純粋理性批判 18(時間概念の超越論的解明 1) | カント哲学&日々の断想

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本ブログでは『純粋理性批判』をシリーズで解説しています。また同時に日々の断想を加えています。

「超越論的」というのは、ア・プリオリな綜合的認識の可能性を支える原理として当該の概念を考察することです。ここでは時間がいかにして認識(特に「変化」と「運動」の認識)の正当性を支えるのかという視点が導入されます。

時間はそれ自身で存立する何かでもなく、また、客観的規定として物に結合していて、それゆえに、物の直観の主観的条件をすべて捨て去っても残るような何かでもない。

時間はそれ自身で実体的に存在しているものではありません。また、認識主体の側から対象を直観していなくても、その対象自身に結合しえて存立しているようなものでもありません。

 

時間は、認識主体からまったく独立して存在するような物の客観的な規定ではない。もしそうだとすると、私たちはそのような客観側にある規定を、経験によって認識しなくてはならなくなります。そうなると客観のこの時間的規定をア・プリオリに認識することができなくなります。

 

カントはこのように主張しているわけですが、ここには物の時間的規定はア・プリオリでなければならない、という大前提があります。彼は、時間的認識を支えるものは、そのア・プリオリ性を支えなくてはならない、と確信しているのです。

 

では、そんなア・プリオリ性なんかは放棄してしまえばいいじゃないか、という議論が可能でしょう。でも、そうなると、正しい認識は不可能だという議論(不可知論)に陥ってしまいます。

 

この解明は時間概念の解明とほぼ同じ構造になっています。空間も時間も実在する何かではなく、物を正しく認識するためのア・プリオリな形式的条件にすぎないという主張がその核心にあります。

 

余談:ドイツ語で nicht A oder B という表現の邦訳を、「AもしくはBではない」とする訳者がいますが、これは正確ではありません。not A or Bという英語と同様で、「AでもなければBでもない」というのが正しい邦訳です。