カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人生の段階」三二六頁以下: | 真田清秋のブログ

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 『また、人生のこの段階の初期は、通常様々の試煉に満ちており、これによってそうした基礎を絶えず固めたり、確かめたりする機会が与えられる🌟。いやでも試煉はまもなく止まずにはおかない。なぜならば、信仰というものは、いま述べた言葉にもかかわらず、成立したなら永続して変わらぬ伝統的なものではなく、毎日毎時新しく創られてゆかねばならぬものだからである🌟🌟つねに溌剌として現存する信仰でなければ、「魔王アポリオン」(ヨハネの黙示録九の一一)が自分に叛いた手下を必ず奪い返しに来るとき🌟🌟🌟、その攻撃に抵抗して勝利を収めることはできないであろう。

 

 🌟 これらの試練は時にはその人たち自身の手で、様々な試煉の中から択び出されることもある。サムエル記下二四の一三・一四。

 🌟🌟 これから後、信仰は我々の価値を測る確実な尺度である。善き行いをすれば直ちに信仰は増すが、悪い行いをすれば、それはすぐさま衰える。スパージョンが言うように、聖なる行いは次第に、習慣となり、聖なる感情は永続的な状態にならねばならない。そしてキリスト教は義務ではなくて、心の自ずからなる傾向にならねばならない。しかしなお、それと反対の傾向も存在するのであって、しかもそれは最初の悦びを得た時に考えたよりも、はるかの長く続くのである。ただそういう反対の傾向は、さすがにもはや心を支配することはできない(ローマ人への手紙六の一四、ゼカリヤ書三の一〜七)。「強い者の住居は壊され、その要求は退けられた」のである。けれども、良い企ては常に即座に実行しなければならない。すぐに実行できないような企ては、決して重要なものとは認められない。

 🌟🌟🌟 パンヤンの「天路歴程」第九章。「人が本気にこの世の主人を拒むならば、その主人はまず浮世に対する贅沢を求める欲望を持ってその人を悩ます。すなわち、時には困窮に対する恐怖をもって苦しめ、時には、貯蓄や贅沢を求める欲望を持ってその人を虐める。それでもまだ足りないならば、この世の主人は、その人の胸に邪推は不信や貪欲の矢を射込むのである。」(ベルレブルク聖典)  

 

 このような「この世の霊」の力はきわめて強大である🌟。幸いにも、我々はこのことを、実生活においてゆっくり少しずつ経験してゆくので、もしそうでなかったら、おそらく誰でも、この霊と戦う勇気を失うであろう。けれども、それよりもさらに強大な一つの力がある。それは神の力であって、すなわち、真のキリスト教によって人の心の中に生きて働く力なのである。たいてい最も長期にわたって続くこの期間において、肝要なものは堅忍と勇気である。「あなたの冠が誰にも奪われないように、自分の持っているものを固く守っているがよい🌟🌟」。そして、一度鍬に手をかけたら、後ろを振り向いてはならない。(ルカによる福音書九の六二参照)

 

 🌟 新生活を実際にやり遂げるかどうかという疑いは、もしも我々自身の力は問題になるのなら、実に当然な疑問であろう。しかし魂は段々に、「私が弱い時こそ、私は強い」というパウロの逆説的な言葉(コリント人への第二の手紙一二の二〇)の真理を悟ってくる。アルブレヒト・フォン・ハラー(一七〇八ー77年、スイスの医師・詩人)がすでにその日記に記しているような、「回心の最大の障害」、すなわち、キリスト教的生活は我々にあまりに多くを要求するゆえ、だいたい不可能なものだ、という見解は、もはやこの時期には成り立たない。すでに幾多の経験がそれを否定しているからである。新生活といっても。それが直ちに人間の古い性質を変えてしまうわけではない。ただ別の性質が新しく加わってくるにすぎず、それが初めの性質と戦いを始め、順調にいけば最後に勝利を収めることになる。その際、人間のなすべき事は、戦うための力を受け入れる心構えを常に怠らないことである。これは人間がなしうることであり、またそれをするのは全く人間の責任でもある。善い行いをする度に、力と識見とが加わり、悪い行いを重ねる度にそれは減退する。しかしながら、哲学的道徳よりも人間をよく知っている福音書は「これを行え、そうすればあなたは生命に到るであろう」とは言わずに「あなたはあるがままに来るがよい、遠慮も躊躇もいらない。あなたはそのまま受け入れられ、そうしてより善き生活へ進む力が与られるのだ」と言うのである。今日、このことを正しく理解しているのは特に救世軍である。宗教は、よく言われるように「人間の宗教的要求を満足させる」だけのものではない。なにぶん人間は、そうした要求を初めごくわずかしか持っていなのが普通だから、いや、むしろ宗教は、神の世界秩序に役立つような人間をつくるべきものである。これと異なるものは、すべて間違った無益な説教である。

 🌟🌟 ヨハネの黙示録三の一一。ゴットフリートケラーは彼のある手紙の中でこう言っている、「苦しい経験も悩みも知らない者は、悪意を持たない、悪意を持たない者は、体に中に悪魔をすませることもない。だが、悪魔を持たない者は、芯のある仕事はできない。」この言葉には、人間の努力に関わる色々な問題を説明しうる一つの真理が含まれている。ただし、その表現の仕方は適切でない。

 

 この時期においておそらく最も注目すべきことは、神の支配と自由とが人間において合致することである。神はその欲することを、人間において成し遂げる。もし人間の意志が伴えばそのことは容易になされるが、これに反抗したり、別の道を行こうとしたりすれば、それは困難になり、苦難を通してなされることになる。しかし、この世のどんな力も、もはやそれを妨げることはできない🌟。が、それにもかかわらず、人生のこの段階では、あらゆる原則も教義も少しも役に立たず、一切の超感覚的な事物がまたしても単なる夢か空想の戯れのように見えてくる長い期間があるものだ。これは危険な時期であって、そういう時には、我々は心を務めて平静に保ち、積極的な行動は全て慎まねばならない🌟🌟。それでもなお、やむを得ず行動する場合は、あのスペインの詩人と共にこう言うがよい、「人生が真実であろうと夢であろうと、私は正しく行わねばならぬ🌟🌟🌟」と。

 

 🌟 出エジプト記二三の二〇。箴言二四の一六。エゼキエル書二四の一二。パウロ・ゲルハルトの歌「起てよ、わが心、よろこびをもって」(同胞教会讃美歌第一三八番)。ジーブレーベンの牧師シュミット作「進み続けよ」(同じく第六九八番)。こんな場合に一般に経験されることは、困難な試煉は、全く予想もしないのに突然、ふいに止むことがよくあるということである。しかし一方、長かったり短かったする中休みの後に、新しい苦難が近づいてくることもある。特に人生のこの大切な時期においては、そうした苦難を、全然、そして長い間、欠くことはできないだろう。たしかに苦悩の本来の目的は、ただ苦悩によってのみ我々は神のそば近くにいるのを感じることができるという点にある。ところが、あまりに長い間曇りなき幸福に浸っていると、それは、我々と神との間に別の感情や思考の厚い層を押し込んでしまうことになる。とりわけ、我々が乞い求める「悪からの救い」は、ただ苦しみを通して初めて成し遂げられるのである。苦しみにも関わらずではなく、苦しみの内に、苦しみを通して、幸福になるということが、我々のなしうる最高のことである。聖ヒルデカルト(一〇九九年生)」はそれについてこう語っている、すなわち、神はその民をしばしば見捨て給うので、彼らは孤立無縁であるように見える。こういうことが起こるのは、彼等の外的人間が傲慢のために心高ぶることのないためである。「その時彼等は、私が彼等から離れ去ったと思い、そう信じ込む。しかし、私は彼等の信仰を試しているのであって、彼らが尊大に陥らぬように力強い手で彼らを支えてやるのだ。なぜなら、彼等が苦しみ、その心に傷手を負う時こそ、私は彼等の心の中に多くの果実を実らせてやるのだから。」

 🌟🌟 こうした時には、「あなた方は落ち着いているならば救われる」(イザヤ書三〇の一五)という言葉が当てはまる。もっとも、この言葉は常に正しいとは限らないが。

 🌟🌟🌟 カルデロン作「人生は夢」フランスの実にうまい諺もやはりそれて同じことを言っている。「どんなことがあろうと、なすべきことを成せ。」人生においては、こういう不動の鉄則が唯一の救いであるような瞬間があるものだ。暗黒はたいてい、断固たる抵抗に会うや否や退散するものである。ミカ書七の八。ヤコブの手紙四の七。エペソ人への手紙六の一二・一三。ペトロの第一の手紙五の八・九。

 

 ことにこの信念は、人間の魂の中で、次のような完全な確信とならねばならぬ。すなわち、神の永遠の秩序というものが存在していて、たとえ人間が(行動の自由は許されているのだから)その全力をあげてこの秩序に挑戦してみてもまったく無駄であること、次には、あらゆる実際の成功も、あらゆる真の幸福も、ただ人間の自由な意志とこの神の秩序との自由な合致においてのみ成立するということ、また、これとは反対に、神の秩序を犯すならば、その度に罰が後を追ってくるわけではないにしても、しかし罰はその行為そのものの中に宿って、神の恵みを待たなければ決して取り除かれることがないということ、それらのことに対する確信である。この確信に達すれば、ちょうどベルレブルク聖典が言っているように「神の掟も柔和な顔を持ち、我々は掟の友となって、それを神の適切な補助手段や予防処置と考えるようになる。神はそういうものによって、我々と神との交わりや結びつきの妨げとなるものを取り除き給うのである🌟。」

 

 🌟 「幸福論」第一部一〇九頁参照。この聖典の言葉は、特にモーセの十戒に関してまことに適切である。ヨハネもその第一の手紙第五章三節において、ほかの場合なら奇異な感じを抱かせるような言い方で、やはりそういう意味のことを述べている。また詩篇八の一三(「あなたの栄光は天の上にあり、嬰児と、乳飲み子の口によって、褒め称えられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、仇に備えて、砦を設けられました」)について、ある卓抜な注解者はこう言っている、「もしも神についての知識が学者の研究から汲み取れるものとしたら、人間は宇宙の最高審判者に対して道義的責任を負うべきだという思想は厄介な観念であるから、学者はそうした観念を人類の意識の中から勝手に消してしまうこともできるはずである。事実、学者はすでにしばしばそれを試みてきた。しかし新しく生まれてくる者の中から、そういう学者に対する新手(あらて)の敵が次々に成長して来るのである。」この時期にある人達は、いかな人間の悪意も神の秩序に対してはまるで無力だということを、特にしばしば経験するに違いない。やがて遂に、自分さえ正しい道を失わないならば、そうした悪意は少しも自分を害することがないことを確信できるようになる。詩篇三七、七三、八四参照。

 

 このように信念が固まってきた時、それを基盤にして初めて、外部へ向かって有効な活動を始めることができる。それ以前では早すぎて、そのために大抵うまく行かないものである🌟。「主よ、主よ」と言いながら、しかも神から離れていられるような教えは、決して救いではない。救いとは、我々がそれに意志を捧げる時、我々の上に生じるある事実的なものである。

 🌟 ヨハネによる福音書一四の一二。あまりに過度の、またはあまりに早すぎる活動欲は、常にまた信仰が未熟なせいである。そのために、神よって差し当たって与えられたその仕事を避けて、勝手に、またその資格もないのに、より高い段階に登ろうとするのである。なお、自分の中の滓(かす)をまだ捨て切っていない「怒りの聖者」が生まれたり、自分のことは棚に上げて婦人を改宗させたがって、キリスト教に悪評をもたらすような好ましからぬキリスト教徒が出来たりするのも、やはり未熟のためである。タウラーの説教集の初めにある平信者と博士との美しい対話も、この問題を扱っている。

 それと反対に、バッツイの聖マツダレナという修道女も、同じように正しいことを言っている。「ただ慰めや甘い感情を得たいと思って神に帰依するのは、惨めな自己欺瞞である。神が我々をこの世間から特に選んだのは、他の人達の救いになにほどか貢献させるためである。」いわゆる「敬虔」は、誠実な人達には嫌がられる一方、その他の人達を偽善者にしてしまう。全ての神の誡めは活動的な人間を目当てにしたものである。およそ仕事をしなければならぬことが、そのまま神の祝福である所以を十分に知り、その意味を悟り得ないうちは、どんなに宗教や哲学を究めたところで、まだ悪の影響に対して安全だとはいえない。

 

 

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