カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」89頁より: | 真田清秋のブログ

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 『人間を知り、人間を正しく判断することがわれわれの実生活にとって極めて大切だということを、仮にも本気で疑ってみた者など、まだ一人もいないのである。ところが、人間を知ることが果たして人を幸福にするかどうかについては、すでに古くから意見はまちまちである。一方では、人間を愛するのは、結局人間を知らない人だけだと主張する者があるかと思えば、他方では、ゲーテの「タッソー」に出てくる大公のように、人間を知らない者だけが人間を恐れるのだと言う人もある。だが、ゲーテ自身は、彼が残した他の言葉から判断すると、こういう意見からもまた幾分離れているように見える。というのは、人間を知ることほど興味あることはないが、しかし自分自身を知ろうとするのは用心しなければならぬと言っているからである。

 

 われわれとしては、まず次のように信ずるのである。すなわち、あらゆる人間知は、自分自身についての知識をも含めて、ただおおよそこのことを知るだけであって、人間の魂の奥底、ことに善悪いずれかに向かうその可能性にぎりぎりの境界については、それを完全に知るものは神のみである⭐️。だが、それと同時に、こう言えば初めはちょっと奇妙にも聞こえようが、人間知はもともと厭世観の地盤の上に立つものである、もっともそれは、深い人間愛と結びつくのではあるが、人間を何かすぐてたもの、偉大なものと思うもの、その職業やその若干の素質からばかりではなく、その本来の能力や実績からもそうだと考える者は、その人がいくらかでも賢明であれば、おそらく幻滅をもってその生涯の経験を閉じるに違いない⭐️⭐️。ところが一方、最も完全に人間を知る人々(キリスト自身その第一人者である⭐️⭐️⭐️)は、常に人間の友であることもまた、同じく経験上明らかである。なぜなら、こういう人々は、およそ人間を生まれながらにして自由で高貴なものとは考えないが、しかし自由に到達すべき、また気高い人生を形成すべき使命を与えられたものと考え、したがって人間をばその数々の欠点にもかかわらず、いや、むしろまさにその欠点ゆえに愛することができるからである。それというのも、他ならぬその愛、少なくともこの世にあり、この世のためにある愛には、同情、援助、慈善の要求が直接に宿っているからである。

 ⭐️ 心理学は、確かにこれからも、極めて著しい発達を遂げるであろうし、将来の哲学の主要な成分と見なされるであろう、しかしそれにもかかわらず、常に不完全な知識であることに変りはないであろう。精神病理学も同様であり、いや、おそらく心理学以上に不完全であろう。

 ⭐️⭐️ 宗教的基盤に立たない、いわゆる「人間の友」は、ほとんど全てがこのような運命に落ちるのである。

 ⭐️⭐️⭐️ ヨハネによる福音書一の四八、四の十九、二の二十四・二十五。

 

 ここから、あらゆる人間知の第一の前提が生まれてくる。すなわち、人間を知ることは、人を観察する者がまず確かな自主性を持ち、また何らの欲望も抱かぬとき、つまり観察する者の側で一切の利己心をできるだけ完全に捨て去る時にのみ可能である。自分のために他人から多くを望む者は常にそうした利害目が眩むであろうし、また、どうしても他人を必要とする者はたえず人間を恐れることになるであろう。ところが、人から何かを受けとるよりも、むしろ人にために何かしてやりたいと望む者だけが、恐怖をも、また過度の愛情をも抱くことなく、あるがままの人間を真に知ることができる。こうした人間知をもってすれば、たとえどんな酷い仲間と一緒でも、人間嫌いにならずに、それに耐えて行けるのである。さもなければ、弱虫でない限り、誰でも普通人間嫌いになりがちである。もしも、愛を持たずに人間を徹底的に知り尽くした人があるとしたら⭐️、これこそ実際やりきれない人間であろう。自分は人間を知り尽くしていると称し、しかも人間嫌いであるような者を、ひどく嫌うのは当然であり、それは自己防衛の権利に基づくものである。だから、読者よ、諸君の幸福の家を人間知の上に築いてはならない。むしろ諸君は、人々の幸福をもっと増進するために、人々を正しく判断しうるようになりたいとのみ望むべきだ。こうした心構えなしには、諸君は人を知る術においても、決して大きな成果を収め得ないであろう⭐️⭐️。

 

 ⭐️ だが、そういう人は実際には存在しない。愛を持たない人はいつも自分の狭い判断にすっかり囚われていて、人を利用する腕前にかけてはさらにうわ手の連中にいともたやすく騙されるのである。

 ⭐️⭐️ こうし理由からして、人間の交際を論じたもののうち、単にいわゆる「人道(フマニテート)」の基礎の上に立つもので、あるいは利己的目的のために人間知を教えようとする者は、すべてあまり価値を持たない。ことに一七九六年に死んだクニッゲ男爵の当時有名だった小著「交際について」や、ツィンマーマンの「孤独」(一七七五年、一七八四年、および一七八五年版)などは、人間知を利己的目的のために説くものだとの非難を免れない。一般にわれわれの祖父たちは、人間をよく知っていたとは言えない。フランス革命の指導者たちばかりでなく、当時の著述家たちも、人間に対する感傷的心酔に陥るか、それとの暗い、理由のない人間嫌悪を示すかした。時にはこの二つの間に動揺する者もあった。そもそも人間知は得られるものとして、それを得る第一歩は(ゲーテの見解とはまったく反対に)、自分を知ることと、自分を善くすることである。第二は、人間をば、自分のためでなく、彼らのために知ろうという決心である。そして第三は、前にも述べた通り、人間についての完全無欠な知識を期待してはならないことである。というのは、人間というこの恐ろしい複雑な存在は、自分自身を決して知らないか、あるいは、せいぜい晩年になっていくらかわかるに過ぎず、しかも他人とまったく同じ個人は一人もいないのが普通だからである。だから、われわれはむしろ、経験上の個々の結論が相当に得られたらそれで満足しなければならない。われわれは後で、そうした結論の二、三を読者に提供して、読者が自らそれについて熟慮し、補足しうるようにしたいと思う。』

 

 

                 清秋記: