純粋理性批判 16(現象と物自体) | カント哲学&日々の断想

カント哲学&日々の断想

本ブログでは『純粋理性批判』をシリーズで解説しています。また同時に日々の断想を加えています。

空間の超越論的観念性(同時に経験的実在性)が確認されると、ここでカント認識論の基本構造である「現象と物自体」の区別がエクスプリシットに主張されます。

 

ビギナーの方は、とりあえず、私たちが知りうるのは物自体(ものそのもの)ではなく、その現象(現れ)だけだと理解しておいて下さい。もちろんそこですぐに「では、その物自体はどういうものなのか」という自然な疑問がふつふつと湧いてくるでしょう。

 

それでかまいません。当面はその疑問を大切にしておいて下さい。カント自身も、読者がそういう疑問を抱くのを当然視しています。そこで彼が目指すのは、さまざまな視点および問題の考察を通して、この疑問を少しずつ解消してやるぞ!ということなのです。この目的は、『純粋理性批判』内部だけでなく、『人倫の形而上学の基礎づけ』、『実践理性批判』、『判断力批判』に至るまで強力に意識されてゆきます。

 

物の空間的規定は客観的に成立します。味や色や温かさ・冷たさなどの、有機体の特質に依存した感覚(主観の変化)は、ここでは対象の規定から度外視されます。だから、カントは「感覚は直観ではない」と断言しています(B44)。

 

対象が一定の形態(shapes)と他の対象との関係(relations)において表象されるならば、それは純粋に空間的規定であり、カントはこれを「直観(insuition)」と読んでいます。

 

そして唯一の全体的表象である空間の所在が主観にのみ所属しているのですから、常にその部分である諸客体の空間的規定は、表象におけるものということになります。したがって、それは物自体の規定ではなく、現象における規定にすぎない。

 

したがって、次のように断言されます。

私たちが外的対象と名づけているものは、私たちの感性の単なる表象以外の何ものでもなく、この感性の形式は空間であり、しかしながら、感性の本当の相関物、すなわち物自体は感性の表象をつうじてはまったく認識されず、また認識されえない。しかもまた経験においてはそれはけっして問題とはならない。(A30/B45)

この最後の部分に注目して下さい。カントは物自体が何であるかは経験においては問題とならない、と述べています。とりあえず、上記の疑問はストップさせてもらいたいということでしょうが、私たちにはそう思えません。現象の背後に現象ではない物そのものがあると言われてしまっては、とにかく消化不良になります。上に書いたように、カントは読者の消化不良を絶対意識しています。

 

この消化不良を大切にしながら、カントの文章を読んでゆくのが、正しいカントを読むという正当な手続きなのです。