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本日の一転語
【仏法真理の光】
謙虚に心の窓を開くことなくば、
仏法真理の光は、射してくることはない。
射してこないことは、光の罪ではない。
戸を閉ざしている己自身の迷いが、その罪なのである。
『永遠の仏陀』 P34より
『幸福の科学の十大原理(上巻)』 P120
イエスが「段階的な愛の教え」を説けなかった背景
当時、わたくしがイエスにの主として伝えていたことは「愛の段階」です。
仏教には「悟りの段階」があることは、みなさんもご存じのとおりです。
しかし、愛にもやはり段階があることは、みなさんもご存じのとおりです。
しかし、愛にもやはり段階があるのです。
現在のクリスチャンたちは、愛に段階があることをあまり知らないようですが、
「愛にも段階があることを、クリスチャンたちに十分に遺せなかった」という事実が、
キリスト教と仏教を現在のように二つに分かってしまった理由なのです。
私は当時、イマヌエル(イエス)に、「愛に段階あり。
その段階を踏んで人間は進化していかなくてはならない。悟っていかなくてはならない」
ということをずいぶん話したわけですが、残念ながら、当時イエスと取り巻いた群衆は、
この愛の段階を受け入れるまでには魂が成熟していなかったのであります。
十二弟子にして然りでした。イエスの身近にいた彼らであっての、
「愛には悟りに向けての段階がある」ということを知らないでいたのであります。
その理由は、当時、彼らの大部分が貧しい漁師であったり、
本格的には真理を学んでいなかったことにありました。
すなわち、キリスト教の中心に、私たちが今説いている「知」というものが
なかったがために、「教えに段階がある」ということを説くことができなかったわけです。
本来、イエスはその手順を踏んで彼らを導いていくことになっていたのです。
しかしながら、その前に、予想外の、あるいは予想はされていたと言えるかもしれませんが、必要以上と思われる大きな困難が、彼の前に立ちはだかったわけです。
その困難とは何か。いわゆる「法敵」であります。イエスの教えを捉えて、
「これは偽預言者なり、異説、邪説を説く者なり」と名指す人たちが出てきたわけです。
この中心をなしたのが、「律法学者」と言われている人々です、
律法学者とは、今から三千五百五十数年前にモーセが「出エジプト」をなし、
シナイ山にて「十戒」を授かりましたが、その教えをもとに説いていた者たちです。
それを金科玉条のごとく奉じている人たちは、すでにその難解な解釈論や訓詁学に陥り、
「モーゼは、あのとき、ああ言った、こう言った」などという解釈論に甘んじていました。
三千年以上の昔のことを、明らかにして、分かりやすく説いてくださいました!!
この肉声は、エル・カンターレの肉声を、私たちは聴いているんですよね!!
今が奇跡の時代といわれる、その現象のなかに、私たちはいます!!