昨日のコミュニティー研究会(仮)のことを思い出して、
浮かんできたことをメモっておく。


昨今、多様性の時代とか言われる。
私の感覚では、昔から多様であったように思う。
が、時代?社会?が単一を求めた。
たぶん多様が受け入れられなかった理由は、
多様であるとめんどくさいから・・・


大量生産が求められた時代。
同じものを同じようにたくさん作る過程では、
多様性は必要されない。
それよりも単一であるほうがよしとされる。
ゆえ、社会からも多様性は影を潜めていたように思う。

で、今度は、大量生産がうまいこといき、
物が大量に溢れるようになった。
となると、単一であることにあまり価値がなくなる。
今度は多様である必要がでてくる。
ゆえ、多様性の時代とか言っちゃってるような気がする。


「なにいってんの?昔から多様だったじゃーん!」
と声を大にして言いたい。笑
本来は多様であったけど、
単一であるように動いていただけのこと。
そのほうがはるかに意味があると思われていた時代。


社会が単一であったから、
「右を向けー」とリーダーが権力的に叫び、
みんなが何も考えずに右を向く。
それでよかった。それがよかった。
それが求められるリーダーの姿であった。

が、単一の社会ではやっていけなくなったので、
多様であることが必要になった。
多様であると、「右を向けー」と叫んだところで、
右以外を向く人が出てくる。
そもそも、向かないなんて人もいるだろう。
というわけで、リーダー像も変化するだろう。
多様性の時代とは、新しく多様性の時代となったわけではない。
多様性が表立ってきた時代という意味であって、
むか~し昔から多様であったのだ!
そのことがどうも忘れられがちな気がする・・・


リーダーの話をするときによく出てくる、男性性、女性性においても同様。
どちらも昔からある。
その時代において、バランスや組み合わせが変わるだけのこと。
新しいものがはじまるわけではない。


単一(もしかして画一のほうが正しいかしら?)ではなく、多様な時代。
男性性、女性性ではなく、両性的な時代。
いろいろといわれているが、
共通しているのは、本来の姿に戻るということではあいかと思う。
今まで押し込められていた各自の本来持っているものを、
ありのままで在る時代となる。
私はこれを「本質的な時代」と呼びたい。
(呼びたいって言っておきながらなんだけど、今ふと思っただけ。笑)

本質的な時代で大切なことは、本質的なことな気がする。
この本質。
新たに学び得る必要はない。
もうすでにひとりひとりの中にある。
ただそれを思い出すことが必要である。


私たちはすでに持っている☆