あけましておめでとうございます。
私のブログ、2024年も始まりました。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
もうじき35歳になる。
30代になってからもう5年も経つらしい。
脳のどこかにまだ24歳くらいの私がいて、時々「なんかこんなんだったかなぁ」と首をかしげる。
ずっと、ファンデーションを塗ると肌が息苦しいような気がしていた。
「メイク崩れ」ってなんのことか分からなかった。
小鼻の赤みや乾燥に悩むことはあってもさほど深刻ではなかった。
目元のケアを予防的にやったりもしたけれど、効果を感じるよりも摩擦が気になってやめた。
ところが33歳くらいで、頬にシミを発見した。
そのうちTゾーンの皮脂の分泌が変わってきて、テカるようになってきた。
気付けば頬に毛穴のたるみがあって、34歳でファンデーションを乗せた方がきれいな肌になると分かった。かつて感じた息苦しさなどなかった。
ある朝メイクをしながら「やたらと顔が大きい」と思った。
人差し指でエラの後ろの皮膚を「くっ」と耳たぶの付け根に引き上げたら、フェイスラインがすっきりして「これがフェイスラインのもたつきってやつか…」と理解した。
なんとなく下り坂を感じる年齢になってきたのだ。
誰しもが通る道である。何度も耳にしてきた“お悩み”。
とうとうそれが私のものになった。
ただそれだけのこと。
なのに、なぜこんなに急に訪れたような気分になるのか。なぜ、どこか他人事だったのだろうか。
令和6年能登半島地震。
私の生まれ育ったところ。
昨年5月のゴールデンウイークに帰省した際にも、最大震度6強の地震があった。
実家では震度4だったが、古い家屋の建具はガタガタを激しい音を立てて、子どもたちは不安に怯えた。グラスが2つ、落ちて割れた。
今はグラス2つどころではなくなった。
津波や火災の影響を受けた場所はまるで戦後のようだ。
地元は未だに停電し、断水し、道路は寸断されている。普段2時間かかる道のりが、渋滞もあって7時間かかったと聞いた。
一人暮らしをしていた要支援状態の祖母は避難所生活だ。
現地の声が知りたいと情報を探すと、仮設住宅の目途も立たないどころか物資の不足が叫ばれている。
能登はここ数年、小規模な地震が頻発していた。
地元の自治体はどんな風に備えてきただろうか。
両親は言う。
「私たちは何とかなってる。田舎で畑があったから、食べ物もあるし、もしもの時のために石油ストーブもあった。
旧式のトイレや地下水が汲める家だって残っている。
文化的で快適な生活を送ってる都会の人の方が、きっと辛いよ」
“都会の人”とは私のことだ。
私はゴールデンウイークで経験した震度4をどこまで深刻に捉えただろうか。危険を回避するための行動は十分だっただろうか。
それからこれまでの34年間で、幾度となく地震や大雨などの自然災害で苦しむ人を目にしてきたはずだ。
3.11では被害の一部を体験し、危機に怯えたり誰かを励ましたりもしたはず。
あらゆる場面で、辛い思いを経験した方が発信を続けている。
そうした事実を、私は自分事として咀嚼し、どれだけの行動に繋げただろうか。
大人になって、世の中の情報との接点が増えて、責任が増えて…
水が染み込むようにして少しずつ行動を変えるに至ったが、それでは足りないと突き付けられた。
生きる上で起こると言われる全ての危機を回避することはできなくても、
「どんな風に生きたいか」「どうしたいか」
考えることはできる。
“それ”はある日突然やってくるのではない。
じわじわと予兆があって、逃さず自分事にできた人は行動している。
「人生100年時代かぁ」
なんて思っていたけれど、本当に100年生きるつもりならまずその身を守らなくてはならない。
今ある平穏は永久のものではない。
子育ても、仕事も、老後も、あらゆる自己表現も、生きてこそ叶う未来なのだから。
後悔しない生き方を選ぶこと。
それもまた私にとっての美意識。
今月は防災対策を見直して、家族と心をひとつにします。