『幸福論①』、「幸福」219頁より: | 真田清秋のブログ

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 『徳は幸福ではない。何よりもまず、清廉(せいれん)なロペスピエールが讃えたこの偶像を捨てよ。徳というものは、人間の自然のままの心に住むものではない。常に自分自身に満足している⭐️ためには、徳の観念などはほとんどいらないし、ごく狭い頭脳でたくさんである。最も虚栄心の強い人でさえ、結局やはり自分に満足しているわけではない。虚栄心はだいたい、自己の価値に対する判断の不確実さから生ずるもので、絶えず他人の確認を必要とするものである。

 ⭐️われわれは勿論そのような読者を持ちたいとは思わないが、しかし、もしそういう人があったら、どうぞ一度モーゼの十戒や垂訓のような簡明この上ない道徳律を熟読していただきたい。そしてなお、あの富める青年と同じように、「それらのことは、子供の頃からみな守ってきました」ということができるなら、その時は、その青年に起こったと同じことが、あなたにも起こるであろう。すなわち、一つの要求があなたに迫ってきて、あなたはそれから逃れることができず、結局あなたは大きな恥を受けることになろう。

 

 常に義務に忠実な人のやましくない良心は柔らかな枕だ、と諺にいわれている。われわれは、そうした良心の持ち主に祝福を送ろう。しかしわれわれはまだ、そいう方にお目にかかったことがない。われわれの意見によれば、いまだかつてただの一日でも、おのれの義務を完全に果たした人は一人もいないのである。このことについては、今はこれ以上述べない。わが読者の一人が、ところが自分がその人だ、というのなら、あるいはそうかも知れない。が、われわれは彼と懇意になりたいとは思わない⭐️。人はその義務を履行する点で進歩すればするほど、ますます義務に対する感覚と識別力とが鋭くなってくる。それどころか、義務の範囲そのものが彼にとって客観的に広がってくるのだ。使徒パウロが自分のことを「罪人のかしら」と言った心も、そういうわけで、われわれにはよく分かる。それは確かに正直な告白であって、決して虚偽の謙遜ではないのである⭐️⭐️。

 ⭐️ なお良心とても、普通に人が思うほど確かな案内者ではない。サン・ジュストは彼が自ら保証したように、事実、やましくない良心を持っていたことを、われわれは信ずる。しかし、多妻主義の回教徒もこれを持っているし、残酷な復讐をするアルバニア人もまたこれを持っている。アルバニア人は、彼の種族の敵を殺さないために、良心の呵責(かしゃく)を感ずるだろう。ドイツの古い宗教叙事詩「救世主(ヘリアント)」を読めば、これを書いたゲルマンの善良な牧師が、「敵を愛せよ」「右の頬(ほほ)を打たれたら、左の頬を出せ」というあの掟を、同民族のドイツ人に理解させるのに、どんなに骨を折ったかが知れるが、これで見ても、良心というものが決して信頼するに足る標準でないことが分かる。

 ⭐️⭐️ やましくない良心は確かに結構なものであって、われわれは決してこれを軽く見るつもりはないが、しかしそれは本来、良心の咎めがないという意味で、どこまでもただ消極的なものである。これが積極的な自覚となる時は早速、その自覚を持つ人自己是認に導くことによって、彼を損なうものである。』

 

 

             清秋記: