居の部屋は何処や」
「っへい。……ご隠居の部屋は」
「さっさと言わんかい」
「っへい……」
「うー、わんわん」

 熊きちが言いよどんでいるうちに、狼がぴしりと戸が閉まった長屋の一室の前で吠えました。

「ふん、ここやな、開けるでご隠居、いるんやろ!」

 佐吉が戸を開けると、そこにいたのはご隠居ではありませんでした。狼とほとんど同じぐらいの大きさの巨大な便所コオロギが、手足をうぞうぞと動かしていました。
 佐吉も熊きちも、他の長屋の連中もみな腰を抜かしてへたりこみます。狼だけが闘争心をむき出しにして便所コオロギに襲いかかります。
 飛びかかった狼の牙がコオロギの背中を突き刺したかと思うと、コオロギがお返しに狼のでかい金玉をがぶー! と噛んで、狼はコロリと死んでしまいました。
 そのまま狼の死体を踏みつけて、うぞうぞと部屋を出てきた便所コオロギの迫力に長屋の連中は阿鼻叫喚の大混乱、一目散に通りへ逃げたものだから、たまたま通りかかった旗本の輿と護衛の侍たちにぶつかってしまいます。
「なんだ貴様ら、無礼な!」
「手討ちにするぞ」
 と侍たちが言うや否や、巨大な便所コオロギが羽を広げて飛びかかっていきました。
 
 刀で斬りつけられてえげつない体液を吹き出しながらも侍たちの袴の下に潜り込んでは噛みきっていく便所コオロギに、熊きちは「ご隠居か?」と声をかけましたが、コオロギは夢中で身体を震わせるばかりでした。

「――そうか、あのお侍を殺したぺるりも、人間やったんか」
「熊きち、いったいこりゃなんや」
「佐吉の旦那、これがほんとの虫身戦争(むしんせんそう)や」




三題噺「虫・狼・無敵の運命」ジャンル指定「時代小説」了




「お兄ちゃん塩野目さんに告白して振られたんでしょー」
 と家に帰るなり妹が言ったので、僕は塩野目春香という人間をうまい具合に軽蔑することができた。
 塩野目が自転車で帰るところをつかまえてしばらく一緒に歩いたあとの、信号待ちの間の会話――
「できたら明日も一緒に帰らない?」「なんで?」
「塩野目が好きだから」「……いや、ちょっと」
「あ……うん」「ごめんね」という残念なやり取りが即座に妹に伝わっているということは、塩野目がLINEかなんかのSNSで広大な範囲に即座に言いふらしたということだ。家が近くて小学校の集団登校が一緒だったというだけの妹のところまで届いているということは、さぞかしおもしろおかしく僕の名前を喧伝しやがったのだろう。
「あんなちょっと可愛いだけの馬鹿女に振られたところで痛くも痒くもないね。やり捨てられなくて残念だよ」
「うわー、うわうわうわ」
 ドン引きしたらしい妹が階段を上がって部屋に引っ込んだ。あいつも大概馬鹿だからたぶんLINEに書くだろう。気持ち悪い奴らめ。僕の知らないところで勝手に繋がりまくってるといい。乱交人間どもめ。
 妹の隣の部屋に引っ込んで、中古で五百円で買った古いモンハンをやっていると、携帯が鳴った。クラスメイトの安城金吾からだった。
「聞いたぞ余志屋。塩野目さんに告って振られたんだって?」
「……お前も知ってるのか」
 もし塩野目と付き合うはめになっていたら、僕がちょっとかっこいいこと言う度にLINEで晒されてしまったに違いない。地雷のような女だ。つくづく振られてよかった。
「いいか安城。筒井康隆の小説に俺に関するうわさという短編がある。読んだことはあるか」と僕は言ってやった。
「ないよ」
「今の世の中そのままあんな世界だよ。お前らのやってることはまったくもって新しくないぞ。田舎のジジババの楽しみをちょっと目新しいツールを使って再生産してるだけなんだぞ。俺を監視するのはやめろ!」
「なに一人で盛り上がってんだよ」と安城は電話の向こうで笑いやがった。
「でもまあお前が振られたのを誰かが【速報】タグ付きでLINEに流したのは確かだな」
「いったい誰だ。塩野目か」
「塩野目さんは、自分でそれをやるほど目立ちたがりじゃないだろう」
「お前が塩野目の何を知ってるというんだ」
「いや、キャラぐらい知ってるって、クラスメイトなんだから」
「なーにがキャラだ。いいか安城、キャラって言葉は所詮上っ面の言い換えにすぎないんだ。キャラクターが活き活きとしてるような小説ほど内容空っぽなんだよ。俺に言わせりゃラノベの延長のたぐいは全部不気味の谷から出ることはないね。あずにゃんでも舐めてろばーか」
「余志屋。俺はけいおんを馬鹿にする奴は今まで一人の例外もなく殺してきたんだ。お前もそうしてやろうか」と安城はキャラを強面に切り替えた。パフォーマティヴな奴だ。
「やってみろばーか」
「よーし言ったな。いつがいい」
「今度の土曜駅前のゲーセンいろいろ半額だから」
「ああそうな。でもお前いつまでたっても太鼓の達人うまくならないから一緒に行っても楽しくねーよ」
「お前だってキルミーベイベーしかうまくないだろ」
「死ね」
「お前が死ね」
 電話を切ってリオレウス倒してまだむかっ腹が収まらないから一階に降りて、「晩飯あとでいいから」と落語のDVDを見てケラケラ笑っている母に言い残して家を出る。
 サイクリングサイクリング、楽しいサイクリングの時間だ。特別値は張らないけど綺麗に磨いた自転車に跨って、僕はいつものように産業道路沿いを飛ばしながら途中のカーブで脇道に入り、何処までも続く山沿いの道に入る。緑の尾根、木々の匂い、崖の下を流れる川に鴫(しぎ)が一羽足をさしている。清涼感溢れる景色は何処までも何処までも――ってわけじゃないんだろうけど、まだこの山の向こう側をこの目で見たわけじゃないから、僕にとっては大いなる未知だ。
 実際のところ、僕はサイクリングというよりこの綺麗な川が好きなのだ。下流はしっかり護岸工事されてるけど、中流から上は岩がむき出しになっていて、釣りやバーベキュー向きのアウトドアエリアになっている。今も向かいの岸で暑そうな格好した釣り人が糸をたぐっているけれど、気にはならない。べつに孤独が欲しくてきたわけじゃない。欲しいのは距離だ。携帯や塩野目から物理的に離れてぼんやりと岩場を歩く。それこそが今必要なことなのだ。
 崖のところどころに設置されている急勾配の階段を降りて川べりにたどり着く。苔むした岩をすべらないようにしっかり踏みしめながら流れに近づいていく。魚に興味はないけれど、釣りでも始めればもっと頻繁にここに来ることができるだろうか。
 ――何かに阻まれているわけでもないのに、年々この川べりにたどり着くのが困難になっている。思いついたことを最後までやり通す元気が、学年が上がるに連れて摩耗しているように思う。
「なんか、煩わしいよな、ほんと」
 それほど勝算があったわけでもないけど、我慢できなくなって告白してしまった。
 いちおう彼氏の有無を聞くなり小中学生の頃の他愛のない思い出を交えて話しかけるなりしてサインは出していたし、まんざら唐突というわけではないはずだが。昔の僕ならもっと周到に準備してタイミングはかって、例えば人数集めてイベントに繰り出したり警戒されない程度にメールのやり取りをしたり、というようなことを頑張っていたはずだ。
 そこまで頑張って彼女作って何がしたいの、というような、どうでもいい疑問が入ってくる余地はなかったはずだ。
「なにかしら楽しいことはあっただろうな……」
 元気もないし戦略的でもなくなってしまったけれど、今の僕には中学の頃にはなかったような分別がある。つまらない相手の欠点をほじくって喧嘩別れになってしまうようなことはもうあるまい。たぶん、そのはずだ。楽しくやれたはずなんだ。
「敗因はなんだ。スペックか?」
 運動部にでも入ればよかっただろうか。それともこの前髪切ったときに1000円床屋ではなく美容院に行くべきだったろうか。親の金でむやみにおしゃれするのがこっ恥ずかしいとか言ってる場合じゃなかったんだろうか。
 ――否。敗因が僕にあるわけがない。塩野目の目が曇っていて、性格がねじ曲がっているだけに過ぎない。ちょっと顔が可愛いからって調子に乗っているのだ。めんどくさいからそういうことにしておこう。
「ははは、気位が高い女の自尊心に貢献してやったぞ。人を振ってさぞかし気分がよかっただろう。今日はいいことをしたなぁ。まったくいいことをした」
 足元の小石を蹴ると、いい具合に岩の隙間を抜けていって、川の水面にポチャリと落ちた。
 その落ちた辺りの向かいの岸に、石を組んで網を張ってバーベキューの準備をしている少女がいた。
 少女も石の水音に振り向いたらしく、ちょうど僕と目が合った。
「あっ」
「げっ」
 塩野目だった。


      ○

 まさかこんな癒しの空間で、今世界でもっとも会いたくない人間に遭うとは思わなかった。不気味な女だ。なんで一人でバーベキューの準備なんかしてるんだろう。
「やあ、塩野目さん。人を振って肉を食って、ごきげんな一日じゃないか」川の向こうから声をかけると、
「第一声がそれ? 余志屋くんてほんと性格ねじ曲がってるよね……」塩野目は渋い表情で火打石を握る手を止めた。
 塩野目は白いシャツと半袖の緑のパーカーに、ショートデニムを合わせていた。サンダル生足。けっこうなことだ。ああけっこうなことだとも。
「一人でバーベキューするほど寂しいんなら僕と付き合えばよかったんだ」
「ってかなんでここにいるの? ストーカー?」
「振られたから癒されに来たんだよ。この川べりは僕にとって貴重な癒しの自然なんだ。塩野目さんには来ないでもらいたいね」
 なあなあにはしたくない。出会ってしまった以上、塩野目を追い払わなくてはならない。
 これから先、川に来るたびに塩野目が何処かにいるかもしれないと心配するようなことになってはならない。それはこの場所を、心の平穏を失ってしまうということだ。学校で顔を合わせる分にはいくらでも愛想よくしてやるが、ここではダメだ。人間には絶対に嘘をついてはならない場所というものがあるんだ。
「べつに川は余志屋くんの物じゃないでしょ。私だってたまに使ってるんだから」
「いつ? 時間帯は?」なんで今まで会わなかったのだろう。
「今みたいな平日の放課後だよ」
「あっそう。僕は休日によく来るんだ」なんだ、住み分けができるじゃないか。
「絶対に休日に来るなよ。僕も二度と平日には近寄らないから」
「そんなの約束できないし。する必要もないでしょ。私は好きなときにここに来るよ」
 ――これが振った側の余裕か。
「分かってもらえないかな。僕はこういうプライベートな空間で塩野目と会いたくないんだ」
「……余志屋くんさっき私に告ったんじゃないの?」
「さっき振られたからこだわってるんだよ」
「……いや、でも付き合うのはないよ。それはない」と塩野目は頑なに繰り返した。
 古風な火打石を器用に打ち鳴らして火種に火をつけている。新聞紙と炭、いくらかの雑木の切れ端。うちわの仰ぎ方からしても相当に慣れている様子だった。
「なんで一人でバーベキューしてんの?」
 誰かを待っているのなら、誰も来ないうちに火を起こしたりはしないだろう。塩野目は一人で肉を貪り食う気なのだ。確定した。
「それはけっこう立ち入った質問だから付き合ってもいない男の子に言う必要ないんで」
「あっそう」
 僕は川向こうから塩野目が火を起こす様子を見守り続けてやることにした。
「ねえ、さっさとどっか行ってよ。警察呼ぶよ?」
「呼べばいいよ」
「ほんとに呼ぶからね。あと明日先生にもストーカーされたって言うし」
「言えばいいよ」どうせLINEでなんでも駄々漏れの馬鹿女なんだから、騒ぎを気にしたってしょうがない。
「なにそれ」
「嫌がらせ」
「ほんと、子どもっぽい」
 塩野目はそう吐き捨てて僕をいないことにしたらしく、つつがなく火を煽って網を温めると、岩の陰に置いてあったらしいクーラーボックスからなにやら包みを取り出した。
 スーパーの袋から取り出されたのは、肉ではなかった。
 ――ウリ?
 いや、違う。ウリはあんなに長細くない。きゅうりにしては大きすぎる。大根よりもまだ大きい。
 あんな野菜は見たことがない。
「それなに?」
 と聞いても塩野目は無視してくる。
「教えてくれたら帰る」
「……」
 塩野目はまな板とでかい包丁を取り出して、クーラーボックスを台代わりにサクサク謎の野菜をぶつ切りにし始める。
 しょうがないから持ち歌を歌うことにした。サザンオールスターズヒットメドレー。歌詞はサビしかちゃんと覚えてない。
 三曲目のTUNAMIでとうとう耐え切れなくなった塩野目は「ほんとに警察呼ぶからね」と喚いたが、僕は構わずいとしのエリーまで歌いきった。
「次はB'zとミスチルどっちがいい?」
「……サボテンだよ」
 とうとう根負けした塩野目は、思いもかけない植物の名前を口にした。


      ○

 恋した少女はサボテンを食べていました。
「サボテン?」
 鉢から抜かれて、事前に棘も抜かれていたらしいサボテンらしき緑色の塊が、薄くスライスされて網の上に乗せられていく。上から塩をひとつまみ。タレはつけずに食べるようだ。
「うまいの?」
「美味しいの」と塩野目は頷く。
「食えるの?」
「食べられるよ」
「何処で買ったの?」「うるさいなあ」「ひととおり教えてくれたら満足して帰る」「もうさっきからなんなのその流れ。やめてよほんときもい」「怪奇サボテン女にきもいとか言われてもな」「……食べたこともないくせに」
 もちろん食べたことはない。食えるものとも思わなかった。
「ちゃんと棘抜いてるんだろうな」
「抜いてるから心配しなくていいし」
「あっそう」
 だんだん川向こうから声を張るのが辛くなってきたので(歌いすぎた)、僕は水がしみるのも気にせず、じゃぶじゃぶ膝まで濡らして塩野目側の岸に渡った。
「こっち来ないでよ」
「喉が痛くなってきたんだよ。お互い川の水音で聞こえにくいだろう」
「いやべつに会話したくないし」
「いいからなんで一人でサボテン食ってんのか話してよ」
「美味しいから」
 ……あっそう。そんなに会話が嫌ですかそうですか。
「私、いま包丁持ってるから近づくと危ないよ?」
「いっそ刺し殺せ」
 ――気になる。とても気になる。
 もし塩野目がサボテンを食う女だと事前に知っていたなら、もっと慎重に告白して仲良くなって謎を探っていただろうに。
「それは、あれかな。一種の自己啓発というか? キャラ付け?」
「はぁ? なにそれ」
「宗教的な儀式かもしれないよな」
「違います。だから、美味しいからって言ってるでしょ」
「……ほんとに美味しい?」
 塩野目はうちわでパタパタサボテンを焼きながらぶすっとしていたが、やがて
「じゃあ一切れだけあげるから、それ食べて帰って」と小声で言った。
 なんとなく達成感を覚えた僕は意地の悪いことをするのをやめて、サボテンを焼く塩野目を見守った。

 割り箸でサボテンの切れ端を持ち上げて紙皿に乗せた。
 表面は焼けて鮮やかな色になっているが、中の方はジュクジュクと水気が残っている。それが美味しいのだと塩野目は言う。
「この焼き加減はガスバーナーじゃどうしたって再現できないの」
「……では」
 口に入れて一噛みしてみると、アロエに似た爽やかな味が口の中に広がった。
「あ、うまい」
「でしょー」
 一転して満面の笑みを浮かべた塩野目に不意をつかれて、座っていた岩から落ちそうになった。
 可愛い……。
「サボテンは美味しいんだよ」
「うん……」
 黙々とサボテンを一切れ食べ終わり、僕はつい二つ目に箸を伸ばした。塩野目は「一切れだけって言ったのに」と静止したが、その拍子に網の上の一切れに箸が触れてしまったので、なあなあになった。
 歯ごたえのある果肉をむしむし食いながら、よくサボテンを食べるなんて思いついたなあ、さすが塩野目は賢い賢いと褒め殺していると、塩野目はひとしきり嫌がってからようやくサボテンを食べるに至った経緯を話してくれた。
 なんでも塩野目の父親はサボテンを育てるのが趣味の枯れた男らしいのだが、刺のあるサボテンに子どもが触っちゃ危ないからと、鍵のかかった書斎でしか育てていなかったそうだ。
 なかなか書斎に入れてもらえなかったのが不満だった塩野目さんちの春香ちゃんは、ナルニアとかあのへんの、家具を調べたらファンタジー世界に繋がっているようなフィクションの影響で書斎に入らなくてたまらなかったらしく、とうとう親のポケットから鍵を盗んで忍び込んだのだが、めぼしいものはサボテンしかなかった。
 きっとあれは魔法のサボテンか何かだろうと一縷の望みを繋いだ春香ちゃんは、丁寧に棘を抜いてから齧った。魔法は使えるようにならなかったけど美味しかった。ということらしい。
 聞いても今ひとつ乗り切れない話だった。観賞用のサボテンを食うものだとみなした発想の飛躍がよく分からない。
「そもそもあの時の私はサボテンが観賞用だってことが分からなかったの」と塩野目は言った。
「だってあんなトゲトゲ見てたってしょうがないじゃない。綺麗でもなんでもないし。だから、ピーマンみたいな食べ物だと思ったのよ」
 実際に食べて育ってしまった少女が目の前にいるのだから、僕が否定したところで仕方のない話ではある。
「今食ってんのもお父さんのサボテン?」
「これは自前で買ったの。高いからたまにしか買えないんだよ? なんで余志屋くんが食べてるの?」
 棘のような視線を受けて、僕は伸ばしかけていた箸を皿の上に置いた。
「べつにいいでしょ、私がサボテン食べたって。何か悪い?」
「悪いなんて言ってないだろ」
「言われた」
「言ってないって」
「……昔、言われたんだけど」
「昔?」
 そう言われてもさっぱり思い出せないが、塩野目は鮮明に覚えているようだった。
 小学校のとき同じクラスだったのは五年と六年のときだけで、ちょうど男子と女子がお互いを敬遠しあう頃合いだったし、塩野目と話しこんだ記憶なんてまったくないんだけど、どうやら僕らはサボテンの話をしたことがあったらしい。
「給食時間に暇だから「覚えてしりとり」しようって話になって、食べ物縛りでやってたの」
「そんなガキっぽいことしてたっけ?」
「してたの。それで私に「サ」で回ってきたからね。……勇気を出してサボテンって言ってみたのに」
 当時の僕を含めた五年二組三班は爆笑して、サボテンは食べ物じゃねーし「ん」付いてるだろボケボケだなーと盛り上がったのだそうだ。
「すんごい馬鹿にされた」
「まあそりゃ、したんだろうね。うん」覚えてないけど、きっとそんなリアクションをしただろう。他にどうしろっちゅーねん。
「それで私なんか傷ついちゃって、こうして一人隠れてサボテンを食べるようになったんだよ」
 塩野目は遠い目をしながら口をもぐもぐ動かしている。

 僕はなんだかちょっと晴れがましい気持ちになった。
 塩野目はちゃんと秘密を持てる人間なのだ。『人目に晒されてしまえば台無しになってしまうものの味』を知っているのだ。たった一人に向けた告白をわざわざ拡散しやがるような人間ではない。LINEに流しやがったのは、きっとたまたま通りかかった同じ高校の生徒かなんかだろう。
「今度は僕がサボテンを買ってくるよ」
「え、なんでそうなんの」
「一緒に食べような」
「だから付き合うの嫌だって言ってるでしょ」
「付き合わないって。一緒にサボテン食べるだけだって」
「え? うーん」
 ちょっとだけ悩んだ塩野目のリアクションに手応えを感じながら、またついつまんでしまったサボテンの歯ごたえが心地よかった。


 この時まだ僕は知らなかったのだ。妹が盛大にまき散らした舌禍のことも、安城が実は塩野目をストーキングしていたことも。仲良くサボテンを食べている今の姿を遠くから双眼鏡で覗かれていることも。嫉妬に狂ってサボテンを投げつけてくることも……。
 
「ほんとにサボテン食べるだけだからね、絶対」
「はいはい」

 いざ人と真面目に付き合おうとすると、抜かなければならない棘は、思った以上に大量らしい。




三題噺「水・サボテン・希薄な記憶/ジャンル指定ラブコメ」了
 
 
 
 






「あのねー、美浜さんがねー、黒くんがじろじろ見てくるのきもいって言ってたよ」
 飲み会の端っこの席でほんとうにほんっとうに楽しげにニヤつきながら、仁科は言った。
 一向に悪びれないぬらぬら動く唇と、飲めもしないのに強い日本酒を頼んで真っ赤になった顔に形容しがたい距離を感じた。
 仁科がどういう奴かというと、「よし、今から酔っぱらおう」と決意して酔っ払うような奴である。まだ酔っ払っていない段階から演技が入り、演技が抜けると酒が入る。そして酒が抜けると魂も一緒に抜けてテンションが下がり、機嫌悪そうにしながら帰っていく。
 ある意味飲みサーの正しい消費の仕方かもしれない。酒乱サークル「にょらい」は、もともと神社仏閣を巡ってお賽銭を払うようなサークルだったらしいのだが、長い歴史のうちに旅行するのも面倒になってもはや飲んでるだけという末法らしい。俺自身はっきりサークルに参加しているわけではない。益荒男という語学のクラスメイトに誘われるまま、都合がつくと飲んでいる。何故かというと前述の美浜さんという一年上の先輩がやたら綺麗だからだ。
「あーショックうけてるー」
 と仁科はケタケタ笑う。
 揺れている。
 仁科の救いようがあるところは大きい胸だ。
「嘘つけよ」
 と精一杯機嫌よく言い返す。
「嘘じゃないよ本人から聞いたしぃ」
「いやいやそんなこと思われてないから」
 俺もたいがい演技性の男なので、やめろよこいつぅとばかりに仁科の肩を軽く押すことができる。
「じゃあ本人呼ぶぅ?」
「えぇ、いいよやめとけってぇ」
 語尾で調子を合わせるうちに斜向かいのテーブル席にいる美浜さんと目が合う。思わず逸らしてしまうが根暗と思われるのもなんなので手でも振ってみる。
 美浜さんは愛嬌のある人なので困った感じで小さく振り返してくれる。「これでいいの?」という感じで。
 いいんですそれで。
「黒くんそんなとこで手ぇ振ってないで話に行きなよぉ」
「きっかけがなくて」
「だから私が作ってあげてんじゃん」と仁科が急に声を落とす。
「黒くん美浜さんのことチラチラ見ててきもいんですよー、ぐらいのつかみしてあげるから脈ありか脈なしか見極めてみなよ」
 いきなりのノリの変化に戸惑うが、二ヶ月だけ続いた居酒屋バイトで酔っぱらいに豹変された経験がなくもなかったので、ついていくことができた。
「なんで酒の席でそんな戦略的なことを……」
「あのねー黒くん、飲み会は戦場なんだよ。やる気のない奴は来ちゃいけないんだよ」
「仁科はやる気あんの?」
「あるよー。あるから美浜さんはさっさと型にハメないといけないの。綺麗な顔していつまでもフリーでいられるとこっちが困るんです。活動範囲がかぶっているからね」
「型にハメる……。なるほどなぁ」
 思わず感心してしまった。
「べつに黒くんが振られてもいっこうにオッケーだからさ、さっさと告るなりしてよ。んで振られても懲りずに飲み会来てニヤニヤしてようよ。すると美浜さんは黒くんのことをマジでめんどくさいなこいつと思って飲み会から遠ざかるはずだよ」
「……そんなきもい奴になってたまるか」
「美浜さーん、こっちこっち」
 仁科は容赦なく美浜さんを呼びつける。
 美浜さんは愛嬌のある人なので、しょうがないなぁという感じでこっちに来る。
「あっちで何の話してたんですか?」
 仁科が口を開きかけた瞬間に、俺は機先を制してそう訊いた。
「まじめな話だよー。あの太っちょの真宏くんっていう子も教育学部でね。単位がやばいっていうから試験のこととかつらつらと」
「迂遠だな真宏」と仁科が舌打ちをする。
 美浜さんは愛嬌のある人なので、「こらこら先輩だよ」と仁科をやんわり咎める。
「それで黒くんがきもいんですよ」仁科は強引に自分の話題をくりだした。
「えーきもいの?」と美浜さんもちょっと調子を合わせていくが、口調はまさに名人芸だ。非難とおかしみと、もう一つ何か色香なものが混ざった絶妙なチャーミング。
 思わずきもいですと同意してしまいそうになったが、それだとノリが続かなくなるから「きもくないっすよぉ」と言うしかなかった。
「なんできもいの?」
「美浜さんのことチラチラ見てるからですよ」
「見てませんよぉ」とチラチラ見ながら言うと、「見てんじゃん」と仁科が肩を叩いてくる。一座が笑いに包まれたところで、(今のボケって仁科が突っ込まなかったらただきもいだけだよな)と気づいて背筋が寒くなる。脇が甘い。酔っぱらいの不安定なツッコミに頼るような危ういボケは控えなければならない。
「いやだって美浜さん綺麗だし」
 と取り繕うようにして言うと、美浜さんは「そぉ? ありがと」とはにかんだ。ありがと、をちょっと小声で言うところがミソだ。ツボを心得ていらっしゃる。
 あれ、沈黙が降ってきた。
「俺心臓ちっちゃいから綺麗な人見ると緊張しちゃうんでー」
 会話が途切れるのは何よりきついので、口から出るに任せて喋り続ける。仁科とか他の連中なにしてんだよと横目で左右を確認すると、仁科は腕を組んで観戦モードらしく、逆隣の益荒男は、そのまた隣の福原某とそのツレを相手にゾンビーゲームをやっている(ぞーんびぞんびぞんびいちぞんび!にぞんびさんぞんびよんっ……あー益荒男くん言えなかったぁはいおちょこ♪)。仁科の向かいの男二人は挨拶したきりまったく話さずに携帯を見ている。飲みサーだろうとこういうのはいるのか。いや、ただ神社仏閣が好きなだけなのかもしれない。
「そんなに褒め殺されたら困っちゃうよ」と美浜さん。
「いやほんとに」と言葉を探しつつ、もう知ってるけど「彼氏いないんですか」と聞いてみたりなんやらかんやらしているうちに我慢できなくなったのか、
「いやでもあんたさぁ」と仁科がうざがらみをしてくる。「サークル来だしてから二ヶ月ぐらい経つけど全然声かけてないよね」
 それは事実なので否定のしようもなかった。
「挨拶ぐらいはしてるよ」
「そういう中途半端なのが傍から見てると気持ち悪いって言ってんの」
「あのなぁ」
 仁科を強く咎めかけたが、美浜さんがだいぶ困っているので、ケンカするわけにもいかなかった。
 ぞーんびぞんびぞんび。はいはいはい。
 テンション上げて乗り切るのもわざとらしいように思えて、かなり嫌だけど、ほんと苦手なんだけど、ある程度さらけることにした。とっさの話題って結局、日頃思ってることしか出てこない。
「仁科は粋って概念を知らないのか」
「いき?」
「例えばほら、綺麗なひなげしの花があるとするだろ」
 美浜さんをそっと指差しつつ。
「見るだけですませるんだよ。手折ったりしたら台無しになる。それが粋」
 仁科は本格的に意味が分からなかったのか、大きく首をひねってそのまま倒れこんだ。
「黒くん少女漫画とか読む人?」そしてよく分からない文脈で推理を繰り広げているらしい。
 次はへたれだのなんだのうるさく言われるんだろうか。あぁめんどくさい。女だって目に入るイケメンみんなとやりたいわけじゃあるまいに。
「益荒男くん益荒男くん」
 仁科は不意にむっくり起き上がる。
「ぞんびぞんび、なんだ呼んだか?」
 益荒男はいつものように豪快に飲みまくっている。酔いが深まると全身が赤銅色になって、隆々とした体がさらに膨らむ。
「女の子って例えると何?」
「誰を例えるって?」
 俺越しに酔っぱらいの会話が飛ぶ。
「女の子一般。一般名詞」
「そりゃあ笛だな」と益荒男は即座に答えた。
「笛? なんで?」
「なんでってそりゃ、俺の指でなくからさ」
 益荒男はむやみに俺の首をしめつつそう言った。
「加藤鷹かお前は」
 ちゃんと突っ込んでやるとテーブルの端から端まで爆笑が起こった。酔っぱらいの沸点は低い。
 ちらっと確認すると美浜さんも笑っていた。

 仁科はその辺りからグダグダになって、いつものように黙りこんでは突然爆発したり、慌ててトイレに駆け込んだりと忙しそうにしていた。
 美浜さんとは結局おもしろい会話はできなかった。ちょっとアガってしまうと何言っても滑るのが俺なんだ。
 誰ともおもしろい話なんてしてこなかった。そんな気すらしてきた。
 ところが、駅前のロータリーに集団で向かう途中で、美浜さんが声をかけてきた。
「ね、私の勘違いだったら申し訳ないんだけどさ」
「どんな勘違いを?」
「黒川くん、仁科さんとやった?」
 思わず仁科の姿を探すと、列の最後尾の辺りで同学年の女子に何やら頭をなでられていた。
「……あいつ言いふらしてるんですか?」
「違うよ。私の憶測。なんか前より距離感近いなって思って」
 足を止めると、ほんとに憶測だよと美浜さんは念を押した。
「いや、べつに俺はいいんですけどね。言いふらされても」
 また歩き出す。
「あいつが嫌そうにしてたから、黙ってようと思って」
「嫌そうにって、恥ずかしがってたってこと?」
「そうじゃなくて、後悔してたってことです」
 まあ笑い話なんですけどねと前置きして、小声で顛末を話した。
「二週間ぐらいまえの飲み会でしたっけ。なんか仁科の中で童貞って単語がやたら流行ってたらしくて、いつもの調子でうざがらみされたんで、32歳のキャバ嬢に筆おろしされたんだって話をしたんですよ」
「え、それほんと?」
「いやほんとに。三ヶ月だけ続いたバーテンダーのバイトやってる時に、カウンター越しに仲良くなって、冗談みたいなノリでそのまま」
 あんまり嘘だ童貞だと仁科がうるさいから、じゃあ一回やってみようかと逆切れしたら断られずにそのまま。
「朝にものすっごいけだるい後悔を全身で体現されましたけどね」
「……今日、気まずくなかったの?」
「お互いに来るとは思わなかったんじゃないですか。試しに話してみたらいつものノリだったんで、なかったことにしたいんだろうと。次はもう来ませんけどね。美浜さんも今日で見納めかと思って、いつもより多くチラチラしてました」
「ねえ、……仁科さんそれで怒ってたんじゃないの?」
 ――そうなのかもしれない。
 でも俺は、ホテルのベッドで、いったん化粧まで済ませたのにグズグズになって泣いてた仁科に先に切れてしまったのだ。
 今さらそんなふうには考えたくない。
「そうですかね」
 その辺りでロータリーに着いた。

 仁科は解散してからもベンチに座り込んでいた。同級生の女の子が何人か付き添っていたが、まあいつものことなので、時間が経つにつれて一人ひとり消えていった。
 俺は飲み会が終わった後にいつもやる、手段を間違えてしまったような、そもそも目的が間違っているようなよく分からない後悔をしながら益荒男としばらくだべっていたが、間が持たなくなったし、仁科がいつまで経っても帰らないので、仕方がないから声を掛けた。
「帰って寝ろよ」
「何って?」
 仁科は濁った声を出したが、咳払いをしてまなこをくりっと俺に向けた。
「家に帰って寝ろって言ったの。今日もグダグダだな」
「グダグダだよ」
「神社でも行って心を洗ってこいよ」
「……さっき何話してたの?」
「仁科のこと」
「なんで?」
「バレてたから」
「……最悪」
 仁科はしばらく頭を抱えていたが、やがて左手をすっと差し出した。
 握れ、ということだろうか。しかし握ってみると振りほどかれた。
「そうじゃなくて、手のひら」
「……手のひらがどうしたんだよ」
「傷があるでしょ」
 そう言われて目を凝らしてみると、手のひらの真ん中に、縦に入った細い筋があった。
「小学生のときにね、手のひらに運命線がないのがものすごく嫌で、カッターで無理やり線引いたの」
「……」コメントに困る。
「今ね、そんな気分だよ」
「すると……俺は傷か?」
「そう、たぶん。運命の方じゃなくて」
 仁科の着ている白いブラウスに、一筋。吐瀉物らしい汚れが、大きな胸の稜線にそって垂れていた。
「もっかいやるぞ、下手くそ野郎」
「酔っぱらいが……」
 

 後で、仁科はスイカの花だと胸をさわりながら言ったら、噛み付かれた。
 
 
三題噺「花・笛・意図的な運命」ジャンル指定「悲恋」了