先日父が亡くなりました。


どうも眠れなさそうなので父との思い出など残そうかなと思います

思い出もいつか記憶の片隅に忘れてしまいそうで

いつかこんなに泣き腫らした日々も思い出になるように。




父のガンが見つかったのは去年の夏でした。



そこから化学療法と放射線療法と度重なる手術と。


手術のせいで声は失われて最後は筆談での会話でした。


父の最後の肉声は
「〇〇(私の下の名前)さんよろしくね」


父の優しい声、今でも聞こえてきます。


最初ステージIからIIだと言われていたガンはどんどん広がっていきました。



会うたび

「なんでこんな病気にかかってしまったんだろう」
って言ってたね。


歳だとはいえ、やっぱり平均寿命より早い死は受け入れられなかったんだろうね


体調がますます悪くなったと知らせがあり
私も一時帰国していました。


ちょうどその時私の妊娠がわかりました。


産婦人科からの帰りの足でそのままお父さんのところに報告へ行きました。手にはエコー写真を持って。


すらと筆談ボードに大きな字で
見たいな
と書き、入院中一番の笑顔で喜んでくれました。


あぁこの子は本当に希望の星なんだなぁ
絶対に元気に産んでやるって決心した瞬間でした。
自分のお腹の子にとても感謝しています。
我が家にこんなに素敵な希望をもたらしてくれてありがとう。




その後約一カ月が経ち父のガンはありとあらゆる臓器に広がっていました。
なんとか持ちこたえていましたが、この頃より会話があやふやになってきました。

それでも「まだ死にたくない」と言い続けていました筆談で。


意識がしっかりしている間に、延命処置についての話し合いもしたそうですが
本人の強い希望で全ての延命処置をする方向になったそうです。


私はしばらくしてそれを知って
母ともケンカしました。
そんなに無理矢理生かせてどうするの?って

本人の希望とは分かっていてもやはり辛かったです。


亡くなる5日前病院から連絡がありました。
先生にはすぐに帰るのが難しいかもしれないから病態に変化があれば早めに教えてほしいと伝えていました。先生の判断と約束を守って頂いたこと感謝です。


翌日日本に帰ってきました。
母親にはこんなに早く帰ってこなくていいのにと言われましたが。

父は眠っている時間の方が多くなっていました。
それでも私が行くと筆談でお話してくれました。

「天気、何週目?」
と書かれており
「お腹の子のこと?」と聞くと頷いたので
「10週目だよ」

と答えると頷きながらまた眠りに落ちていきました。
そして意識がある程度ある中ではこれが父と最後の会話になりました。



病院の看護師さん会う人会う人に
「痛い、苦しいと言わない人だからね。痛いという時は本当に苦しい時だけ」
と声をかけられました。

私は小さい時から父が病気をしたところを見たことがありません。
しんどい、苦しい、辛いといったのも聞いたことがありません。


自分の父ながら本当に立派だったと思います。

私はすぐにしんどいと助けを求めてしまうタイプなので。。。


最後は苦しそうでしたが、それでも暴れたりすることもなく
なんというか穏やかな死でした。
でも本当は痛み、苦しさに耐えてたはず。
家族に見せたくなかったんだね。無理させてごめんね。


臨終の際私は側にいれませんでした。

なんとなく朝方かなという気がしていたので目覚ましを5:30にセットしており
目覚ましの音で起きてから実家の布団の上でぼーっと座ってました。
ちょうどその時耳元で父の声が聞こえた気がします。
「無理すんなよ」と。
後からその時間に亡くなったと知りました。


父の死がこんなに悲しいものだとは知りませんでした。
小さい頃からの27年間の思い出がフラッシュバックのように思い出します。


立派なお父さんでした。ありがとう。
ありがとうが足りないです。


お父さんの成仏の為にも
お腹の子を元気に産んであげたいと思います。