カール・ヒルティ、『幸福論③』・「孫たちに幸いあれ」二九六頁以下: | 真田清秋のブログ

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 『まず第一に、人はこの霊を自分で獲得する事はできないという事である。また、この霊は生まれつきの才能ではなく、あるいは人間的な伝承によって到りうるものでもない。それは外からやって来る事実で🌟あって、それ自体としては解き明かし難いものである。しかし、この霊が与えられる時、それはキリスト教の最上の、かつ唯一の完全な証である。この霊を持つ者は、もはや一瞬たりともキリスト教の真理性を疑う事はない。

 

 🌟 イザヤ書四八の七・八、四九の二四・二五。ロンブローン[一八三七〜一九〇五年、イタリア精神病学者]が天才を一種の狂気だと言った主張の真実も、この点にある。唯物主義者に制限されて人生観から見れば、実際、天才は正常な人間の精神に備わるものではない。しかし、地上のあらゆる美しいもの、偉大なものを創り出した、このような「狂気」がもしこの世に無かったとしたら、人間生活や文明は果たしてどうなるであろうか。

 

 人はこの霊が訪れるのを待っていなければならない。この事は、千八百年前と全く同じである🌟。人間の心の状態が、それを迎えるまでに成熟し、それを願う気持ちが切実であれば、おそらく直ちにその霊は訪れるであろう。しかし、いずれにせよ純粋に神の賜物である。あらゆる人が、学問のある無しに関わらず、老人でも若者でも、男でも女でも、皆この霊を受ける事ができる。この霊は人間の間に少しも外的な差別を設けない。

 🌟 使徒行伝一の八、二の二、八の一七・二九、一〇の四四、一三の二、一八の五・九、ヨハネによる福音書一六の一三・一四。

 

 しか、この霊は人間をよく知っていて、欺かれる事がない。単に奇蹟を行ったり、華々しいことをしたい為にこの霊を得たいと願う者をも、それはよく知っていて、そのような人のもとには訪れない。また、このような霊を受けるにはまだ弱すぎて、ふたたび背きそうな者にも、与えられない。なぜなら、この霊をさらにもう一度授けられる事は難しいからである🌟。

 🌟 昔の異教徒たちが、この事を恐れるあまり、しばしば臨終の床で初めて洗礼を受けたが、まことに最もである。ただし、その為に彼らは、実際に生活をしたよりも、もっと幸福な、もっとすぐれた生活ができだはずなのに、それを失ったのである。

 

 最後にこの霊は、永世に対する唯一の、全く確実な保証でもある🌟。

 🌟 ガラテヤ人への手紙六の八。

 

 なおこの霊を受ける為に、我々の側から見て必要なものは、次の通りである。

 およそ神とその霊が存在し、神はこの霊を通して地上の我々の元に宿る事ができる、という確固たる信仰がなければならない🌟。この信仰がなければ、その霊を待っても無駄である。初めからそういう信仰を持つ事はできない、と多くの人が言うであろう。それはある程度真実である。聖霊によらなければ、誰も本当に信ずる事はできないからだ。それでも、貴方は信じようと欲し、それを願い、その為に他の一切犠牲にする覚悟をしなければならない。貴方がそうしたいと思うなら、今もなお貴方の信仰を妨げている邪物を取り除くがよい。それは、人には分からなくても、貴方自身が十分はっきり知っているであろう🌟🌟。

 🌟レビ記二六の一一・一二、 民数記一二の八、十四の九、申命記四の七、列王記上六の一三、一七の一八、エレミヤ書七の三、箴言八の三一を参照せよ。

 🌟🌟 ダンテは「神曲」の第一歌で、人間が様々の情熱に駆られて突っ走った後、やがて突然立ち止まり、ゆっくり反対の方向に歩き出すありさまを、この上なく見事に描いている。転向について「ローア人への手紙」が述べている全ての事よりも、このダンテの言葉の方が、少なくとも教養ある人々にとっては、はるかに転向への説得力や誘いの力を持っている。概して、ダンテは教養ある人々にとってはしばしば救いの端緒となる。

 

 なおまた、神の霊を受けるために必要なものは、謙遜である。人はあるがままの自分自身をはっきりと見て、もはや自分の力には頼らず、進んで他からの力を受け容れる心構えをしなければならない🌟。

 🌟 ヤコブの手紙四の一〇、ローマ人への手紙八の二・七・一四〜一六。「主は自らのために減り下りを求められず、人の為に、すなわち、人が神の霊を受け容れる事のできる為に、それを求め給う。

 

 次に、人は神の力をいたずらに受けるのではない。たた瞑想するために、静かな聖者として穏やかな隠遁生活を送るために、それを受けるのではなく、働く為に受けるのである🌟。ところが、多くの人たち、いや、最もすぐてた人たちでさえ、実はまだそれを欲しない。彼らは自分自身の仕事、また他人に関わる仕事をこれまで自分の力で果たしてきて、当然のことながら、それにうみ疲れている。そういう仕事は死ぬほど人を疲れさすものだ。しかし、神の力による仕事はそうではない。それは人を活気づけ、また力を強める。だから、貴方は仕事をするのを恐れてはいけない。しかし、ただ自分の力で生きる事を恐れなければならない。

 🌟 詩篇一〇七の二八ー三二。

 

 人は神の霊に進んで従う心構えでなければならない。この霊は人間について多くのことを忍容するけれども、しか叛逆や、意識的な、あるいは故意の不従順や、卑怯や、またその力を持ちながら(だからこそ聖霊はそれを要求す)それを欲しないなどという事は、許されない。この霊の

指揮下に入る場合は、敵あるいは味方の状況を顧みる事なく、軍隊式の即座の服従が必要である🌟。聖霊が命令をくだすとき、それを妨げる「事情」などは関知しない。ことの成功する可能性がまだ不明な場合でも、その命令に従うだけの勇気と決意とを十分持っていなければならない。

 🌟 このように、気をつけよとの促しを心に聞いたならば、その都度これに従わ側ねばならぬ。日常生活からの喩えを用いれば、電話のベルに耳を澄ますのと同じである。他の一切のことを措いて、直ちにそれを聞かねばならぬ。サムエル記下三の九・一〇。さもないと、そうした促しは長い間ふたたび訪れない事が多いからだ。

 

 神の霊に従えば、いったい何が与えられるであろうか、まず、精神の健全はもとより、しばしば(常に、とは限らないが)身体の健康の増進さえ得られる。しかし、いずれにしても次の三つのものは与えられる。第一に、何とも言いようのない生の喜び、つまり、人間や物事に対する恐怖からの解放(普通ではこれは誰にも得られない🌟)や、地上の幸福の大部分を成している憂なき境地である。第二に、興奮を伴わない、一種の火のような熱情と生気であり、これもまた他の道では得られないものだ。第三は、人に対する力である。世の中で特別の地位に立たずとも個人として権威を有する者が、いつの時代にもいたように、現代でもやはりいる。そういう人からは、何か生気が溢れ出て、他の誰にも従わない人達さえも、この人には喜んで従うものである🌟🌟。

 🌟 使徒行伝一三の五二、二三の一一、二七の二四、二八の五、民数記一四の九・二一〜二四、ルカによる福音書一〇の一九。

 🌟🌟 また、この霊を宿す人々だけが、あらゆる外被を貫く人間知を有しており、他の人達には隠されいるものを、狂いの無い本能で感じ取るように、見抜いてしまう。詩篇一一〇、ヨハネによる福音書七の二八・四六を参照せよ。こういう人々は総じて事物を、少しの惑いもなく、事実ありのままに見通し、また一般の人達にはほとんだ欠けている、真理を言い表す能力をも賜る。

 

 しかし聖霊は、あらゆる外面的な奇矯さや、何らかの点では行き過ぎとは、およそ縁遠いものである。こうした性質を特に好むものから見れば、この霊を宿す人はむしろ「平凡な」あるいは熱のない人間に見えかねない。教会生活で人には目立つ華やかな人物で、むしろ聖霊を授かっていない場合が非常に多い。

 聖霊が何よりも求めるものは、意図の完全な純粋さと注意深さである。聖霊を確実に追い出すのは、虚栄心、享楽欲、貪欲、虚偽、闘争心、あるいは一般には本当の真剣味の欠如である。

 この霊が無ければ、教会生活について、さらにまたその革新について論じてみても、結局まったく無駄である。この霊を宿せば、教会生活の確実な進歩、またそれに必要なあらゆる洞察の絶え間ない確かな増進、並びに、全ての反対勢力の克服とは間違いなく得られ、これによって、一切の「問題」の解決が可能となるのである。

 

  「火に満てる御霊よ、疲れを知らず

  時と所とに妨げられぬ御霊よ、

  すべての富める者、満ち足りたる者に

  いまひとたび告げ給え、火の御言葉を。

 

  眠り込みし者を呼び覚まし、

  思い煩う者を連れ去り、

  安心せる者を港より追い出し、

  求る者を港へ導き給え。

 

  灼熱に耐える者を守り、

  偶像をふたたび焼き滅ぼし、

  生命を失える冷きキリスト教を

  すべてまた熱くし給え。」

 

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                 清秋記: