『眠られぬ夜のために①』八月三日より: | 真田清秋のブログ

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 『エレミヤ書五一の一七・一八🌟。芸術は、人間を自己以上に高めて、より純粋な、より強い、より偉大なものにする限り、さらにそれだけの価値を持つものである。それをしないならば、最上の芸術の場合でも、せいぜい遊びであり、さらに、大抵の人間のうちに官能性を呼び覚まし、助長することによって、魂を損なうものである。人間の悪の原因を仔細にその根源に入って深く探るならば、極めて多くの場合に、過度の官能性(最も広い意味での)がその根底にあり、さらのそれは神に対する不信実や、自分のよりよき自我と人間性に対する裏切りとなって現れることが、発見されるであろう。

 このような「自然主義」、実は「動物的な性の感情」は、たいていの人の生活において、時によって大きな、あるいは小さな役割を演じる。このような危険なものをただ偶然にゆだねたくなければ、それと根本的に対決しなければならない。一般の、穏やかな唯物主義的見解によれば、これら全ては、結局のところどうでもよいもの、つまり、生活を明るくはするが性格に何も影響をするほどではない、いわゆる「瑣 事」だと見なさる。こういう見解は、古代やルネサンス時代に圧倒的、に支配した思想であり、現代でも我々は強くその影響を受けている。この考え方の主な欠点は、それが真実ではないということにある。それどころか、個人や全国民を根本的に堕落させ、徹底的に神から引き離すのに、これ以上大きな影響力を持ち、またこれ以上効果的な手段はない。すでに太古の言葉(創世記四の七)が、この危険と、それに打ち勝つ正しい仕方とを、賢くも教えている🌟🌟。このような利己主義的傾向を捨てて、確固とした決心と、この傾向に強く反対する精神的関心と、さらに真の親切心とを持つことが、この危険から逃れる最良の方法である。しかし現代人の大多数は、そういう方法を取る代わりに、問題を正しく考えもしないでただ目先の印象に身を委ねている。そのために、往々眼をとじて、恐ろしい内的・外的葛藤の中に、次第に陥ってしまう。こういう葛藤のさまは、ゲーテの『ファウスト』第一部の中で、また、テニスンの『国王牧歌』ではさらに美しくかつ雄大に、描かれている。ダンテは、ペアトリーチェやピッカルダのような気高い形姿(すたが)を創り出したけれども、この問題を本当に捉えてはいない。最近の詩人たちの大部分は、芸術の影響の問題を解決するどころか、むしろ悪化させてしまった。反対に、トルストイは問題の根源を掴んでこう語っている。「美と悦楽とは、それが善から離れた単なる美と悦楽としては、厭うべきものだ。わたしはこのことをはっきり悟ったので、それらのものを捨て去った。

 🌟 「すべての金細工人は、その造った偶像のために恥を被る、その偶像は偽り物で、その内に息がなっからだ。それらは、虚しいもの、迷いの技である。罰せられ時になれば滅びるものである。

 🌟🌟 「正しい事をしているのでしたら、顔を上げたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」』

 

            清秋記: