カール・ヒルティ、『幸福論①』289頁より: | 真田清秋のブログ

真田清秋のブログ

ブログの説明を入力します。

 『さて親愛なる諸君よ、以上のことが実現されるまでは、とにかく諸君はこれらすべての道の中から、諸君の道を選ばねばならぬーー真理に対する諸君自らの認識のため、諸君自らの真実の幸福のため、または諸君が住む社会の福祉のためである。これらの道を、人は哲学と呼び、宗教と名づける。しかし、これらが真理と幸福とに人を導かないなら、なんら実質的な価値はないのである。もし諸君が正しい道を誤り、そのために内心の平和と満足とを欠くのであったら、諸君はおのれの運命をかこち、世を儚むことはない。諸君はむしろ、現代の厭世主義を徹底的に軽蔑するがよい。この厭世主義は、たいていの場合、倫理的欠陥と道徳的弱点とにもとづくものであり、決して偉大なものではない。もし諸君がここに進められた道をおそらくまだ充分信ずることができないなら、私はそれをよく理解する。つまり諸君は、まだ真面目にそれを試していず、またおそらく、その帰結を残らず自分の上に受け取ろうと決心していないからである。

 時おり、少しばかり哲学的冥想にふけり、なんらかの哲学「体系」を信奉するとか(これは今日、なんらの困難な道徳的義務をも伴わない⭐️)、あるいは充分な健康をもって人生を享楽するとか、または、今日多くの人がやっているように、ただ表面的に、何の矛盾もなく、単純にある教会に所属するとか、こういったことはなるほど、人生のあらゆる大問題と取り組んで自分で深く考え抜いて、自ら独立の確信を得るよりも、たしかに容易である。けれども、この最後の道を忍耐強く歩いてきた人は皆、遂には、彼等の求める真実の喜び、死と生とに対する力、自分自身との完全な調和⭐️⭐️、さらにまた世界全体に対する自己の正しい地位を見出したと告白している。だが、諸君の魂もまた、意識的あるいは無意識的にこれを求めているのであって、これなしには、その他のこの世の財宝や享楽をもってしては、諸君の魂は決して満足しないのである。

 ⭐️ この点では、近代医学は概してきわめて寛大であって、古代のストア主義とははなはだ遠いものがある。ただショーペンハウエルの小論文を読めば、もう純然たる唯物論者に語る必要はなくなる。ショーペンハウエルが読者に強い感動を与えるのはーー彼の全体の調子にむしろ反感を覚えるはずの婦人たちでさえ、時にはこれを認めて称賛しているーー、虚偽の見せかけだけのものに対して彼が激しい嫌悪を示したからである。彼はその小論文においてしばしば、きわめて巧妙に、時代の偶像をいささかも顧慮せず存分にその嫌悪をぶちまけているのだ。人間天性のより良き一面は、真実を強く求めるものであって、外観や虚偽に対するこのような力強い抗議はすべて、人の心に反響を呼び起こし、開放的に作用するのである。人は何を自分の人生目的とするかを宣言することによって、おのれの口からおのれ自身に判決を与えずにはすまない。それより他にはできないのである。あらゆる時代を欺き通すほどの、完全に成功した偽善というものは、この世には滅多にあるものではない。

 ⭐️⭐️ イザヤ書四〇三一、エレミヤ書十七の五ー八参照。

 

 人はすでにただ肉体の健康のためだけでも、いわんやおのれの内的外的の幸福全体のためならなおさら、実に色々なことを試みるではないか、跣(はだし)で歩きまわったり、濡れた布にくるまって眠ったり、あるいは巡礼だの、祈祷習慣だの、その他これに類する「宗教的苦行」を容易に堪え忍ぶのであるが、それらはなお単純な信仰のごくささやかな表現に過ぎない。彼等はどんなことでもしょうと覚悟している。すでに幾千の人々が、彼等の魂を救うために、実際どのような骨折りをも、実に馬鹿馬鹿しいことをも、精神および肉体の極度の努力をも、拷問や死の危険さえも、あえて厭(いと)わなかったのである。しかし魂を救う道は、もっと手近で、ずっと簡単である。最後に、宗教改革時代のある学者が、これについて言った言葉を聞くことにしよう。もっとも、彼自身はこの道を最後まで完全に歩き通したわけではない。つまり、肝心なのは、この道を知ることではなく、この道を歩くことだ、ということのよい証拠となり、記念となったわけである

 (彼はキリストの口を借りて言っている。)

 

 「どうして人間は、そんなに愚かなのか、

  神の言葉を信じないとは?

  私は私の約束をかたく守り、

  それを果たす力を充分に持っている。

  それにしても何と愚かな人たちであろう。

  いつも私を疑うとは?

 

  私は慈(いつく)しみの心をあなたに寄せる、

  それなのに、なぜ私のもとを訪れないのか、

  私こそはすべての罪を赦(ゆる)す

  確実な、自由の場所なのに?

 

  されば、おお人間よ、私を忘れて、

  あなたの盲目があなたを死に導いても、

  私を責むるな、私に訴えるな、

  あなたは己の好むままに振る舞ったのだから。」』

 

 

              清秋記: