カール・ヒルティ、『幸福論③』・「驚くべき導き」九一頁以下: | 真田清秋のブログ

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     「私が貴方のためになそうとするのは驚くべき事である。」

           (出エジプト記三四の一〇、ドイツ訳による)

 

 『十九世紀末期における世界的気分の特徴を表すために、特に「世紀末」という言葉まで案出されたが、その特徴は伝染病のように広がった恐怖と倦怠と不快である。こうした気分は、増大した生の享楽の追求が同様に一般化し、同時にまた、この世紀の無比の偉業が賛美された後に、濁った澱(おり)のように残ったものである。他方、わずかに新しい諸宗派だけが、今もなお、多くの人々の救済が確かに可能だと信じて、比較的溌剌として、生の喜びに満ちた様相を示している。疑いもなくそれが、これらの宗派に魅力を感じされる主な原因である。人間は普通誰しも、やはり希望と勇気とを心に持ちたいので、絶望にばかり浸っていたくないからである。

 この状態は、ちょうど、いわゆる古典的古代の末期、つまりローマ帝政の最初の二世紀について知られているものと、極めてよく似ている🌟。そして当時、若々しいキリスト教は、一見絶望的なまでに老衰し、ほとんど死にひんしている世界に、新しい生命力を注ぎ込み、また官能美や人間的な知恵による楽しさよりも優れた人生目的を与えるという使命を委ねられた。これは困難な課題であったが、それにもかかわらず解決されたのである。この世界は再び、予想もしなかったほどの精神力と生命の充実を取り戻す事ができた。これは、初代の信者達のわずかな群れを目前に見た当時の人誰一人として、想像も付かない事であった。

 🌟 マルクス・アウレリウス帝の日記(「自省録」)は当時の状態について明瞭な図像を示してくれるが、それは現代の状況をそのまま想起させるものが少なくない。そこには、キリスト教を理解し得なかった最も優れた人達が、世界を根本的に改革する一切の可能性についていかに絶望したかがよく示されている。しかしそうした時代は、それまでにも幾度となくあった。創世記六の三にも、既にそういう時代が描かれており、同時に、その堕落の原因も述べられているが、これは全ての時代に当てはまるものであって、現在ちょうど、特に堕落に陥っている全ての国々においてそれは存在するのである。

 

 今も同じ課題が、再び解決を求めている。しかも今度は、生命力と勇気とを甚だしく失ってしまった、いわゆるキリスト教世界の真ん中において、である。現代に生きる全ての人に向かって次のような問いが発さられるーーそれは色々の質問者から出されるが、しかし実質的には同一の問いであるーーすなわち、貴方は世界を革新する仕事に参加するつもりであるか、それとも、傍観者的立場に立って、ほとんど病的なほどの享楽主義と交互に現れる「世紀末」の厭世主義に身を委ねる人々の仲間になるつもりであるか。

 これは、真のキリスト教徒にとっては、少しも問題ではない。しかし、福音書がキリストの言われたものとして保存している最後の言葉が、厳かな道標のように、道の入り口に掲げられてある。ヨハネによる福音書二一の一八🌟。そこは、キリストの後に従う全ての者がーー修道院へではなくて、彼らが働くべき世界に遣わされる入口なのである。

 🌟 その時この言葉とともに、世界史の短いが、しかし類のない一時期が終わったのである。以後それに代わって、果てしのない考察や注解が現れ、すでにあらゆる図書館を満たすほどであるが、しかしその大部分は、キリストの心を持ってする生活にとっては、僅かな価値しか持たない。それから先の問いに対しては、ただ簡単な、ほとんど軍隊式命令が与えられるだけである。「それが貴方に何の関わりがあるのか。私の後に従って来なさい。」

 

 この言葉は、福音書の中でも、「慰め」の調子を持つというより、むしろ励ますような、更に脅かすような響きを持った言葉の一つである。こういう言葉を理解して受け入れるには、既にキリスト教は「耐えられるもの」だという経験をいくらか重ねている必要がある。けれども、この言葉も「導く」(邦訳では、「連れて行く」)というところに力点を置いて読めば、その不安な感じは大部分消えてしまう。

 「導き」の正反対は「出世主義」である。これは、信仰も愛も、平安もなく、同じく他の出世主義者が自分にどんな利益を与え、損害をもたらすかを、常に恐れながら、目も眩むばかりの嶮しい道を辿って行く。その道の最後に到り、たとえ目的を達したとしても、遂に疲れ果てて、幻滅に陥り、嘗て人生の途上で出会った人々や、また往々自分が邪魔をした人達から惜しまれることもなく、絶望の闇に沈んでいくのである🌟。

 🌟 この人達は「遂に重荷をもはや取り除くことが出来ず、その魂は捕らわれて行かねばならない。」イザヤ書四六の二(ドイツ訳による)。フォン・エーブナ・エッシェンバッハ夫人の書いたある物語の中に、いつも「さあ、落ち着いて、お利口に」という口癖のように言う賢明な老婦人が現れる。全くその通りであるが、しかし、人が自分の力だけしか頼れないとしたら、誰がいつでもそうしていられようか。確かに歴代志上二二の一三の助言の方がもっと賢い行き方である。導きの完全な反対は、現代の宣伝である。これに頼る者は、同時に神の導きをも得られるなどと決して信じないがよい。宣伝技術のおかげで自分は生きて居られるのだという気持ちにまして、人間の精神を堕落せしめるものは、他にない。

 

 しかし、たとえこのような絶望的な人生観を抱かない場合でも、導きの理念を本当には理解しえない危険がある。それは導きが常に驚くべきものを伴うからである🌟。実際現代の人間は、その最良の瞬間においてさえ、常に自分の道を歩こうとし、彼の信ずる神は、助言と保護を提供しながら自分に随伴するはずのものだと心得ている。いったい現代人は、神をば、いつもその場に居合わせて、自分の気ままな行動を親切に助けてくれる助手にしたいと望んでいる。自分が神の僕(しもべ)ではなくて、むしろ神の方が、人間の意志とそのたいへん善意で道徳的な決意(そう解したいところだが)との召使だと考えようとする。それどころか、出来ることなら、毎日、いやもっと度々神を心に思ったり、あるいは、荒野を旅するイスラエルの民のように(出エジプト記一六の一〜四)日々のマナを集めたりする必要がなくて、むしろあの穀倉を大きく広げて、その夜のうちに死んでしまった愚か者のように、一時に、全生涯用の、またはせめて半生の用に足りるくらいの幸福の貯えを保証してもらいたい、と願うだろう🌟🌟。なるほど表抜きの口実は、もうこれからは「つまらぬ」考えに惑わされる必要がなくなり、この世における神の業(わざ)に献身できるため、と言うのである。しかし実際には、「資本」を所有するためである。それさえ有れば、もはや引き続いて神の助けを必要としなくなり、また、祈りも次第にただの形式だけのものに変わったり、それとも、自分ばかりか子孫の代まで絶対に「心配のない」人達の仲間に入れてもらったことへの感謝の祈りに変わることでができる。限りなく多くのキリスト教徒が、この種の精神的「資本主義」のために滅び去ったり、あるいは少なくとも、彼らが持ちうるし、また持つべきはずの生命力とその働きとをとうてい発揮出来そうにもない状態に陥ったりしている。

 🌟 ピリピ人への手紙三の一三〜一五、出エジプト記三四の一〇、イザヤ書二八の二九、詩篇四の三、ミカ書七の一五、ヨシュア記二一の四五、歴代志下一六の七ー九。同胞教会讃美歌第一六九番四節、同じく第九〇八番を参照せよ。

 🌟🌟 ルカによる福音書一二の一六以下。

 

 さて、前期の別れの言葉(ヨハネによる福音書二一の一八)でキリストが言おうとされたのは、人が内的進歩のある段階に達して、本当に自覚をもってキリストの後に従って歩み始めるなら、その時からもはや右に述べたような誤った考え方は全て出来なくなる。その人は自分勝手な選択を一切捨てて、神の導きと命令の下に入る、というのである。

 

 人間が容易に手放したがらない自立性がこのように止んでしまうと、その代わりに、人生における恐怖心が消え、形容も説明もできないような内的な安定感が訪れる。この感情は、経験しなくては分からぬものだが、一度経験すればもはや忘れられない。なぜなら、それは、魂を力と勇気をもって満たし、前には途方もなく大きかった困難を小さく思わせ、また、以前にはほとんど絶望にかられるほどの自分の弱さをも、我慢できるものと考えさせるからである。

 どんな人間の生活でも、自覚がはじまる瞬間から自覚が消える瞬間まで、恐怖に付き纏われるのは、本性上当然である。少年は学校の課業がたえず高まるのを恐れ、青年や中年者は生存のために必要が嵩むのを恐れ、老年は力の衰えを懸念し、最後にはなお死を恐れるものが非常に多い。というのは、死がおそらく新しい未知の無気味さへの入口にすぎないかも知れないからだ。ただ最初の幼年期だけが、当然恐れを知らず、従って、しばしば幸福な時代として讃えられる。

 本来、全ての感情の中で人間が最も恐れるのは、まさに恐怖感である🌟。

 🌟 人間は誰れも、自分が周囲の周囲の自然と無関係な、独立した存在だとは感じていない。もし人が、導いて守ってくださる親切な神を信じないならば、彼は、一足ごとに付きまとう暗い、目に見えぬ運命の力に対して漠然たる戦慄を感じ、実際、遅かれ早かれその力の手中に落ちてしまう。信仰を持たない者は、みな何か迷信をいだいている。あらゆる迷信に陥らぬ、確固として平安な生活をもたらすものは、ただキリスト教の、神に対する純粋な信仰だけである。こうした単に処世上の賢明さという立場からだけ考えても、この信仰は、人間がこの地上で見出しうる、最上の人生哲学である。この意味で、「恐怖は神々を生み出す」という古代の言葉もやはり真理である。しかし疑いもなく、恐怖はいくぶん文化からも生ずるものである。文化は、いっそうすぐれやものと結び付かない場合、人間に勇気を与えないで、むしろ彼を臆病にする。これは、どの民族の歴史にも示される所である。

 

 それゆえ、聖書の中には、「恐れるな」という言葉ほど頻繁に現れる言葉は、他に全くない。しかしこの言葉は、神の導きを受けていない人に向かっては、一度も発せられたことがない🌟。

 🌟 この言葉はほぼ三百回ほど出てくるということである。次の個所を参照せられよ。マルコによる福音書五の三六、四の四〇、イザヤ書七の四、八の一二、一七の一四四一の一〇、四三の一・五、四四の二、五一の一三、創世記一五の一、二六の二四、二一の一七、民数記一四の九、申命記一の二一、七の一八・

二二・二四、一一の二五、二〇の一〜四、三一の六、ヨシュア記一の五ー九、一〇の八・二五、二一の四四・四五、士師記六の

二三、七の一〇、サムエル記上一二の二〇・二四、一四の六、列王記下六の一六、歴代志上一六の二二、二八の二〇、歴代志下二五の八、エゼキエル書二の六、ゼバニヤ書三の一六、ハガイ書二の四・五、ヨエル書二の二一、ぜカリア書二の九〜一二、マタイによる福音書八の二六、一四の三一、ルカによる福音書八の五〇、九の二四、一七の三三、ヨハネによる福音書一六の三三、一九の一一、使徒行伝四の二〇・二九・三一、五の二〇、九の一六、一四の二二、一八の一〇、二〇の二四、二三の一一、二七の二四、ローマ人への手紙八の一五・三五ー三七、コリント人への第一の手紙七の二三、一六の一三、コリント人への第二の手紙一二の一〇、ガラテヤ人への手紙二の一二、エピソ人への手紙六の一〇、テモテへの第二の手紙二の五、三の一一、ペテロの第一の手紙五の九、ヘブル人への手紙二の一五、六の一八、ヤコブの手紙一の一二、四の七、ヨハネの黙示録一の一七、二の一〇、三の一二、二一の七・八。恐怖に言及したのは、創世記三の一〇は最初である。最も美しいもの「恐怖という言葉こそ持ちられていないが」は詩篇二二、さらに同じく八一の一一、八四である。詩篇三二の七〜一〇、一二七の二、および箴言一〇の二二の、よく実際に当てはまる言葉も、実に恵み深い響きを持っている。

 

 あらゆる個々の場合に、恐怖の直接の原因が何であるかは、簡単には言い尽くせない。けれども、少なくとも個々の場合の事情をよく知っている人にとっては、次のような幾つかの暗示によって、大体の手掛かりが得られるであろう。たいていの場合、その原因は「一切の悪の根」である虚栄心にあって、これが神の側近くあることを不可能にするのである。時には、貪欲が恐怖の原因となることもあり、聖書は貪欲についてもやはりそういう味方から述べている。また、しばしば、気苦労とか、たくさん枝を広げた利己心という樹の抜き難い根っ子とか、あるいは享楽欲(時折ごく上品な、宗教的なものもある)とか、又は行いのどこかに隠れたいる不純な不真実などもその原因となる。この不純な不真実は、人間の眼にはまったく見えないが、その人の安心感が消えて、恐怖が現れるという事実を通して、注意深い人々には、神が間違いなくそのことを示し給うのである🌟。

 🌟 恐怖はつねに、人間の中に何か正しくないものがあるこことの徴候である。だから、そのすぐ前までは恐怖というものをまるで知らなかった最も勇気ある人達をも襲うことも間々ある。この点、苦痛が肉体に対して持つ意味と、恐怖が精神に対して持つ意味とは全く同じである。いずれも、この上なく尊い警告者である。列王記上一八の一五ー二一、一九の三・四・一〇、詩篇一〇四の二九、ヨハネの第一の手紙四の一八、ツィンツェンドルフ作、同胞教会賛美歌第二八三番。このように生命(たんに人間の生命ばかりでない)は、もしも何かに守られ、導かれていることを知らないならば、たえず恐怖に脅かされているものだ。ヘブル人への手紙二の一五。しかし、諸々の生命は、まさにあるべき人間の出現によって、恐怖から解放される日を待ち望んでいる。ローマ人への手紙八の一九ー二二。こういう意味での「被造物」の中から動物界を全て除外して考えようとするのは、多くの敬虔な人々の非常に狭量な考え方である。キプリング著「ジャングル・ブック」正統二篇には、動物の世界の驚嘆すべき描写が含まれているが、これは現代の誇りともいうべく、多くの宗教書を恥じ入らせるものである。恐怖については、特に(どうして恐怖を生じたか)という章がある。もう一人の現代のイギリスの著作家(ラスキン)は、まことに適切な事を言っている。「あらゆる動物の眼に、ヒューマニティーの微かなイメージと輝きとが宿っている。それを通して動物の命は外を覗き、自分達を人間が支配するということの偉大な神秘さを仰ぎ見る。そして、たとえ魂の親しい交わりが無くても、被造物としての仲間づき合い(フェローシップ)を求めている。」』

 

 

 

               清秋記: