カール・ヒルティ、『幸福論②』、「人間知について」92頁より: | 真田清秋のブログ

真田清秋のブログ

ブログの説明を入力します。

 『人間を知ることの真の秘訣は、出来るだけ虚栄心を離れた純粋な心を持つことである。そういう人は、あらゆる仮面を貫く鋭い眼を次第に養うことができる⭐️。人間知の得難さは、例えば「心理学」というような学問の精妙さの究め難さにあるのではなくて、もっぱら自分の自我を捨て去ることの難しさにあるのだ。われわれが或る人に望むところがあったり、恐れるところがあったり場合、決して人を知ることはできない。彼に対して囚われのない自由な態度を取ることができないからである。

 ⭐️ すでに中国の老子(紀元前六〇〇年)は「人間愛と虚栄なき心とは、人々に対して、自由かつ公平ならしめる」と言っている。自分のために何物も欲せず、また求めない精神だけが、人間や物事を真の客観性において理解することができる。なお箴言二〇の一二、二一の二、二一の三〇、二二の一〇を参照せよ。もちろんこれで人間知へ到る道が示されたわけではない。人間との正しい関係や、されには利己的な底意を離れて真に人を喜ぶ心は、神的な愛によってのみ生じるのである。自然のままの人間は、同胞を恐れるものであって、たまたま人を愛する場合は、ただ利己的な原因によるか、相手が愛してくれるからという意味で、そうするに過ぎない。しかし神的な愛は神の最大の恵みの一つであって、人が自分で自分に与えたり、あるいは手に入れたりすることはできない。人が己の意志を神に委ねて、神が御心のままに彼を導くことができる時にのみ、神的な愛は生まれるのである。だが、その前に、中世の神秘家たちのいわゆる「ほろびの荒野」を通りぬけ、また、これまでの頑なな心を溶かす灼熱の炉を潜らなければならない。

 

 また予言的天分なるものも、もともと人間の諸関係やその原因結果に対する特に鋭い、まったく正確な眼力に他ならないのである。こうした洞察力は高度に自分自身から脱却した人ならば、誰にでも宿るものである。ところが、利己心は、霧のウ“ェールのように、さもなくば本来存在すべき善のこうした眼力を妨げれしまうものである。

 それゆえ、人間を正しく判断して、それに基づいてなされる人間との交際は、多くに人が信ずるように、人間との交際を重ねることによって学び得られるものではなく、むしろまず第一に、神との交わりを通じて学ばれるのである。そのように神と交わるようになって、初めてわれわれは、善悪いずれの上にも日の光を注ぎたもう神の正しい眼をもって、善をも悪をも誤りなく観察し始める。ところが神を信頼しないならば、常に人間を当てにしなければならず、そうなれば、また常に彼らに失望を感ぜざるを得ないだろう。

 さらにまた、人間には、とりわけすぐてた人間には、崇拝の欲求が存在するものだ。そういう人達のうち、しかもなお超感覚的なものを崇拝することのできない人々は、偉い人物を自分の空想で作り上げ、このような自己欺瞞を繰り返すうちに、真の人間知を得るに必要な感覚をすっかり失ってしまうばかりでなく、彼らの崇拝する人がまだ生きていて、その人自身も人間をよく知らない場合は、その人にも害を及ぼすことになる。神に対する信仰がなくなれば、たちまち個人崇拝に陥いることは避け難く、それは人間性の内的および外的自由に色々な不利益を与えるものである⭐️。

 ⭐️ しかしこれは、「あなたは私の他に、何物をも神としてはならない」という第一の誡命にそむくものである。そのような崇拝を受けた人々に向けられた古代の「神々の妬み」は、そういう英雄崇拝が正当でないという、真面目な人ならば誰でも抱くはずの、極めて正しい感情を現したものに他ならない。したがって、このような偉人崇拝は、どのような個人の場合でも、その人の神の信仰がまだ完全に正しいものになっていないことを間接に示す確実な証拠である。他方、人々の間で支配者となるべき真の資格、それゆえ正当な尊敬を受くべき真の資格は、もっぱら利己心を持たないということである。創世記二一の二二、二三の六、二六の二〇ー二九。利己主義者は決して神の恩寵に預かることができない。』

 

 

               清秋記: