カール・ヒルティー、『幸福論③』・「驚くべき導き」一一二頁以下: | 真田清秋のブログ

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 『また、それと同じくらい多くの別の人々が、仕事を持たないために、または、あまりにも僅かな愛しか与えられ無かったか、それとも、自ら愛を持たなかったために、精神的にも道徳的も滅びていく。この両方の原因が結びついていることも極めて多い。

 元来こういう事は、もう誰でもとっくに知っており、キリスト教が世に現れてからは、ほとんど陳腐にさえなった真理である。それにもかかわらず、それを実践的な真理にしようと真剣に努力するものは、個人にしても、ましてその集まりである結社にしても、相変わらず奇蹟といってよいほど稀である。

 特別に「もの静かな」人というのは、確かにやはり居るものである。彼らはその生活欲求のせいで、積極的な活動に順応する事ができないか、もしくはある程度以上は無理だと思われる。こういう人々には、内面的な道が開かれている。それは、一般に「神秘主義」(真のキリスト教的意味での)と呼ばれるものであって、これもまた神の導きである。もっともこの道は、中世の世界観によって讃美され、二、三の教会によって、少なくとも理論上、堅持されてきたような、そのような唯一の、かつ絶対無上の道ではないが。そして、もしもそれが本物であれば、容易ならぬ道でもある。空想や宗教的高慢や、時としては狂気の深淵の間を、健全な良識を頼りに切り抜けて行くためには🌟、最も複雑な外的の人生行路を辿る場合よりも、むしろ遥かに絶えざる導きが必要にして不可欠である。まず楽なつもりでこの道を選ぶ者があれば、それはたいへんな思い違いである。人生をよく生き抜く為の最も容易な道は、豊かな導きを受けながら、大いに働くことである。貴方がその道にあるのなら、苦情を言わないがよい。

 🌟 これについては拙著「読書と演説」の初めの「読書について」を参照せられよ。

 

 なお附け加えておかねばならない事はーー「驚くべき導き」の、神の側から見た目的と直接の狙いは、我々を普通の卑近な意味で幸福にすることではない。むしろ、恐れを知らず、あらゆる良き行いを進んでしようとする人、一言で言えば、英雄的な人にする為である。同時にそれが最上の幸福でもあるという事は、この事の第二義的な面である🌟。普通導きを信ずる事は。たとえば幸運や星辰に対する迷信的信頼だの、あるいは純然たる宿命論だの、様々な形をとって現れることもあるが、いずれにしても、何らかの導きに対する信仰がなけらば、この世の中で並々ならぬ事は決して起こるものではない。そういう信仰を持つ人だけが、しばしば同時代人全体を向こうにまわして抵抗し続け、ついにはその時代にその人自身の刻印を押すのである。しかし、ただ不可解な宿命の容赦ない命令に絶対的に服従するというのではなくて、我々もよく理解できる、恵み深い霊のいちいちの目配りに、愛情をもってよろこんで従う事(しかもこの場合、幸福と義務が常に一致するのを確信しながら)、この事の為に、まさにキリスト教的人生観が必要になって来る。

 🌟 大多数の人々は、ある強力な指導の下にある時、最も幸福だと思う。これが、貴族制、祭祀性、君主制、政党政治や、またはナポレオン、ビスマルク、ゲーテに対する崇拝などの生まれる自然的基礎である。しかし神の導きを人間の指導と取り換えるのは、極めて危険である。コリント人への第一の手紙六の二〇、七の二三、詩篇九五の七、ペテロの第一の手紙二の二五。

 これについて、マホメット教の最も普通に唱えられる祈り(「コーラン」第一章)は美しい言葉でこう述べている。「我らを導いて正しき道を歩ませ給え、迷える人の道でなく、あなたが恵みを垂れ、怒りを下さぬ人々の道を歩ませ給え。」

 

 そこで今日、多少とも理想主義的な考えを持ち教養もある全ての人にとってさしあたり肝腎な問題は、彼らが多くそれを奉じているような不可知論をもって生きるよりも、導きを信じて生きる方が、じっさい喜ばしい人生が送れるのではないか、という事であって、我々はそれを試してみなければならないし、また、そうして差し支えないのである。この事を試してみない人には、勿論それが分かるはずがない。しかし、いま仮にある人に向かって、あなたは海だけしか見えないが、海の彼方には陸地があるのだ、と無数の人達が証言しても、その人は、陸地が見えないから信じない、また、それを確かめ出かけようとも思わぬ、と答えたとしたら、どうであろうか。その人は愚かな人間であって、より良き生活が出来たはずなのに、それを見失っているのである🌟。

 🌟 これについては、ビスマルクの次の言葉を引用することができる。「自分の事をしきりに反省しながら、しかも神のことは何も知らず、また知ろうともしない人が、どうして軽蔑を受けず、退屈せずに、人生を凌いでゆけるのか、私には分からない。」なかにはまた、自分の過去がそのような導きを受ける事を妨げると考えたり、導きを求めることができる前に、まず自分がある程度完全になっていなければならないと思う人も少なくない。このような人々に対しては、とりわけ、イザヤ書四四の二一〜二三、四三の一八・二五、四〇の二ー四が答えてくれる。  

 

 確かに、この信仰がきわめて困難な試煉の前に立たされ、襲いかかる絶望に抵抗するには、一種の頑張りだけしか役に立たないような瞬間が、誰の人生にもあるものだ。キリストでさえ、十字架上でそのような一瞬があったし、おそらくその前にもなお同様なことがあったであろう。エリヤは一人の女(異神に仕えた王妃イザベル。列王記上一九参照)の怒りのために彼の使命をすっかり放棄した。サウ“ォナロナは死ぬ前に、深い悲しみに閉ざされて、自分の霊感の真実性を疑った🌟。ジャンヌ・ダルクはそれを否定さえもした🌟🌟。しかし、彼らはいずれも堅く信仰に縋る事により、或いは、一瞬たじろいだ後に再び信仰に立ち帰る事によって、これを守り通して、そのためにこの世の出口を光栄に輝いて潜り抜けたのである。信仰に生きる事は、すべて他の大きな、危険の多い事業と同様である。しばしば危機一髪の瞬間には、もはや退けないという意識の方が、最大の勇気や理論的に完全な確信よりも、いっそう強いものであり、また、人を強くするものだと言う事が分かる。今日のような寛容の時代においてキリスト教の信仰をとりわけ動揺せしめたものは、大きな戦いの場で信仰を外に向かって証する機会が見出せないことであった。その結果、戦いは内面に移され、理論的考察の領域で行われることになったが、しかし理論の領域からでは、信仰と不信仰のいずれを選ぶか問題について十分な確信は決して得られない。なぜなら、人間が本当に信じうるのは、もっぱら行為を通して経験されたものに限るからだ。行いになって現れない信仰は、信仰ではないか、それとも、単に信仰の始まりにすぎない。しかし、もし人がひとたび神と契約関係に🌟🌟🌟立つならば、ーーなおこれは、我々の方からでなく、神の方から申し出られて、我々が受け入れる形のものであり、そしてまた、現在における人間の進歩の段階にとっては、神に対する人間の魂の関係を父子関係に比較するのは立派すぎる🌟🌟🌟🌟ことで、これはむしろ契約という方が適当な説明でもあるーーこのような関係に立つならば、安んじて一切の事を起こるがままに任せるがよい。またしばしば、見たところ最も危険なもの、厭わしいものが、驚くような仕方で、まさに我々にとって最高のものに転ずるであろう🌟🌟🌟🌟🌟。

 🌟 「悲しみは私の周りに陣地を設け、あまたの強い軍勢で私を包囲した。既に悲しみは私の心をことごとく征服した。私にとって、一切が悩みと苦渋に変わった」と。サウ“ォナロラは獄中で誌している。

 🌟🌟 現代の女傑ブース婦人も、そういう経験について、晩年のある時、こう凝らしている。「私の心がこのように悲しみに破れそうになろうとは、思いもかけないことだった・・・・悪魔が、お前は、とうとう負けてしまった、悲しみくれて墓に入るだろう、と言った。」

 🌟🌟🌟 これについては創世記六の一八、九の一一・一二・一六・一七、一七の七・一九、レビ記二六の四二、申命記四の二三・三一、七の六〜一二、一四の二、二六の一六・一七、三三の九、列王記上八の二三、ルツ記二の一二、サムエル記上二の九・一〇、七の三・一二、三〇の六、サムエル記下七の九・一四・二九、八の六、列王記下二三の三、歴代志下六の一四、二九の一〇、ネヘミヤ記九の八・三二、詩篇八九の三・二〇ー二九、一三二の一二、イザヤ書五九の二一、エレミヤ書三一の三一・三三、五〇の五、エゼキエル書三七の二六以下、ホセア書二の一九、一一の四、ヨエル書二の三一、ハガイ書二の五を参照せよ。

 🌟🌟🌟🌟 むろん、どちらも人間的関係を超人間的関係の説明のために転出した比喩である。たとえば出エジプト記三四の一〇、ネヘミヤ記一の五、八の一〇・一一、九の八・三二・三八。しかし「契約」には、魂を強め性格をやしなうある力強いものを含んでいるが、父子の関係にはそれがない。

 🌟🌟🌟🌟🌟 詩篇一六はこのような安心感の美しい表現である。箴言八の三一・三四ー三六、またイザヤ書四九の二三をも参照せよ。』

 

 

 

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