カール・ヒルティ、『幸福論②』・「教養とは何か」171頁より: | 真田清秋のブログ

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 『(六) いったいに金銭問題で絶対に信頼できることや、金銭に対する正しい態度は、教養ある人の絶対に欠くことのできない資格である。金銭の浪費や、金銭に対する勿体ぶった軽蔑は、常に無教養の印であり、また貧しい同胞に対する不正でもある。しかも、それはたいてい見せかけにすぎない🌟。なお、不適当な倹約や、たとえどんなに些細な事にもせよ不正直🌟🌟は、教養ある人には許し難いことである。これについて聖書はまったく正当にこう言っている、「もしあなたが小事に忠実でなかったら、誰が誠のことを任せるだろうか🌟🌟🌟。

 

 🌟 金を浪費したり軽蔑したりする人に限って、目下の者や召使などにはケチなことが多い。また、僅かなチップをやらねばならぬ時があると、その後何時間もそのことで愚痴をこぼしたり、貧乏人をみんな「乞食」扱いにしたりしがちである。毎年のように見かける「スイス旅行家」の中にも、そういった連中が多い。

 🌟🌟 ごく些細な事柄についても、まったく正直だということは、確かにかなり珍しいことだ。多くの人の場合、正直を守るということは、大体、まず金銭そのものに関して、しかもわりに大きな金額になって初めて行われるものである。それと同様に、まったく無用な支出はすべて原則的に避ける人でなければ、いつも浪費に陥る危険があり、また、ただ打算一点張りで、神の祝福に頼ろうとしない者は、吝嗇になりかねない。

 🌟🌟🌟 ルカによる福音書一六の一〇・一一参照。(ヒルティの引用はやや修正されている。訳者注)

 

 金銭をそのまま人生の目的として尊重することは決してしないが、しかし、より高い目的を達成するための手段としてはそれ相応に評価しながら、極めて厳しい正直さをもって、金銭をまったく正しく使用するということは、おそらく深く教養を積んだ人の最も確かな印の一つであろう🌟。それと同時に、無闇に利得を追求し、富を崇拝することは、間違いなく無教養な人間だということを示すものである🌟🌟。

 

 🌟 だから、もちろん、教養のない人の方が教養のある人よりも、金持ちになりやすい。しかし金持ちになることそのことは、決して理性に適った人生目的ではなく、ただそれによって得られる独立だけが理性的な目標である。「金銭上のことに人情はいらぬ」とか、金のことなら最も乱暴な利己主義も通る、などという文句は、まったく間違いである。もっとも、それを初めに言い出した人も、こんにち解されているような意味で言ったのではなかったが。

 🌟🌟 使徒パウロもピリピ人への手紙四の一二において、教養の本質的な印をあげている。「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。」訳者注)こうしたことの出来るのはただ教養ある人だけである。これに反して現代の教養人は、金を失うことでもあると、哀れな、くよくよした態度に陥ったり、あるいは、利得をあくせく追求したりする者が、どんなに多いことだろう。また、およそ大きな富を気高い心掛けで利用することのできる人が、何と少ないことだろう。 

 人をこうした試煉に会わせることは、たしかに大きな冒険に違いない。

 

 (七) 同様に、教養を欠くことの十分な目印は、身分の低い人や貧しい人と交わる際の傲慢であるが、こうした態度は、えたして身分の上の者や金持ちに対する卑屈と結びついている。これは、無教養の境遇から出た成り上がり者の固有の特徴である。よく洗練された教養を持つ人は、常に丁寧で親切にあるに違いない。交わる相手が自分の目下の者、自分に頼っている人、あるいは困窮者などであればあるほど、いよいよ親切・丁寧するが、しかし、要求がましい者や上から自分を見下ろしたがる人を相手にする時は、礼を失しない程度で、粗略に取り扱うだろう。さらに、相手がただ金持ちだからというのは、前にも述べたように、自分の教養がまるで無いことを示す何よりの証拠である。

 

 (八) なおまた、無教養をあらわす比較的小さな目印はたくさんある。しかし、それも一部分はただ悪い習慣にすぎないか、あるいは、幾らか欠陥のある教育の結果だったりして⭐️、必ずしもそれをもって一概に無教養だと推定するわけにはいかない。そこで、ここに入れて適当だと思えるのは、次のようなものである。たとえば、自分のことをやたらに話すこと、他人の私事を噂すること(陰口を聞くこと)、一般にお喋り好きなこと、せっかちで、落ち着きがなく、激しやすい態度、必要もないのに、または済んでしまった事に、くどく弁解すること、相手が反対のことを言ってくれるだろうと期待して自分で自分を弁解したり軽蔑したりすること、世話の焼き過ぎ、あるいはバカ丁寧なこと、などがそれである🌟。

 

 🌟 そこで、いろんな流行り文句、それはたいてい芝居から借りて来た言葉だが、たとえば、ドイツでよく使われる「そいつは禁句之之」(Schwamm dru"her)だとか、または「どえらい」(kolossal )"「とてつもない」(riesig )などという大袈裟な形容詞は、そんな言葉をやたらに使う人をこちらがよく知らない場合には、無教養だという印象を受けやすい。また、ひどくけばけばしい服装も、やはりこれと同じ第一印象を与える。

 🌟🌟 バカ丁寧なのは、普通、教育がないとか、素性が卑しいということの一つの証拠であって、何となく胡散臭い感じを与えるものだ。最も快い礼儀というのは、全ての人に対して自然な、落ち着いた愛想よさである。これは形だけのことでなく、心持ちの問題である。しかし、概していえば、礼儀は一般に低下してきており、その反対に、今日では、たとえば旅行中など、他人に対するかなり大っぴらな無遠慮やわがまま勝手が横行している。』

 

 

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