カール・ヒルティ、『幸福論①』275頁より: | 真田清秋のブログ

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 『すなわち、ここに「道と真理と生命(いのち)⭐️と」があり、ただ頭の中の幻想ではない。歴史に根底を置く、真実の哲学がある。ついでに言うが、この道は多くの案内者や同伴者がないほうが、おそらく一層楽であろう。個々の魂はしばしば、あまり煩わしい「導き⭐️⭐️」のない方が、かえってよくこの道を見出すことがあろう。ところが、人はすでに幼い頃からそのような指導を受けて、むしろそれに嫌悪(けんお)を感じていることが多い。この道は何よりもまず深い安心⭐️⭐️⭐️に導き、安心はさらに、自ら進んでこの道を究(きわ)める勇気と、どんなことがあってもこの生活は無益に過ごされないだろうという大きな確信とを与える。次にまた、この道は、精神的健康に⭐️⭐️⭐️⭐️に、またしばしばそれによって肉体的健康に導く。というのは、肉体的健康はより多く精神的健康に依存するからである。これは、今日の医学が考えているのとは逆であるが、人間を健康にし、かつ健康を保つという医学の任務は、単に物質的手段をもってしては決して充分に果たされるものではない⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️。

 ⭐️ ヨハネによる福音書三の三六、六の六八、一四の六参照。

 ⭐️⭐️ ルカによる福音書一八の一七、一一の四六、二〇の四六参照。

 ⭐️⭐️⭐️ 箴言一四の二六、イザヤ書四〇の三一参照。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️  あらゆる種類の蒐集、政治活動、スポーツ、その他の現代の多くの道楽は常に、人生の本当の任務と取り組まない、したがって自分自身と調和しない心情の証拠である。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ 精神は決して肉体に依存すことなく、むしろ反対に、肉体にきわめて強い影響を与えるものだというのが、少なくともキリスト教の霊肉結合の見方である。マルコによる福音書九の二三・二九、ルカによる福音書六の一九、使徒行伝二八の六参照。それゆえ、ある古い聖歌は言っている。

 

 「魂のよろこびに

  まさる喜びはなし。

  これによりて枯骨もなお芽をふく。

  この喜びを、わが主は常に、

  われらのために増したもう。」

 

 甚だしい欠陥をもつ純唯物論的な過渡時代が終わったなら、多分また、このような思想も次第に、科学の世界で重んじられるようになるだろう。

 この道はまた、社会の健康にも導く、それは、なんらかの目的⭐️をもってなされる大衆の絶え間ない煽動(せんどう)によってではなく、大衆を構成する個人の一人ひとりが健康によってなされる。それでこそ初めて、全体の本当の「治療」が得られるのである。そうでなければ、それは大抵の場合、人を欺く希望に過ぎない。

 ⭐️ この目的は煽動によって必ず変質するので、そのためにしばしば、すっかり損なわれることがある。ルカによる福音書一七の二〇・二一。

 

 なおまたこの道は、真理を得たいと望み、そしてあらゆる価を払って誠実にこれを求める全ての人々に、その内的満足を通して、常に争う余地のないほどに明白に自らを証明する⭐️。

 ⭐️ ヨハネによる福音書一の一二、四の一四、六の三五・三七、七の一七、八の一二、九の二五・三九参照。しかし、一見熱心に真理を求めて努力するように見える人々が、必ずしも皆これを長く欲求するわけではない。ヨハネによる福音書三の一九、ルカによる福音書一六の一四・一五。』

 

 

              清秋記: