『ボタン』(やや閲覧注意)
目を覚ますと病室の中だった。
僕は病院のベッドに身を横たえ、呼吸を補助する装置をつけていた。
ぼんやりとした頭に少しずつ記憶が戻ってくる。
僕は自転車に乗っていた、友達の家に行くために横断歩道を渡ろうとしていた、そこにトラックが曲がって来たのだ。それからの記憶はブツ切れになる。
悲鳴のようなブレーキ音が聞こえた気がする。風景が回転して地面が耳の真横についた。
足に何とも言えない感触が走った。人が集まってきた、車がやってきた。僕は…。
「気づいたのね」
すぐそばで鈴を鳴らすような声がした。
「気分はどう?」
僕は目をうんと寄せて声のする方を見た。首がガチガチに固まっている。ギブスがはめられているみたいだ。声の主は僕の方に顔を寄せてきた。「まだ動かないほうがいいわ」そう言いながら僕の顔や手足を触る。僕の目はなかなか焦点が合わない。最初に見えたのはボタン、シャツの胸元のボタンだった。病室のベッドのシーツと同じ素材なんじゃないかと思うような真っ白なシャツ、そのはちきれそうな胸元をしっかり止めたプラスティックの半透明のボタン。僕がこの病院で最初に目にしたのはそんな風景だった。
そこは小さな病院だった、医者が一人、看護師が一人、コンクリートの灰色が薄汚れたビルのワンフロアに病院をかまえていた。僕に声をかけた女性はそこのたった一人の看護師だった。僕の容態は悪くずいぶん長く生死をさまよっていたらしい。僕を轢いたトラックはそのまま逃げ去って行方知れずということだった。僕は軽い記憶喪失になっていて、自分の名を思い出すのに数日かかった。僕の名はイアン・レトリックという。
患者が少なかったことが幸いして、僕は一番いい病室に入れてもらっていた。白いカーテンに遮られた清潔なベッドのある大きめの個室。設備も一番多く入っていて、この病院に一台しかない機械類が勢ぞろいしていた。
僕の脚は複雑に折れてしまっていて歩けるかどうか難しいところらしい。もっと困ったのは両手で、感覚が麻痺してしまい、物を掴むことはおろか持ち上げるのも大変だった。地獄のようなリハビリが僕を待っていた。
「イアン、頑張って」僕の腕を支えてスプーンを掴ませてくれるのは看護師のアリシアだった。最初に病室にいたのも彼女で、目を覚まさない僕をつきっきりで看病してくれたのも彼女だった。
「自分で食べられるようにならないと、今日のご飯は無しよ」そうやって彼女はいつも脅す。だけどそれは嘘だった、彼女はリハビリの最後にいつもちゃんと食べさせてくれる。「早く動くようになるといいわね」彼女は僕の手を愛おしそうに撫でて、食事が済むと食器を片付けて病室を出ていく。
病院の医師は六十歳になろうかという髭の生えた老人だった。僕の病室を訪れては容態を見る。この病院には現在三人の入院患者がいるそうだ。一人は少しばかりボケた老人。もう一人はノイローゼの患者。どっちも家族に持て余されて体良くこの病院に放り込まれているらしい。三人のうち一番の重症な患者は僕だったが一番金にならないのも僕だった。僕はだんだんと記憶を取り戻していった。僕は手の付けられない悪ガキだったらしい。オヤジや母親に殴られては、腹いせに弟や妹を殴っていた。事故の時に乗っていた自転車は盗品で、僕が事故を起こしたときにオヤジは「そのまま死んでしまえばよかったのに」といって手術代や入院費の支払いを拒否したそうだ。
白いベッドに横たわって、僕はぼんやりと病室の天井を見上げた。手足の感覚がない、これで飛んだり跳ねたり、気に入らない奴を殴ったり、バスケをしたり、万引きしたり、走り回っていたなんて嘘のようだった。だんだん自分の記憶を取り戻すと、このまま寝たきりで看護師のアリシアの世話になるのも悪くないなと思うようになった。
アリシアは逆に看護師らしくリハビリを進めた。僕がワルだったのも、家族関係が最悪で家は貧しくて入院費を踏み倒しているのも気にならないようだった。僕が足のリハビリ中にわざと彼女に抱きついても平気だった。服の上から確かめる限り、彼女はなかなかのナイスバディだった。顔も悪くない、むしろ良い方だと思う。可憐といってもいい。年齢を聞いたら十九歳だという。それなのにボーイフレンドと遊ぶ様子もなく、日曜日も含めた一週間というもの、ずっと薄暗い病室で退屈な病人の世話ばかりしている。
「アリシアはボーイフレンド居ないの?」と俺は聞いてみた。足のリハビリのために俺を抱きかかえていたアリシアは「居ないわ」と短く答えた。ふと彼女の瞳が曇ったように感じたので「どうして居ないんだい?」と続けて聞いてみた。アリシアは沈黙して「イアンはガールフレンド居るの?」と反対に聞き返してきた。俺は…ガールフレンドならたくさんいた。毎晩とっかえ引っ変えしていた。でも病室に見舞いに来てくれるような娘はいなかったと軽く答えた。
アリシアは笑わなかった。「私は男の人と付き合ったことはないの。でも処女じゃない。」俺は笑えなかった。重苦しい沈黙が襲ってきて、黴臭い病院の空気をいっそう不快にした。「外が見たいな」俺はしばらく歩くと呟いた。アリシアは「エレベーターが壊れているから、屋上に行くには階段を登ることになるわ」といった。階段の上り下りはリハビリの中でも大変で大嫌いだった。「行く?」その時の俺はどうしても外の空気が吸いたかった。俺を支えて階段を上るアリシアはだんだん汗ばんできて、いつもの白いシャツから下着が透けて見えそうだった。彼女はいつも同じ格好だった。ぱりっとした白いシャツに黒いタイトスカート。髪をまとめてアップスタイルにして黒いバレッタで止めていた。靴は合皮で少しヒールのある黒い靴。それでてきぱきと動いて様々な用事をこなしていた。
「医院長は親戚なんだって?」俺は足のだるさを誤魔化すために話しかけた。この病院の医者は一人しかいないくせに医院長といわないと不機嫌になるのだ。「そうよ」俺を引き上げながらアリシアは答えた。「父方の祖父の弟の息子のいとこの母親の姉の息子」彼女は一息で言った、本当に親戚か疑わしい。聞くたびに数や順番が変わるのだ。面白がって俺が何回も聞くからどんどん増えていった。「本当は他人だろ?」俺は意地悪く聞いた「でも、家族よりマシだわ」アリシアは無表情に答える、違いない。「脚、ちゃんと上げて」言われて俺は足に力を込める。「雪山の登山とかこんな感じなのかな」やせ細った脚の筋肉にギブスと身体が重い。「そうね、ちょっとしたエベレスト気分ね」彼女は聞いたところ本当に看護師の資格を持っているらしい。ちゃんとした所に勤めることだってできるだろうに、どうしてこんな所にいるのか不思議だった。
俺の脚が悲鳴を上げて、アリシアから叱咤激励を受けてやっと屋上に着いた。
この病院に来て初めて外に出たというのに、ちっぽけなビルの屋上はもっと大きなビルに囲まれていて青空は遠く狭かった。「大した景色だね」俺は肩で息をしながら、やりきれない気持ちで呟いた。「あのビルの隙間から夕日が見えることもあるのよ」アリシアは取り囲んでいるビルの隙間の一つを指差して言った。あんな狭い隙間から一瞬光が射したって、一体それが何だというのだろう。病院の屋上には壊れかけたベンチがあった。綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出したアリシアはそれでベンチの汚れを拭き取り、そこに俺を慎重に座らせた。「タバコ吸いたいな」俺は無茶を言う。タバコは駄目なのよとたしなめられると「じゃあオッパイ見せて」ともう一つわがままを言った。アリシアは困った顔をして俺を見つめていた。「俺のは見せてるじゃん」朝と夕方、俺の体をタオルで拭いてくれるのはアリシアだった。小便をしたくなった時に助けてくれるのもアリシアだった。
アリシアはため息をつくと「胸に火傷があるのよ」「それでも見たい?」と聞いてきた。思わぬ返答に俺は思いっきり頷いていた。彼女は俺の真ん前にやって来て「じゃあ自分でボタンを外して」と胸を突き出した。やられたと俺は思った。これもリハビリの一環にするつもりなのだ。俺は悔しいので重たい腕を上げ、強ばった指先で彼女のシャツのボタンに触れた。思うように触れない。見えているのに手がちゃんと動いてくれない。このもどかしさが大嫌いだった。アリシアを見るとここぞとばかりに色っぽい流し目をくれる。小一時間、頑張ったもののボタン一つ外すことはできなかった。
「また今度ね」アリシアは疲れ果てた俺を抱えて、屋上の階段を一歩ずつ降りていった。俺が一歩出すごとにアリシアの体が強ばるのがわかった。階段は降りる時の方が危ない、それにアリシア一人で俺の全体重を支えるのは難しい。「慎重にね…」俺よりも自分に言い聞かせるようにアリシアは何度もいった。最後の段を降りるとやっと彼女の顔に微笑みが浮かんだ。「ボタンのこと、誰にでもするって思わないでね。」俺を病室のベッドに寝かせるとアリシアはそう囁いた。
俺とアリシアの秘密のリハビリは続いた。若い男にはこれが一番効くと彼女は踏んだのか、積極的に自分のシャツのボタンを外すように促した。彼女の読みは正しくて、俺はそれに夢中になった。腕や指がだるくて、だるくてどうにも気分が悪くても胸の谷間とブラジャーのレースが覗くと疲れが吹き飛んだ。アリシアは気を利かしたのか色々な下着を着けて来てくれた。何日かしてアンダーバストの辺りまでボタンを外せるようになっても、アリシアのいった“火傷”は見えなかった。シャツのボタンを全部外せるようになっても、それは解らなかった。アリシアは「ブラに隠れて見えないのよ」と涼しい顔をしている。今度はシャツを脱がしてブラを外すことが課題になった。シャツを脱がすことはボタンを外すより簡単だった、この頃になると俺の手は一人でなんでも出来るくらい回復していた。飯を食うのも着替えをするのもアリシアの手を煩わせなくてすんだ。アリシアが考えたボタン外しのリハビリはもう十分な成果が出ていたのだ。それなのに彼女は、俺がもう一歩近づくことを許してくれた。
俺は難関の背中にあるブラのホックに指をかけた。アリシアの背中は綺麗だった、ホックは布ごと背中にピタリと張り付いていた。俺はこの人生で1センチに満たない金具をこんなに憎んだことはない。アリシアはブラのカップが落ちないように腕で押さえながらクスクス笑っていた。三十分ばかり格闘してやっとホックを外したとき、俺は達成感に打ち震えた。アリシアはそんな俺に向き直ると、「どうぞ」とばかりに眉と瞳で合図した。俺はブラの肩紐に指を滑り込ませた。両肩から紐が落ちるとブラのカップが傾いた。火傷の痕はまだ見えない。恐る恐る俺はブラのカップをつまんで持ち上げた。
白くてやわらかい肉が彼女の両腕の中でこぼれた。形も大きさも惚れ惚れするくらい美しい胸だった。火傷の跡どころかシミ一つない肌に青く血管が透けて見えた。「すごく綺麗じゃないか!」俺は驚きと騙された悔しさで彼女をにらみつけた。その瞬間、彼女の顔が真っ赤なことに気づいた。彼女は俺の手からブラジャーをひったくると俺に背を向けそれを手早く付けた。綺麗にアイロンが当たった白いシャツのボタンをいつものように首まできちんと閉め「これで気が済んだ?」と聞き、答えを待たずに病室を出ていった。俺はぽつんと一人、部屋に残された。
「そろそろ退院しても大丈夫だろう。」そう医院長が告げた。あと一週間様子を見て問題がないようなら退院。とカルテに書きつけた。俺はというとアリシアの胸ばかり頭にちらついている。アリシアは何ごとも無かったように、変わらず俺に接する。毎日、淡々と雑務をこなしているアリシアに、俺はたまらず聞いた「どうして火傷があるなんていったんだ?」彼女はパソコンの画面から頭をあげ、俺を冷ややかに見ると「火傷はあるのよ、胸じゃないだけ」といった。どこに?という俺をさえぎって「男の人って好きな女の人の体に傷があっても、その人を好きでいられるかしら?」と呟いた。「その人によるんじゃないか?」といいながら、俺は手術の痕がミミズ腫れのように残った自分の体を思い出して「俺は気にしないけど」と付け加えた。
「すごく大事な場所でも?」アリシアが真顔で俺を見つめた。俺が言葉に窮すると、彼女はパソコン画面に目を落としながらすごい速さでタイピングした。これがブラインドタッチかなと俺が見ていると「私のお母さんはアイロンかけの名人だったの。いつも部屋の布は清潔でアイロンが当たっていて、シャツも皺一つなくて…」と話し始めた。「二人目のお父さんが家に来た時、私は十一歳だった」「私に手を出したのは、そのお父さんだった。お母さんの目を盗んで、日常的に…」「でも、お母さんが私と義父の関係を知った時、お母さんは私を叱ったの」「お前が誘惑したんだって、それで自慢のアイロンを私に押し当てたの」アリシアはパソコンから目を離さずにそこまで一気に話すと、チラとこちらを見た。「あなたは私を軽蔑する?」俺はNOの意思表示をした。彼女の目が潤んだ。
「激痛で私は死ぬんじゃないかって思った、義父が気づいてお母さんをひっぱたくまで、お母さんは手を止めなかった」「すぐに病院に連れて行かれて児童虐待だってことになって、お母さんと義父から離された。結果的にお母さんは私を義父から救ってくれたの」「養護施設に入って私は必死で勉強した、昔のことを忘れるにはそれしか無かったの。おかげで看護師の資格も取れた。」ふうとため息をついて彼女はタイピングを終えた。遠くでプリンターの音がする。
「あなたはもうすぐ退院なのね」プリントされた用紙を見ながら、彼女は普段の彼女に戻ろうとしていた。引き止めたのは俺だ「どうして…その…俺に…見せたんだ?」
アリシアはてきぱきと用紙をファイルに入れ、棚に戻し、別のファイルを持って椅子に腰掛けながらいった。「昔、私はここの患者さんを好きになったことがあるの」「その人はマフィアに恋人を取られたとかでね、銃弾を受けて担ぎ込まれたの」「憎しみで心がいっぱいになっていて、私のことなんか見てくれなかった」「その人は恋人を救うために早く退院したいって言っていて、私は彼の望みを叶えたくて必死で手伝った」「だけど退院してすぐ、彼は死体になってしまった。恋人も麻薬で廃人になっていて助からなかった。」「私は今でも、あの時どうすれば彼を助けられたのか考えてしまう…」そうして彼女は目を閉じて深くため息をつくと、こういった。
「あなたを見たとき、彼のことを思い出したの」
しばらくして俺は退院した。医院長は名医だったのか、俺は前のように動くことができた。俺の治療費は莫大で、一生かかっても払えないんじゃないかと思った。それをわかってか医院長は無理に払わなくてもいいといっていた。アリシアもいつでも遊びに来て欲しいといっていた。俺は自分の家に帰らなかった。昔の仲間とも連絡を取らなかった、いちからやり直そうと思った。安い時給だがまともなバイト先を見つけて働いた、嫌な奴がいても我慢した。とにかく金が欲しかった。起きている時間は働いて、金を作って治療費を払った。いつか全額払えたら、暇そうな日曜日にアリシアをデートに誘いたいと思っていた。あんな狭い空じゃなくて、大きな公園かどこかで一緒に夕日を見たかった。
だけど昔の悪い仲間が俺をみつけた。金になる話があるって、金に困っていた俺を誘った。ある男を撃てばいい。ズドンと一発、それだけで給料半年分の金がもらえる。そういって俺に拳銃を渡した。だから俺は今、夜更けのスラム街である人間を待っている。
数ヶ月前アリサのボタンにかけていた指は今、拳銃の引き金にかかっていた。
<了>
2013年3月5日
目を覚ますと病室の中だった。
僕は病院のベッドに身を横たえ、呼吸を補助する装置をつけていた。
ぼんやりとした頭に少しずつ記憶が戻ってくる。
僕は自転車に乗っていた、友達の家に行くために横断歩道を渡ろうとしていた、そこにトラックが曲がって来たのだ。それからの記憶はブツ切れになる。
悲鳴のようなブレーキ音が聞こえた気がする。風景が回転して地面が耳の真横についた。
足に何とも言えない感触が走った。人が集まってきた、車がやってきた。僕は…。
「気づいたのね」
すぐそばで鈴を鳴らすような声がした。
「気分はどう?」
僕は目をうんと寄せて声のする方を見た。首がガチガチに固まっている。ギブスがはめられているみたいだ。声の主は僕の方に顔を寄せてきた。「まだ動かないほうがいいわ」そう言いながら僕の顔や手足を触る。僕の目はなかなか焦点が合わない。最初に見えたのはボタン、シャツの胸元のボタンだった。病室のベッドのシーツと同じ素材なんじゃないかと思うような真っ白なシャツ、そのはちきれそうな胸元をしっかり止めたプラスティックの半透明のボタン。僕がこの病院で最初に目にしたのはそんな風景だった。
そこは小さな病院だった、医者が一人、看護師が一人、コンクリートの灰色が薄汚れたビルのワンフロアに病院をかまえていた。僕に声をかけた女性はそこのたった一人の看護師だった。僕の容態は悪くずいぶん長く生死をさまよっていたらしい。僕を轢いたトラックはそのまま逃げ去って行方知れずということだった。僕は軽い記憶喪失になっていて、自分の名を思い出すのに数日かかった。僕の名はイアン・レトリックという。
患者が少なかったことが幸いして、僕は一番いい病室に入れてもらっていた。白いカーテンに遮られた清潔なベッドのある大きめの個室。設備も一番多く入っていて、この病院に一台しかない機械類が勢ぞろいしていた。
僕の脚は複雑に折れてしまっていて歩けるかどうか難しいところらしい。もっと困ったのは両手で、感覚が麻痺してしまい、物を掴むことはおろか持ち上げるのも大変だった。地獄のようなリハビリが僕を待っていた。
「イアン、頑張って」僕の腕を支えてスプーンを掴ませてくれるのは看護師のアリシアだった。最初に病室にいたのも彼女で、目を覚まさない僕をつきっきりで看病してくれたのも彼女だった。
「自分で食べられるようにならないと、今日のご飯は無しよ」そうやって彼女はいつも脅す。だけどそれは嘘だった、彼女はリハビリの最後にいつもちゃんと食べさせてくれる。「早く動くようになるといいわね」彼女は僕の手を愛おしそうに撫でて、食事が済むと食器を片付けて病室を出ていく。
病院の医師は六十歳になろうかという髭の生えた老人だった。僕の病室を訪れては容態を見る。この病院には現在三人の入院患者がいるそうだ。一人は少しばかりボケた老人。もう一人はノイローゼの患者。どっちも家族に持て余されて体良くこの病院に放り込まれているらしい。三人のうち一番の重症な患者は僕だったが一番金にならないのも僕だった。僕はだんだんと記憶を取り戻していった。僕は手の付けられない悪ガキだったらしい。オヤジや母親に殴られては、腹いせに弟や妹を殴っていた。事故の時に乗っていた自転車は盗品で、僕が事故を起こしたときにオヤジは「そのまま死んでしまえばよかったのに」といって手術代や入院費の支払いを拒否したそうだ。
白いベッドに横たわって、僕はぼんやりと病室の天井を見上げた。手足の感覚がない、これで飛んだり跳ねたり、気に入らない奴を殴ったり、バスケをしたり、万引きしたり、走り回っていたなんて嘘のようだった。だんだん自分の記憶を取り戻すと、このまま寝たきりで看護師のアリシアの世話になるのも悪くないなと思うようになった。
アリシアは逆に看護師らしくリハビリを進めた。僕がワルだったのも、家族関係が最悪で家は貧しくて入院費を踏み倒しているのも気にならないようだった。僕が足のリハビリ中にわざと彼女に抱きついても平気だった。服の上から確かめる限り、彼女はなかなかのナイスバディだった。顔も悪くない、むしろ良い方だと思う。可憐といってもいい。年齢を聞いたら十九歳だという。それなのにボーイフレンドと遊ぶ様子もなく、日曜日も含めた一週間というもの、ずっと薄暗い病室で退屈な病人の世話ばかりしている。
「アリシアはボーイフレンド居ないの?」と俺は聞いてみた。足のリハビリのために俺を抱きかかえていたアリシアは「居ないわ」と短く答えた。ふと彼女の瞳が曇ったように感じたので「どうして居ないんだい?」と続けて聞いてみた。アリシアは沈黙して「イアンはガールフレンド居るの?」と反対に聞き返してきた。俺は…ガールフレンドならたくさんいた。毎晩とっかえ引っ変えしていた。でも病室に見舞いに来てくれるような娘はいなかったと軽く答えた。
アリシアは笑わなかった。「私は男の人と付き合ったことはないの。でも処女じゃない。」俺は笑えなかった。重苦しい沈黙が襲ってきて、黴臭い病院の空気をいっそう不快にした。「外が見たいな」俺はしばらく歩くと呟いた。アリシアは「エレベーターが壊れているから、屋上に行くには階段を登ることになるわ」といった。階段の上り下りはリハビリの中でも大変で大嫌いだった。「行く?」その時の俺はどうしても外の空気が吸いたかった。俺を支えて階段を上るアリシアはだんだん汗ばんできて、いつもの白いシャツから下着が透けて見えそうだった。彼女はいつも同じ格好だった。ぱりっとした白いシャツに黒いタイトスカート。髪をまとめてアップスタイルにして黒いバレッタで止めていた。靴は合皮で少しヒールのある黒い靴。それでてきぱきと動いて様々な用事をこなしていた。
「医院長は親戚なんだって?」俺は足のだるさを誤魔化すために話しかけた。この病院の医者は一人しかいないくせに医院長といわないと不機嫌になるのだ。「そうよ」俺を引き上げながらアリシアは答えた。「父方の祖父の弟の息子のいとこの母親の姉の息子」彼女は一息で言った、本当に親戚か疑わしい。聞くたびに数や順番が変わるのだ。面白がって俺が何回も聞くからどんどん増えていった。「本当は他人だろ?」俺は意地悪く聞いた「でも、家族よりマシだわ」アリシアは無表情に答える、違いない。「脚、ちゃんと上げて」言われて俺は足に力を込める。「雪山の登山とかこんな感じなのかな」やせ細った脚の筋肉にギブスと身体が重い。「そうね、ちょっとしたエベレスト気分ね」彼女は聞いたところ本当に看護師の資格を持っているらしい。ちゃんとした所に勤めることだってできるだろうに、どうしてこんな所にいるのか不思議だった。
俺の脚が悲鳴を上げて、アリシアから叱咤激励を受けてやっと屋上に着いた。
この病院に来て初めて外に出たというのに、ちっぽけなビルの屋上はもっと大きなビルに囲まれていて青空は遠く狭かった。「大した景色だね」俺は肩で息をしながら、やりきれない気持ちで呟いた。「あのビルの隙間から夕日が見えることもあるのよ」アリシアは取り囲んでいるビルの隙間の一つを指差して言った。あんな狭い隙間から一瞬光が射したって、一体それが何だというのだろう。病院の屋上には壊れかけたベンチがあった。綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出したアリシアはそれでベンチの汚れを拭き取り、そこに俺を慎重に座らせた。「タバコ吸いたいな」俺は無茶を言う。タバコは駄目なのよとたしなめられると「じゃあオッパイ見せて」ともう一つわがままを言った。アリシアは困った顔をして俺を見つめていた。「俺のは見せてるじゃん」朝と夕方、俺の体をタオルで拭いてくれるのはアリシアだった。小便をしたくなった時に助けてくれるのもアリシアだった。
アリシアはため息をつくと「胸に火傷があるのよ」「それでも見たい?」と聞いてきた。思わぬ返答に俺は思いっきり頷いていた。彼女は俺の真ん前にやって来て「じゃあ自分でボタンを外して」と胸を突き出した。やられたと俺は思った。これもリハビリの一環にするつもりなのだ。俺は悔しいので重たい腕を上げ、強ばった指先で彼女のシャツのボタンに触れた。思うように触れない。見えているのに手がちゃんと動いてくれない。このもどかしさが大嫌いだった。アリシアを見るとここぞとばかりに色っぽい流し目をくれる。小一時間、頑張ったもののボタン一つ外すことはできなかった。
「また今度ね」アリシアは疲れ果てた俺を抱えて、屋上の階段を一歩ずつ降りていった。俺が一歩出すごとにアリシアの体が強ばるのがわかった。階段は降りる時の方が危ない、それにアリシア一人で俺の全体重を支えるのは難しい。「慎重にね…」俺よりも自分に言い聞かせるようにアリシアは何度もいった。最後の段を降りるとやっと彼女の顔に微笑みが浮かんだ。「ボタンのこと、誰にでもするって思わないでね。」俺を病室のベッドに寝かせるとアリシアはそう囁いた。
俺とアリシアの秘密のリハビリは続いた。若い男にはこれが一番効くと彼女は踏んだのか、積極的に自分のシャツのボタンを外すように促した。彼女の読みは正しくて、俺はそれに夢中になった。腕や指がだるくて、だるくてどうにも気分が悪くても胸の谷間とブラジャーのレースが覗くと疲れが吹き飛んだ。アリシアは気を利かしたのか色々な下着を着けて来てくれた。何日かしてアンダーバストの辺りまでボタンを外せるようになっても、アリシアのいった“火傷”は見えなかった。シャツのボタンを全部外せるようになっても、それは解らなかった。アリシアは「ブラに隠れて見えないのよ」と涼しい顔をしている。今度はシャツを脱がしてブラを外すことが課題になった。シャツを脱がすことはボタンを外すより簡単だった、この頃になると俺の手は一人でなんでも出来るくらい回復していた。飯を食うのも着替えをするのもアリシアの手を煩わせなくてすんだ。アリシアが考えたボタン外しのリハビリはもう十分な成果が出ていたのだ。それなのに彼女は、俺がもう一歩近づくことを許してくれた。
俺は難関の背中にあるブラのホックに指をかけた。アリシアの背中は綺麗だった、ホックは布ごと背中にピタリと張り付いていた。俺はこの人生で1センチに満たない金具をこんなに憎んだことはない。アリシアはブラのカップが落ちないように腕で押さえながらクスクス笑っていた。三十分ばかり格闘してやっとホックを外したとき、俺は達成感に打ち震えた。アリシアはそんな俺に向き直ると、「どうぞ」とばかりに眉と瞳で合図した。俺はブラの肩紐に指を滑り込ませた。両肩から紐が落ちるとブラのカップが傾いた。火傷の痕はまだ見えない。恐る恐る俺はブラのカップをつまんで持ち上げた。
白くてやわらかい肉が彼女の両腕の中でこぼれた。形も大きさも惚れ惚れするくらい美しい胸だった。火傷の跡どころかシミ一つない肌に青く血管が透けて見えた。「すごく綺麗じゃないか!」俺は驚きと騙された悔しさで彼女をにらみつけた。その瞬間、彼女の顔が真っ赤なことに気づいた。彼女は俺の手からブラジャーをひったくると俺に背を向けそれを手早く付けた。綺麗にアイロンが当たった白いシャツのボタンをいつものように首まできちんと閉め「これで気が済んだ?」と聞き、答えを待たずに病室を出ていった。俺はぽつんと一人、部屋に残された。
「そろそろ退院しても大丈夫だろう。」そう医院長が告げた。あと一週間様子を見て問題がないようなら退院。とカルテに書きつけた。俺はというとアリシアの胸ばかり頭にちらついている。アリシアは何ごとも無かったように、変わらず俺に接する。毎日、淡々と雑務をこなしているアリシアに、俺はたまらず聞いた「どうして火傷があるなんていったんだ?」彼女はパソコンの画面から頭をあげ、俺を冷ややかに見ると「火傷はあるのよ、胸じゃないだけ」といった。どこに?という俺をさえぎって「男の人って好きな女の人の体に傷があっても、その人を好きでいられるかしら?」と呟いた。「その人によるんじゃないか?」といいながら、俺は手術の痕がミミズ腫れのように残った自分の体を思い出して「俺は気にしないけど」と付け加えた。
「すごく大事な場所でも?」アリシアが真顔で俺を見つめた。俺が言葉に窮すると、彼女はパソコン画面に目を落としながらすごい速さでタイピングした。これがブラインドタッチかなと俺が見ていると「私のお母さんはアイロンかけの名人だったの。いつも部屋の布は清潔でアイロンが当たっていて、シャツも皺一つなくて…」と話し始めた。「二人目のお父さんが家に来た時、私は十一歳だった」「私に手を出したのは、そのお父さんだった。お母さんの目を盗んで、日常的に…」「でも、お母さんが私と義父の関係を知った時、お母さんは私を叱ったの」「お前が誘惑したんだって、それで自慢のアイロンを私に押し当てたの」アリシアはパソコンから目を離さずにそこまで一気に話すと、チラとこちらを見た。「あなたは私を軽蔑する?」俺はNOの意思表示をした。彼女の目が潤んだ。
「激痛で私は死ぬんじゃないかって思った、義父が気づいてお母さんをひっぱたくまで、お母さんは手を止めなかった」「すぐに病院に連れて行かれて児童虐待だってことになって、お母さんと義父から離された。結果的にお母さんは私を義父から救ってくれたの」「養護施設に入って私は必死で勉強した、昔のことを忘れるにはそれしか無かったの。おかげで看護師の資格も取れた。」ふうとため息をついて彼女はタイピングを終えた。遠くでプリンターの音がする。
「あなたはもうすぐ退院なのね」プリントされた用紙を見ながら、彼女は普段の彼女に戻ろうとしていた。引き止めたのは俺だ「どうして…その…俺に…見せたんだ?」
アリシアはてきぱきと用紙をファイルに入れ、棚に戻し、別のファイルを持って椅子に腰掛けながらいった。「昔、私はここの患者さんを好きになったことがあるの」「その人はマフィアに恋人を取られたとかでね、銃弾を受けて担ぎ込まれたの」「憎しみで心がいっぱいになっていて、私のことなんか見てくれなかった」「その人は恋人を救うために早く退院したいって言っていて、私は彼の望みを叶えたくて必死で手伝った」「だけど退院してすぐ、彼は死体になってしまった。恋人も麻薬で廃人になっていて助からなかった。」「私は今でも、あの時どうすれば彼を助けられたのか考えてしまう…」そうして彼女は目を閉じて深くため息をつくと、こういった。
「あなたを見たとき、彼のことを思い出したの」
しばらくして俺は退院した。医院長は名医だったのか、俺は前のように動くことができた。俺の治療費は莫大で、一生かかっても払えないんじゃないかと思った。それをわかってか医院長は無理に払わなくてもいいといっていた。アリシアもいつでも遊びに来て欲しいといっていた。俺は自分の家に帰らなかった。昔の仲間とも連絡を取らなかった、いちからやり直そうと思った。安い時給だがまともなバイト先を見つけて働いた、嫌な奴がいても我慢した。とにかく金が欲しかった。起きている時間は働いて、金を作って治療費を払った。いつか全額払えたら、暇そうな日曜日にアリシアをデートに誘いたいと思っていた。あんな狭い空じゃなくて、大きな公園かどこかで一緒に夕日を見たかった。
だけど昔の悪い仲間が俺をみつけた。金になる話があるって、金に困っていた俺を誘った。ある男を撃てばいい。ズドンと一発、それだけで給料半年分の金がもらえる。そういって俺に拳銃を渡した。だから俺は今、夜更けのスラム街である人間を待っている。
数ヶ月前アリサのボタンにかけていた指は今、拳銃の引き金にかかっていた。
<了>
2013年3月5日