カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」125頁より: | 真田清秋のブログ

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 『自分で深く考える代わりに、たえず助言を求め、しかも決してそれに従わないような人達は、不愉快な人間である。とくに結婚については、それがいいとも悪いとも軽々しく助言してはならない。また著述家に向かって、まだ出版前の著作について自分が意見を述べてはならない。さらにまた、自分の過ちはまるで悟らず、「運命に迫害された」と思っている者との交際は実に難しい。キリスト自身でさえ、彼を「裁判人または遺産分配人」にしようとした人々を、場合によっては、簡単に退けている⭐️。

 ⭐️ ルカによる福音書十二の十三ー十五。

 

 それと同時に、たえず自分のこと他人のことを反省ばかりしている人たちも、安らぎのない、信頼できない仲間である。そういう人達は虚栄心が強く、しかも弱気で、自己評価も、他人についての判断も、限りなく動揺する。彼らは誰をも愛しない、自分をさえ必ずしも愛してはいない。そして誰からも愛されない。こういう人達を避けよ。

 

 愚直で厚かましい人達に対しては、三つの自己防御の方法がある。まず粗野であるが、これは自分の品位を落とす、次は冷淡であるが、これは人間的でなく。良心にやましさを残す。それからユーモア。この最後の方法だけが、真の精神の優越を示すものだ。

 本当に恥知らずの利己主義者は、何か他人からして貰いたいことがあると、それをすることがかえって相手の人自身の利益になるのだと仄めかす手を用いる。それは、彼らが後で感謝や一切の義務を免れるためである。こうしたやり口を、決してそのまま。たとえ暗黙のうちにも、大目に見てはいけない。またもし彼らの要求に応じようとするのなら、その前にまず穏やかに事柄をその正しい立脚点に置き直す必要がある。

 

 物乞いをする者に、やはり常に与えるべきであろうか。一般的に言えば、そうだと思う。これについてのキリストの教えはあまりにも積極的である⭐️。大抵の場合、問題はむしろ「どれだけ」与えるのかにあるが、これが与える人の随意に任せられので難しい。断るにも、少なくとも乞う人に丁寧に、優しい言葉でしなければならない。優しい言葉もまた一つの施し物であって、時にはわずかな金よりも値打ちを持つことすらある。しかし、それも学ばねば出来ないことであり、また非常に大切な術でもある。

 ⭐️ マタイによる福音書五の四二。「物乞いの禁止」は、実際物乞いする必要が全然ないように配慮されているならば、まことに結構である。ともあれ、物を与える場合は、いつも初めから忘恩を覚悟していて、その反対の場合は例外と考えなければならない。何かを拒絶せねばならぬ時には、簡単に、すらすらと、言葉数を少なく、しかし親しみある調子で断らなければならない。その反対は、ただ相手を怒らせるばかりだ。「あなたはよく喋るが、最後に断るためだ。相手はただ((いや))という言葉だけしか耳に入らない。」(ゲーテの「イフィゲーニエ」)

 

 これに反して、喜んで与えることは幾分は習慣であって、それは子供達に幼い頃から習わせておかねばならぬことである。よく行われるように、子供達にただ一方的に節役だけを躾(しつ)けるのはよくない。節約は自分に向かってなすべきで、他人に対してなすべきではない。

 このために一つの方法は財布を持たないことだ。財布よりポケットの方が手を入れやすい。人との交際で一般に、多くの不都合が起こるのは、善に対するただの怠情、あるいは安逸のためである。

 

 世間で認められ、誰から褒められる人は大抵、落ちついた、かなり義務に忠実なーー利己主義者である。彼らの道を踏んではならない。

 真に気高い人々、すなわち、このようなただのブルジョアに対する精神の貴族たちは、常に敵を持ったのである。

 

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                     清秋記: