『眠られぬ夜のために①』六月十二日: | 真田清秋のブログ

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 『人間の経験などというものは、実つ大きな幻影にすぎない。その滑らかな表面の下に隠されたものを、誰も見ないし、また見ようとしない。ただ時折、この外皮に突然裂け目ができて、神が身給う通りの内部の実相が示される。だから、ほとんどすべての人の判断や、さらにすべての伝記類は、ただ半ばしか真実ではない。これは皮相のことに触れているにすぎない。

 とはいえ、人間的公正さえも、十九世紀の文明の「成果」を一方的に讃美した反動として生じたあの政治的ペシミズムの影響のもとに、それが今日一般に考えられているよりも、ずっとすぐれたものである。だから、広く世に知られた人物の死後まもなく、その人について作られる世評は、決して伝記などではなく、大体において正しい意見であって、たとえ直ちに声を大にして喧伝されなくても、いつまでも長続きするものである。

 悪い人間であって、しかも長く名声を保ったという例を、少なくとも私は、歴史上ただ一つも思い浮かべることができない。その逆の場合の方が多いとすれば、それは明らかに何よりもまず、良い人間もまたしばしば弱点を持っており、あるいは重大な誤りを犯しかねないということに、基づくものであろう。それでもなお、その人たちの根本的性質が善いものであれば、そのような誤りも許されれのである。いわゆる教父たちから宗教改革者に至るまで、教会のほとんどすべての有名な教師たちが、その善い例である。ビスマルクやゲーテやフリードリヒ大王もやはり同様である。

 ここから明らかに知られうるのは、人間の胸の中には正義へのやみがたい要求が存在するということである。しかもこの要求は、真に実在しており、かつわれわれが生死をかけて信頼するところの、神の正義の余韻(よいん)であり、その働きにほかならないのである。

 箴言一〇の七。』

 

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