カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」127頁より: | 真田清秋のブログ

真田清秋のブログ

ブログの説明を入力します。

 『交際相手としては決して愉快ではないが、しかし最も役に立つのは、敵である。それは、彼らが将来友となる場合も間々あるから、というだけではない。とりわけ、敵から最も多くの自分の欠点を率直に明示され、それを改めるべく強い刺戟を受けることであり、また、大体において、人の弱点について最も正しく判断を持つからである。結局、われわれは敵の強い監視の下に生活をする時にのみ、克己、厳しい正義愛、自分自身に対する不断の注意といった大切な諸徳を知り、かつ行うことを学ぶのである。

 だから、ある人の追悼の辞で、褒めるつもりで「故人には一人の敵もなかった」などと言ったりするが、これは愚かなお世辞である⭐️。有為な人は敵を持たずにこの人生を歩くことはできない。だが、もはや一人の敵も持たないというのであれば、むろんそれは立派である。

 ⭐️ そういう人はダンテの地獄の入口に居る人である。彼らは「恥ずかしめも誉も受けずに暮らした」人、それゆえ「正義と恵みから蔑まれた」人達である。ダンテ地獄篇第三歌。これに反して、敵の「頭に燃え盛る炭火を積」んでこれに和解することは、人間がこの地上で経験しうる最大の事である。(ローマ人への手紙一二の二〇、訳者注)

 

 だからと言って、敵との交際は容易いことだと言うつもりはない。反対にそれは、正しい生き方をする人生に与えられる最も困難な課題の一つである。ことに、敵側が引き続いて不義の成功を収めそうに見える時、それを長い間耐え忍ぶことは実に容易でない⭐️。それには、どうしても正義の神⭐️⭐️を信ずる事が必要である。神は不正の人をも自分の道具として用い、彼らにそう行えると「命じ」ながら、一方では神の欲するところを超えないように手綱を絞めることもできるのである星⭐️⭐️🌟。この信仰がなければ、害なしに彼らの不正に耐えることはできない。けれども、自分を知った人なら、おそらく誰も、自分はすでにこの術の奥義をきわめた大家だなどと主張する者はあるまい。

 

 🌟 ダンテ天上界第一七歌五〇ー54。

 「破廉恥にもキリストが市で売られる所では、

  あなたを傷つける事が必要ならば、それが実行される。

  そして罪の汚名は傷つけた者に負わされる。

  それが世の常だーーしかし神に復讐は

  よこしまな者を打ち破り、真理を告げるだろう。

 🌟🌟「人間の力や知恵のなすことを

    われらは恐れてはならない。

    神はいと高き所にいまして、

    彼らの謀をあばき給う。

    彼らいかにさかしらに企つるとも、

    神は他の道を行き給う。

    敵も、またそのよこしまな思いも、

    ことごとくあなたの掌中にあります。

    あなたはよく彼らの企みを知り給う。

    われらの心揺るがむよう、助け給え。」(ユストゥス、ヨナス「ルターの友」)

 🌟🌟🌟 このことについての本当の慰めの時は(すでに述べたように)詩篇三七、七三、同じく一一八である。神は、神に信頼する人の敵に、もれなく目をそそいでいられる。敵は、神が許さぬ害をその人に加えることはできない。だから、少しも恐る必要はないのだ。これについて聖書は実に多くを語っているが、そのうちで最もすぐてた個所をあげれば次のようなものである。箴言一六の四・七、二六の二六。創世記二六の二七ー二九。出エジプト記二二の二二、民数記一四の九。申命記二三の一〇、三二の三五、サムエル記上七の三。サムエル記下二四の一四、一五の一〇、一六の一一。歴代志下二五の八、二〇の一七。ヨブ記一の一〇ー一二、二の六。箴言二一の三。詩篇八一の一四・一五、二四の八、一〇五の一五、一二一の三。エレミヤ書一五の一九。伝道の書七の二二。イザヤ書五四の一五ー十七、五八の六、三〇の一五。マタイによる福音書五の二二。使徒行伝四の二九。ガラテヤ人への手紙六の二五。テモテへの第二の手紙二の二四。ヨハネの第一の手紙三の一四・一五。ローマ人への手紙一二の一八・一九・二一。神のみが本当に正しく行うことをできる復讐を、すっかり神に委ねうる人、また敵に対して「偽りの証をしない」人は、必ず常に、復讐が遂げられること、なお自分は敵からただ利益のみを得るということを、体験するであろう。このことを「ダビデの最後の言葉」(サムエル記下二三)も実に意味深く語っている。「卑劣なものは、風に吹き散らされる根なしの薔薇にすぎぬ、人は力ずくで取り去る必要はない。もし人の力でこの薔薇に戦いを挑むならば、無論鉄の武器や甲冑で身を装わねばならないだろう。しかし、薔薇は神の摂理の火で焼き払われるーーいとも静かに焼き払われるのである」(ヒルシュ訳による)。これが、不正に満ちたこの世における全ての善人の慰めである。

 

 このような術を習得するための最も大切な補給手段は、自ら実行して慰めを得た経験は別として、そのほか、無用な怒りをやめ、相手に不公平な判断を下すことを避け、どんな時にも決して、真の憎悪の根を心に降ろさせないという真剣な決意である。これは、侮辱を受けた最初の瞬間にはたやすく実行できるものであるが、後になって、いったん憎悪の目が胸に宿ってからは、より困難になる。そのためには、何としてもーー七度を七十倍するまで🌟ーー人を赦さねばならぬことをあらかじめ覚悟しておくのは、大変役に立つものである。こう考えておくと、初めから赦そうという気になり、したがって真の憎悪をもって決して事に当たるまいという決意が非常にしやすくなる。

 🌟 マタイによる福音書六の一五、一八の二一。ジャンヌ・ド・ラ・ナチウ"ィテの伝記の中に、フランスの聖女アルメル・ド・カンブナックの美しい言葉が伝えられている。「誰かが私を侮辱すると、直ちにその人は私の心に迎えられて、私の祈りにあずかるのです。たとえ前には私はその人のことを考えもしなかった場合でも。」

 

 なお、前述の術を学びやすくする考慮は次のような諸点である。

 真理はこの地上で常に勝利を得るというものではない。ことに、ある人間の形をとって現れ、その人のあらゆる弱点や誤りを混じり込んでいる真理は、まさにそのために必ずしも勝利を収め得ない。しかし神は勝つ。神の意志に反しては何事も起こり得ない。こうした試煉に会った場合には、このことだけが真の慰めである。

 神がある人につかわす敵は、彼らがその目的を果たした後は、直ちに取り除かられる🌟。「人の道が主を喜ばせるとき、主はその人の敵をもその人と和らがせらる」(箴言一六の七)。これこそは、神の恵みの中にあるということの、まさしく確実な印である。

 🌟 イザヤ書四の十ー十三、五四の14ー17。この場合、なお慰めとなるのは箴言十六の四の言葉である。「主はすべての物をおのおのの用のためにつくり、悪しき人をも災いの日のために造られた。」悪人も神の道具にすぎない。神は正しき者を「盾をもって守り給うように」み恵みをもっておおい守り、彼にそのことをば知らせ給う。詩篇五の一二(ヒルシュ訳)。マルコによる福音書一五の二九も同様に慰めとなる、「通りかかった者たちは、イエスを罵った。」

 

 悪に出会ったら、それを赦すよりも忘れる方がはるかにまさっている。赦すのは、まだ苦々しいあと味が残り、また「下らぬ」侮辱者を超然と見下ろそうとする一種の傲慢がつきまといやすい。恨み、遺恨、邪推は常にケチくさい心🌟の印である。それくらいなら、いっそ復讐するがよい。無力の憎悪はまったく卑しいものであり、その上、敵をではなく、ただ自分を、傷つけるだけである🌟🌟。

 

 🌟 箴言二〇の二二。

 🌟🌟 「怒りをひそかな怨みに変える者は、極めて自負心の強い人であり、やさしい心のない人である。」ヒルシュ「イスラエルの祈り」五〇四頁。箴言二四の一七・一八。

 

 敵の下す判断は、たとえあまりにも手厳しく、一方的な見方ではあっても、大抵それには正しい観察の核心が含まれている。だから、敵の判断に耳をかすのは、常に役に立つものだ。だが、それをあまり高く買いかぶったり🌟、重大に感じたりしてはいけない。ことに、敵の判断に威圧されてはならない。そういうことは常に一つの欠点である。

 🌟 「人の語るすべての事に心をとめてはならない。ーーあなたも他人を呪ったのを自分の心に知っているからである。」しかも、あなたもまた再び意見が変わった事があるのだ。伝道の書七の二二・二三。』

                               

 

                  清秋期: