カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」132頁より: | 真田清秋のブログ

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 『人から悪く言われるのは辛いものだ。しかし、トマス・ア・ケンビスが言っているように、人も悪口は「空しい名誉の魔の霧」から我々を守ってくれる。そして、我々の心の奥を知りたもう神を、自分の証人として、審判者として求めるよう仕向けるものだ。こうして初めて、神は我々にとって欠くことのできないものとなり🌟、我々と堅く結ばれるのである。

 🌟 ヨブ記一九の二五。

 

 だから、多くの名誉を得ても損なわれない人間になるには🌟、まずこのような屈辱をくぐり抜ける事が、特に必要である。

 🌟 ルカによる福音書二二の三七、二四の二六。ヨハネによる福音書一三の一八。イザヤ書53の12。箴言一八の一二、一六の一八、一五の三三。

 

 だから、敵を憎まなくなるには、宗教によってのみでなく、また聡明によっても、これを達しうるのである。なぜなら、今の敵は後の友となるばかりでなく、敵のおかげで多くの正しい見解を得られるからだ。ところが、初めにあまり愛想よく振る舞う者は、後でよく違った口を聞く事がある🌟。特に重大な問題で反対意見を述べるるような人たちは、常に穏やかに扱わなければならない。というのは、そのような真剣な疑問をいだく人達は、教わればわかる人達だからである。全然なんの反対もせず、聞こうともしない無関心な人達こそ、はるかに危険な敵である。

 🌟「蚊は刺す前に歌を歌い、

   初めにあまり愛想よき者は後で悪し様に言う。」(ローガウ)

 

 およそ敵に対する態度として正しい方針は、是非とも敵を全滅させることではない。そんなことは、大抵の場合まったく不可能である。むしろ正しいのは、敵を鎮撫することである🌟。このことを忘れない者は、あまりに人を憎むことをせず、また、議論をすればただいたずらに悪化するだけの事柄は、沈黙することで片づけるだろう。

 🌟 サムエル記下二一の三ことに「かつて愛した人を怒るのは、頭上に狂気を積み重ねるものだ。クロンウェルはいわゆる「小議院」で一六五三年七月四日に行った演説の中で、自分は不信者にたいして不正を行うくらいなら、むしろ信者に対して不正を行いたいと思うと述べている。

 

 それゆえ敵とは、できれば最良の、落ちついた気分で交わらなければならない🌟。心の落ち着きを失っていると、他人に対して好意のない不公平な判断を下しやすいからである。けれども、強いて相手の観心を買うために、彼らに向かって自分自身を貶(おとし)めてはいけない。あまりに度の過ぎた親切は、それだけでもう多くの人々や、いや多くの人々、いや、多くの国民にとってさえ、全くやりきれないものである。

 🌟 敵に向かって進む時は、傲慢であってはならぬ。傲慢は没落の一歩手前である。小胆であってもいけない。それは神を辱める。だが、何よりも罪に陥らぬよう用心せよ。罪は悪と戦う力を奪うものだ。悪は、己の縄張りでは大胆不敵だが、その外では無力で臆病である。申命記二三の一〇。

 

 だから人生観の絶対に相反する相手と、必要もなく、同席しないように注意することは極めて賢明である🌟。それをすると、自分の性格をいくらか失うか、それとも、そのために両者の間の溝を広げることになるからである。

 申命記三三の二八。自分が二人をひとしく尊敬するからといって、互いに反りの合わない人達を結びつけようとするのは、多くの人が陥りやすい大変間違った有効政策である。

 

 しかし、いったい何を憎むべきか。または、何もかも一切を了解し、納得できると考えるべきか。我々は到底そうし態度を奨めるわけに行かない。この世にはなお憎むべきものがきわめて多い。我々はそれと戦うことはできるし、戦わねばならぬ🌟。その第一のものは、絶対的な悪である。すなわち、悪の霊にわざと逆らい、善を善なるがゆえに迫害し、滅ぼそうとする霊である。このような霊がどこで、どんな姿で現れようとも、容赦なく、公然とこれを憎め。だが、このような霊は、その宿っている人間において、大抵は遅くとも三代か四代のうちに亡びてしまうものだ。もっとも、そのような霊がその人間の子孫において自ら変化する場合は別であるが。そして、そういう場合も実際起こりうるのである🌟🌟。

 🌟 平和的態度の限界を、ヒルシュは

「イスラエルの祈り」の中で次のようにのべている、「君がまず思想や言行において悪を避け、善を行うことによって、神への君の義務を守ったならば、その後、人との平和を求め、それを追求し、それが逃れ去る惧れのある時それを逃してはならぬ。しかもなお平和が逃れ去ろうとするならば、犠牲を払っても平和を守れ。ただ我々のもの、我々が意のままに処理しうるもの、すなわち、我々の利害、便益、要求、名誉などは、多くの場合、それを平和のために犠牲に供してよろしい、いや、そうすべきである。しかし人間とのいかなる平和も、我々が神に背き、己の義務に反する時は、これを償うことができない。むしろ、我々は世間全体の反対や敵視にも耐えて、ただ神と己の義務意識とを守り通す決心をなさねばならぬ。キリストが、自分は地上に平和を贈るために来たのではないと言ったのも、やはりその意味である。ーーしかし罪の裁きを受けた人々と戦うことは、スパージョンがその有名な説教の一つですでに言ったように、厳粛な事柄である。その場合、より高い裁きの執行者であって、自分からそれに人間的なものを付け加えることは許されず、またいささかも命令を越えてはならない。そもなければ、再び神が彼らを多少とも助けるという危険がある。しかし、それは最悪の事態であって、これに比べれば他のいかなる場合も恐れることはない。ーーユダヤの

賢者、小シェムエルはそれについてこう言っている、「君を迫害する敵が倒れても喜ぶな。彼が道義的につまずき、今や彼の正体が世間に知れ渡ったからとて、喜ぶな。さもないと、君の道徳的向上のためにこの敵を許したもう神が、君の有様を見て、君の敵に対するその怒りを取り消すであろう。」それはとにかく、人間に姿をかりた悪の死に物狂いの敵意が明らさまに自分に向けられているのを見るのは、人生における実に重苦しい瞬間である。ただ慰めとなるのは、悪がすでに裁かれていること。そして、もし悪に対して常に抵抗する意志がある限り、もはや悪はこの世において支配権を執りえないということである。

 🌟🌟 このことについてヒルシュ「詩篇注解」第一章二三五頁には、イスラエル民族の不倶戴天の敵から生まれた良き子供に関する多くの実例が挙げられている。なお、ヘブライの賢明な箴言詩人はこう言っている(箴言三の三五)、「愚かな者は高きに登っても、いつか滅びるであろう、」民主政治においては、。愚かな者に高き地位へ登る機会を与えることをしばしば余儀なくされる。そに上で初めて世人は彼らから離れるのである。

 

 神自身が赦したまわぬような、それほどの悪人🌟をさえ助けようとしたり、または前と悪との戦いにおいて善人を助けようとせず、両方に立って「不偏不党」であろうとするのは、重い罪であって、かような罪を犯す者はことごとくその報いを受けるであろう⭐️🌟。

 🌟 マタイによる福音書一二の31ー32。ヨシュア記一一の二〇。

 🌟🌟 歴代志下一九の二。

 

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 婦人との交際は、まことに厄介な問題である。というのは、婦人は人間の内部において成長しうる最善のものの道具でもあり、また最悪のものの道具でもあるからだ。すなわち、婦人は一方では無期限の享楽欲の道具であり、また、あらゆる高貴なものからの完全かつ根本的な離反の道具である。こうした離反は、女性を通じて特に若い人々の心に起こり、ついには全国民の堕落の主要な原因ともなるのである。が、また一方、婦人は、人がその自然的素質を超えて全然別個の、より自由な、より良き人生観にまで向上するのに最も有効な道具ともなる。それなのに、女性を批判する大多数の人は、彼女たちを統一ある、性質上一致した群れとして論ずる点で、誤っている。事実はむしろ反対に、女性は男性に比べてはるかに歴然と二つの違った種類に分けている。しかも一般に女性にあっては、良い性質も悪い性質も、男性に比べてはるかに不変のまま保存され、また遺伝されるものである🌟。

 

 🌟 女性は大人になると、もはや滅多にその性格の原型を変えることはない。また娘が悪い性格の点で母に似ることは、息子が父に似るよりも多い。階級や国民の全体の特性も、男子よりもずっと長い間婦人に現れて残るものだ。貴族の婦人は男子よりも一層貴族たることを誇りとし、階級の特権により長く執着する。ドイツ婦人は男子よりもドイツの国民性を純粋に代表し、フランス婦人はフランスの国民性をはるかに強く代表する。宗教上の改革に対しても、婦人は男子に比べて長く抵抗する。保守的要素は一般に男子よりも女性の方がずっと強いものである。

 

 旧約聖書はその甚だ特異な箇所で、すでに人類の最初の時代に、「神の子」と「人の娘」とを区別している「創世記六の二」。「人の娘」は外的魅力に欠けるところはないが、そのために却って呪いを受けるのである。

 こういう区別は今日もなお存在する。そこで、まず第一に助言したいのは、「人の娘」とは必要なくば交わるな、ということである。彼女たちとは決してあまり親密な関係を結ばぬよう用心せよ。まさに彼女たちの独特の魅力の虜(とりこ)となった詩人たちが、それについて何を語ろうとも🌟。

 🌟 いわゆる性愛的(エロティク)な文学の大部分は、醜い事柄を覆い隠す煌びやかな衣装である。ところが、あらゆる婦人の中で最もすぐれた、最も無私な婦人、誰でも自分にあれば愛せずにいられぬ祖母は、詩人たちに歌われることが最も少ない。また、おさない少女もあまり歌われることはない(「バルツィウ"ァル」の中のオビロート姫はそのごく稀な例である)。しかし幼い少女はーー利己的でないという点ではーー後に彼女たちが成長して、詩に様々に歌われる年頃よりも、かえって愛すべきものである。ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの「トリスタンとイゾルデ」のなかには,気高い気質の男子も、相応からぬ恋のために奴隷状態に陥るさまが実によく描かれている。しかし同様のことは、テニスンの「国王牧歌」の中で、最も気高く、最も雄大に表現されている。これこそ真の文学というべきものだ。

 

 が、他方、女性と男性との区別は、今日の政治学や教育学がそれを目指しているように、両性の教育や特に法律上の地位がもっと均等になれば、その差がさほど大きくなくなるであろう🌟。いずれにせよ、キリスト教は男女の間に差別を設けていないのである。すでに旧約聖書の誌(しる)すところでも、婦人(しかも既婚の婦人)が国の最高の地位に就いたこと、それも今日のように決して世襲的権利によるのではなく、ただその婦人の精神的価値、すなわち彼女たちに宿る霊によって、その地位にのぼったことがわかるのである。「神の霊」は、疑いもなく、あらゆるひとに宿りうるものであり、しかもこれこそ決定的なものであって、肉底性質はさほど重要ではない。

 

 🌟 だから無論、婦人に対しても、また婦人と男性との交際に対しても、我々がここに列挙したのと同じ交際上の規則が、大体において当てはまるわけである。しかし、ここでひと言付け加えておきたいのは、全然自分とふさわしくない男と関係を結んでは駄目だということが理性によってでなければわからないような女性は、すでに自分を低い人間の部類に入れているということである。

 🌟🌟 たとえば士師記四の四。なお列王紀下二二の一四、ネヘミヤ記六の一四参照。全体として見れば、女性に高い敬意を払い、女性の精神的道徳的地位の向上を重視し、しかも実際にそれを促進してきた本は聖書以外にない。キリスト教に偏見を抱いて、ただ人道主義や、哲学や、自然科学、あるかは将来の法律などに頼っている婦人たちは、単にキリスト教に対して忘恩であり、無知であるばかりでなく、いずれは彼女たち自身の期待も外れることになろう。ただ宗教のみが長きにわたって、婦人たちに人間に相応しい地位を、しかもますます同権的になっていく生活上の地位を、保証するのである。婦人がこの拠り所を捨て去るならば、たちまち彼女たちはその地位に値しないものとして男性の眼に映るのである。』

 

 

              清秋記: