カール・ヒルティー、『幸福論③』・「[附]病人の救い」一六九頁以下: | 真田清秋のブログ

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            二

 

 『もし「病人の救い」について語ろうとすれば、以上述べた考え、あるいはそれに似た考えから出発しなければならない。今日でもやはり、病気の時にただ「医者を求める」ばかりでは🌟、救いは見出されない。けれども、すべての他の禍いに対すると同様に、病気に対してもあらゆる合理的な、可能な手段を尽くすことは、疑いもなく我々のなすべき務めである。反対に、医者や薬が得られるのにそれを用いようとしない、あまりも静寂主義的な考え方は、神に対する忘恩であり、神の秩序に対する反抗である。一般に神の秩序は、奇蹟によらず、むしろ人間的手段をもって助けることを欲するからである。全体としては静寂主義的傾向が強いが、きわめて信頼できるある人が、これについて次のように証言している🌟🌟。「神は、確かに肉体の病気の場合にも、我々が苦しみの中にありなが柔和と平安と愛とをもって、その苦しみに素直に同意することを欲していられる。しかし神は多くの場合、単に我々が苦しむことを欲せられるだけで、死ぬことを求められるわけではないから、神は我々が医薬を用うることを望み給う。それは、我々が苦しみを逃れるためにも、むしろ死から我々を救おうとする神の御心に従うためである。というのは、我々の魂は神の欲し給うもののほか何ものも欲してはならぬという事が、つねに主要な掟だからである。それゆえ、我々はこの掟によって魂を沈め、その後で医術や、自分の経験が教える理のかなった手段を、用いるべきである🌟🌟🌟。」

 🌟 歴代志下一六の一二。

 🌟🌟 身体の一般的な健康法は、睡眠、新鮮と空気と日光、健康によい栄養を欠かさぬ事、そして十分な運動である。ある程度健全な環境にあり、またみずから身体を損なうのでなければ、原来この方法で十分健康が保たれるはずである。

 

 しかしその場合、残念ながら問題は病人自身だけにあるのではない。思いやりのある、よい周囲と看護とは、治療にきわめて有益であるが、その反対に非常に有害である。思いやりのない、不平がましい、ましてやたらのよくない、意地悪な看護人や看護婦🌟は、まず病人の全快を妨げることがある。といって、生真面目すぎる看護人も、同様によくない。また、同じく病気の回復に良くないのは、病人の身近にいる杓子定規な人、真に心からの同情心を持たない凝り固まりの信心家、生まれつきの気難し家などである。そのような人達は得てして、たださえそうした事に人一倍敏感になっている病人に対して、彼のためにするひと事ひと事がどんなに自分たちには苦痛であるか、また自分たちの骨折りが、病人に対し、あるいは間接に神に対して、どんな犠牲を捧げる事になるかを、仄めかしたりするものだ。

 🌟 ことに奉仕夫人の場合は、善良な性格と信仰のほかに、生まれつき快活な気質を持つという点に留意さるべきであろう。そうでないと、病人にとって煩わしいことになりかねないからだ。なおまた、溌剌とした、汚れのない若い人々と交わることも、同様に病人を大いに元気づけるものである。

 

 時には、そのような周囲の人々が、たとえ善意は持っていても、元来有益なるべき教訓や励ましを、適切な形で伝える術を知らない事がある。病人は、健康な時と違って、しばしばそうしたものをいっそう受け入れにくくなっている。そういう場合に、強引に説き伏せようとしたり、祈りや讃美歌などで無理に迫ったりすることは、すべて病人の反感を掻き立てるだけである。時には、何か悪魔のようなもの🌟が病人に宿って超人間的な鋭い眼力を与え、宗教的方法を試みるように進める人達の個人的欠陥を、見抜かせるように思われることもある。だから、牧師の訪問さえも大して有益でない事が間々ある。ことに牧師自身の信仰の力が大して強く無い場合は、一ばん効果が薄い。だが、ほかの人達でも、いわゆる「慰めの賜物(カリスマ)」を授けられていなければ、病人を訪ねても、いっそう無益である。この賜物は、決して誰にでも備わっているものではない。

 🌟 このような方面に対して、他の人達よりも感受性の強い人がいる。そういう人は善人もしくは悪人が身近に来ると、それを肉体的に感じ取り、甚しい時には一種の透視をしたり、あるいはそのために健康になったり病気になったりすることさえある。だから、悪い人間が神経質な人々に不健康な影響を与えることは疑いがない。こうした事実は、精神科の医師やその職員を選ぶ時に、あまりにも考慮されていない。けれどもこれら全ての事柄(精神の特殊な機能)はきわめて個人的な経験領域であって、一般的に「科学的」説明は不可能であり、またこれまで十分に究明されてもいない。そういう経験をした事のない者は、それを神に感謝すべきであって、それを経験したいと願ってはならない。

 

 宗教もまた、健康増進点では、その他のはるかに価値の少ない手段、たとえば酒をはじめ、芸術、自然、山間の空気、旅行などと、大変よく似たところがある。つまり、もし宗家がこれまで享楽手段として用いられていたり、あるいは幼い頃から教え込まれて、何ら深い実感を伴わぬ単なる習慣的行事になっている場合は、たとえそれを治療手段として用いようとしても、ほとんど、もしくは全然、効果がない。

 病人に対しては、宗教や哲学についても、ただ短い金言風の言葉を与えるのが適当である。苦難の激浪が彼らの魂をうち越える時しっかり縋り付く事の出来る、ただ一つの思想で十分である。時には、一枚の美しい絵を見たり、少しばかり音楽を聞く方が、書物を読んで聞かせれもらうよりもまさっている事がある。病人はたいてい朗読など我慢して聞いてはいられないからだ。次第に病気が治って、すでに体力が回復しつつある人の場合に初めて、書物や説教の中なら抜粋した思想が適当になる。しかし、その時になってもまだ、たいてい長すぎるせ説教の形式のものは、必ずしも最上とは言えない🌟。

 🌟 こういう全ての事柄について、大学で一種の「牧師用医学」講座があってもよいであろう。これは既にあちらこちらで試みられてはいるが、しかしまだ適当な教授陣が不足している。

 

 

            三

 

   この論文の主題について、次に、なお幾つかのまとまりのない考えをのべてみよう。

 

 『健康は貴重な宝である。健康を所有しているものを感謝し、出来るだけ長くこれを保持するよう努めねばならぬ。しかし、病気もまた大きな幸福となりうる。すなわち、病気は一種の浄化作用であり、健康な時にはなし得なかったろうと思われる、より高い人生観への突破口となる事ができる。

 

 自分の健康のことであまりびくびくしてはならない。人間の体のように複雑な有機体では、その何処かにすぐ故障が起こりやすいのは当然である。しかし、体の自然な働きが損なわれてしまったり、あるいはあまりにも弱められさえいなければ、人間の体はたいていの場合、自分自身の力だけで、それとも少し人間的治療の助けを借りるだけで、癒るように造られている。

 

 治療手段として有害なものは、すべてあまり強すぎる薬、ことに鉱物生のもの、あらゆる迷信的なもの(これには暗示や催眠術も含まれる)、ぜひ必要ともいえない場合の機械的「手術」などである。また医術における各専門の孤立主義もやはり誤りだと、私は考える。人間は有機体であって、関連のない各部門から成り立っているものではない。病人に関心を持ち、万事に予防的配慮をも怠らぬ昔の主治医の制度の方が、はるかにまさっていた。たとえより深い学識を備え得てい無いにせよ、それは病人に対するいっそう大きな関心や、その病状を余すところなく心得ていることによって、十分に補われていた。

 

 病気治療の精神的手段の中では「主よ、助け給え」という短い祈り🌟(そうするだけの信仰が魂にあれば)が特に最もよきものである。ストア派の克己主義も力づけてはくれるが、これはさほど容易ではなく、また、どんな場合のにも有効だというわけでもない。慰めを与える書物の中では、聖書、その中でも特に福音書、ヨブ記、イザヤ書、詩篇が最上であり、それだけで完全に十分である。これに反して医学者を読むのは、ほとんど常に有害である🌟🌟。

 

 🌟 このような場合のためにも、キリストはきわめて特色ある模範を残して下さった。それは、ひどい苦しみの瞬間には、「主の祈り」よりも、さらにふさわしいものである。ヨハネによる福音書一二の二七。なおマタイによる福音書一四の三〇、一五の二五、八の二五、二六の三九、アモス書五の四・二三、ヨエル書二の三、三の一〇、四の二をも参照せよ。神に助けを求めよ、そうすれば神は、人間や出来事を通して、助けを与えてくださる。今日の医学はこういう精神的方法を退けるが、その理由は、それによって病人の心が不安にされるというのであるーーもっとも、それは確かにあり得ない事ではないが。そして病人(とその家族)を最後の瞬間まで錯覚の中に引き留めておく方を選び、結局、魂がどんな状態で奈落に沈んで行こうと無関心である。

 🌟🌟 医学書を読むことは、病気をいっそう悪化し、健康な人をも空想で病気にする。医学書にはたいてい病気の診断しか誌されておらず、おまけに素人はそれを誤解してしまう。そこには治療法が書かれていないし、いわんや欠くことのできない精神的治療手段などは、まったく載ってい無い。また前に述べたように、各専門の孤立化は、今日の医術の決定的欠陥である。個々の器官の病気は、たいてい身体組織全体を強めることによってのみ、除く事ができる。あるいは少なくとも、そうしなければ完全には癒らない。

 

 それに付け加えて言わねばならないのは、「耐え忍ぶ」ということは、必ずしもたんに受動的な忍耐(これも時には学ぶ必要があるが)を意味するもので無い点である。このような忍耐によって神との絶えざる結びつきから引き離されると思うのは、大きな自己欺瞞である。神との結びつきも、苦難の時には、主として祈願をその内容とするからである。忍耐は祈りと並んでこそよきものであり、その時忍耐は、祈りにとって欠く事のできない補いとなるのである。我々は、神の助けが果たして来るか、いつ、また、どのようして来るかについて、待つ力と意志とを持たねばならぬ。しかし、その助けが来るのは、我々がそのために自分のなすべき事をなし終えた場合に限るのである。

 

 人間の身体と精神の健康に最も有害なものは、道徳的な欠陥である。健康な生活や、かなりの長寿や、病気の際の自然の回復力を望むならが、そのような欠陥は絶対に除かれなくてはならない🌟。そのほか病気の最大の原因は、酒(ごく適量を飲まない場合。ただし薬用としてなら結構)、食べ過ぎ🌟🌟。空気の悪い運動不足の都会生活、眠る時間にまでくい込む夜更かし、財宝を夢中に追求すること(もしそのために取り返しがつかむほど健康をそこなえば、どうせ使い道も無いのに)などである。この世の中で最も健康な生活は、清らかな心とすぐてた思想を持ち、たえず有益な仕事をしながら単純な生活を送ることである。ほかのどんな健康維持法も、効果の点でこれに及ぶものはない。老齢によって生命力は自然に衰える場合でさえ、依然として絶えず増してゆく霊的な力は、その老年期をほとんど気づかぬうちに超えて、遂に新しい生命に入るまで、人を高めて行くのである。

 

 🌟 ローマ人への手紙八の一三、詩篇三二の三・四、出エジプト記一五の二六、申命記四の三、コリント人への第一の手紙六の一九・二〇。現代の唯物的主義的なものの考え方をする人たち、ことに上流社会の人達は、神を追い払い、神の誡めを顧みない事がどんな意味を持つかを、ふたたび正しく自分の肉体で感じ取らねばならない。これについては、なお言うべきことも多いが、特に「愛情のない結婚は罪悪であり、その点は、結婚を伴わない恋愛と同様である」ことを忘れてはなるまい。

 🌟🌟 ただこの一つの事からして、教養ある階級の多くの病気の内、少なからぬものが説明される。食事の仕方が非常に規則正しく、簡素であることが(特に比較的年をとってからは)、健康の保持に役立つことは、多くの歴史上の実例が示す通りである。』

 

 

             清秋記: