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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、前回の記事の続きです。
前回の記事では、問題から距離を置こうとする臆病さについて書きました。
そこに横たわっているのは、アドラー心理学で言うところの「距離の問題」であり、それは、人が人生の三つの課題からどれほど離れているかによってその人を判断する基準となる一つの視点である、ということも書きました。
そして、この視点を基に人を判断した場合に、明らかになる根本特徴は、一般に、人が自分と自分の課題との間に多かれ少なかれ大きな距離を置く、という特徴であり、そうした状況をさらに詳しく観察してみると、こうしたケースすべての背後には、これらの影の面と並んで光の面もある、ということが分かるのだ、ということも書きました。
光の面の無意味さ
それは、その人が、その光の面があるがゆえにのみ、こうした立場を選んだのだ、ということが確定され得ることを現しています。
つまり、まったくの準備なしに、ある課題に取り組むという場合には、自己感情や個人的な虚栄心というものが動かされないままである、という酌量すべき事情があるということです。
この事情はずっと確かなものであり、その人は、自分の下に網が張られていることを知っていながら綱渡りをしているようなものなのです。
例え落ちたとしても安全なわけです。
どういうことかと言うと、準備なしに課題に向かうことになり、それをやり遂げることができなかったとしても、いろいろな理由からあまりどうすることもできなかったのだ、と言うことが確かにできる、ということです。
つまり、
「もう遅すぎたのだ」とか、
「始めたのが遅かったのだ、さもなければ、その仕事は素晴らしい成功に達していたはずだ」
などと言えるのです。
それは、その人自身の人格のためではなく、何かの些細な、付随的な事情のおかげであり、それには、当事者は何の責任もないのです。
しかし、それにも関わらず、その仕事が成功した場合には、そのときには、その価値はもっとずっと大きくなります。
なぜなら、もしある人が熱心に自分の課題に取り組み、それに成功したとしても、誰もそれを特別なことだとは思わないだろうからです。
それは、もともと当然のことなのです。
しかし、その人がそれを遅く始め、ほんのわずかしか仕事をせず、それにも関わらず、その課題を解決したとすれば、そしてそれは、あり得ることなのですが、その人の立場は、まったく別のものになります。
その人は、言わば、二重の意味で英雄なのです。
なぜなら、他の人なら両手を使うことが必要であるようなことを、その人は、片手で成し遂げたことになるからです。
それゆえ、これが、この回り道主義の光の面なのです。
この続きは、次回に書きます。
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