カール・ヒルティ、『幸福論②』・「わが民を慰めよ」68頁より: | 真田清秋のブログ

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 『われわれの時代のさまざまな害悪に接しながらも、自分ではあまり痛切に苦しむ必要のないような人達は、多く、そうした害悪について暗い考察をめぐらした末に、好んでパウル・ゲルハルトの有名な詩句を引いて自他の慰めとする、「神、世をおさめてすべてを幸いになし給う⭐️」と。果たして、この詩人自身が、いま一般にそう解されているように、「すべてを」という言葉にそれほど強くアクセントを置いたかどうか、われわれにはわからない。しかしキリスト教がこの楽天主義を正しいと認めないことだけは、確実にわかっている。

 ⭐️ これは、「お前の道とお前の心を悩ますものを神にゆだねよ」という言葉で始まる、あのすぐてた慰めの歌の中の一節である。

 

 人間のあらゆる愚かさと邪悪とにも関わらず結局一切がよくなる、というわけにはいかない。いや、むしろ、人の世のすべてが終わるまで、善と悪、正と不正とが相並んで存続するであろう。このことは、マタイによる福音書13の24ー30・37ー42において、キリストのこの上なく明白な言葉が断固として確信しているところである。

 キリスト教の理想主義は、皮相な楽天主義とまるで違ったものである。むしろ、キリスト教の理想主義の信ずるところは次のような点にある。すなわち、この世におけるあらゆる真に善なるものは、反対の人生観が持っている絶大な権力や暴力に比べると、至極ただの姿で存在するに過ぎないけれども、決してそういう対立する力によって押しつぶされることなく、常に、全てに敵に対抗して勝利を収めるということである。このことこそ、キリスト教信者に与えられる慰めであって、たとえそれがに日毎に経験するあからさまな事実によってどのように否定されようとも、彼等は少しも気にしないのである。そしてまた、聖書の中の多くの言葉は⭐️、ややもすると、この教えによって外的権力や光栄が得られるとでもいうような世俗心に近い意味に解釈されがちだけれども、そのような聖書の言葉の意味はもともと右に述べたような理想主義であり、そしてまた宗教改革の抗戦期に作られた最も美しい有名な二、三の歌の意味も、また同じくそうである⭐️⭐️。

 ⭐️ たとえば、ルカによる福音書一二の三二の「恐れるな、小さい群れよ、御国(みくに)を下さることは、あなた方の父の御心である」を参照せよ。これがどんな国であるかは、のちにルカによる福音書17の20・21に明確に示される。

 ⭐️⭐️ たとえば、いわゆるグスタフ・アドルフの軍歌「ひるむな、なんじら小さな群れよ」(牧師フォン・アルテンブルク作、1604年没)とか、ルターの歌「神はわが堅き櫓(やぐら)」などがそうである。

 

 ところが、キリスト教が「この世」と呼んでいるものの力はきわめて強大であり、しかも、上は高尚な無神論哲学のこの上ない僭越から、下は残忍きわまる利己主義の最もいやしい本能に至るまで、およそこの世を構成しているあらゆる要素の結合はきわめて緊密である。その上、人間の心は、それ自身はなはだ不安定であり、時にはあまりにも高ぶるかと思えば、時にはあまりにも臆することがあって、善の道具として力強く働く人々の生涯においてさえ、彼等の使命や考え方全般について絶望に陥る時がある。そういう絶望を、神は「恐るな、沈黙するな」と言って、繰り返し取り除かねばならないのである⭐️。

 ⭐️ 使徒行伝一八の九。創世記一五の一。何事にかけれも悪い人間が栄えるのを現に見たり、あるいは見ると思われたりするという点にも、しばしば誘惑が潜んでいる。これに対しては、詩篇第三七篇と第七三篇とが、経験豊かな詩人の与えるまことの慰めの歌である。その箇所にメモを挟んでおいて、自分がこの詩と反対の観察をした時、それらを残らずこれに記入するようにしておくとよい。そうすれば、十年も暮らしたのち、その歌に歌われている経験が、今日でもなお幾度となく立証されているのを知るであろう。』

 

 

                  清秋記: