関係者の方、読者の方で時間のある方はぜひお付き合いください。
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生まれた時から実父の記憶はない。
実父は私の生後半年足らずで居なくなったらしい。
母も基本仕事で家には居なかった。
子どもの頃から学校帰りは家ではなく母方の本家に行っていた。
本家には母方の祖父母と正嫡となった叔父と叔母、その子ども達がいた。
因みに私の母が長女で叔母が次女だ。
子どもの頃は叔母が母親代わり、祖父が父親代わりだった。
叔母の娘2人とは兄妹のように育った。
祖父は地元の名手で県の幹部職員を定年退職した後、80歳手前まで様々な企業の顧問や相談役を務めていた。
とにかく実力主義の生え抜きで、引退後も市長の選対本部長を歴任し、キャリアを讃えられ天皇陛下にも表彰されたような方だった。
祖父には最後まで本当に世話になった。
話は戻るが子どもの頃、学校終わりに本家が留守で施錠されている時もあった。
そんな時は勝手口から本家に入ったが、当然勝手口も施錠されてるこはよくあった。
私は一人っ子だったが、母から実家の鍵を持たされたことは無かった。
「勝手に家に入られて汚されては困るから」
という理由だったが、学校が早く終わり本家も施錠されている時は空腹が敵だった。
どうしても空腹に耐えられない時は、通学路沿いの家になってる木の実を拝借してり、雑草を食べたり、家の庭の赤土を食べたりした。
たまの母との時間は、敢えて迷惑をかけた。
今思えば構って欲しかったのだろう。
母が組み立てたLEGOの城を壊したり、プレゼントしてもらった大きな犬の縫いぐるみを赤いボールペンで滅多刺しにしたりした。
小学生低学年の頃だが、愛情に飢えていたのだろう。
ところで、名刺交換の折に芸名ですか?とよく聞かれる私の本名も、ファーストネームは実父が命名したものらしく、私は未だにその由来を知らない。
そもそも、実父の存在を知ったのも、私が20歳を過ぎ、仕事の関係で戸籍謄本を取った時だ。
昔から母は肝心なことを私に言わない。
実父、と敢えて表現しているのは、養父の存在があったからだ。
とはいえ、その養父も、小学校高学年の頃に
「単身赴任していたお父さんが帰ってきたよ」
と母に紹介され(もちろん嘘なのだが)、実感も持てないまま他人行儀な養父との関係が数年続いたが、中学生に上がると突然その関係も切れた。
覚えているのは養父が出て行く時のフォルクスワーゲンのテールランプくらいだ。
20歳を過ぎて彼が実父ではないと知り、色々納得をしたことがあった。
小学生5.6年生の頃、養父に生意気を言って養父と喧嘩になった時、本気で殴り合いになった。
小学生と40代の成人男性なので、MMAでいうところのマウントポジションをすぐ取られた。
母が止めなければどうなっていたか。
養父が母と話をしてたのをたまたま耳にしたこともあった。
養父は、
「あいつ(私のこと)、本気で○してやろうと思ったわ」
と言っていた。
母は笑いながらフォローしていた。
子どもながら耳を疑ったが、今になって思えば、それだけ私が生意気だったのだろうということだ。
家族でも、所詮は他人なのだなと子どもながら冷めた瞬間でもあった。
つづく。